点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

記事タイトルで質を騙さないとブログなんて読んでくれない

タイトルの付け方を変えようと思っている。

「〇〇について」というタイトルの付け方をここ数カ月にわたってしている。それまでは何かとタイトルを考えるのに時間を掛けていた。どれだけ時間を割いても、これいいじゃんと思えるような、魅力的なタイトルを付けられた試しがなかった。それが煩わしくなったので、タイトルにテンプレートを作ってみようと考えた。それが間違いだった。

シンプルなタイトルで、あまり飾り気を出さずに、謙虚な姿勢を出せる表現は無いかなと考えた結果が、「〇〇について」というものだった。ショーペンハウエル岩波文庫から出ている著作っぽいし、かっこよくない?と思った。それに、僕の文章はよく脱線するなぁと思っていたので、「〇〇について」というタイトルにすれば、内容を一つのテーマに絞り、まとまりを持たせることができると思ったからだ。予想は裏切られた。

結局、タイトルが変わっただけで記事の内容が充実するはずもなく、相変わらずの脱線と、机上の空論にまみれた中身スカスカの記事が量産された。また、どうやってこの文章を多くの人に読ませてやろうという気力も無くなっていた。モチベーションは下がる一方だったのだ。

そこで、このブログの目的を振り返ってみようと考えた。

当ブログは運営者である僕の個人的な考え事や本を読んで感じたことなど、未だに点でしかない情報をブログにドンドン打っていき、線で結んで新しい認識を作っていけたらいいな〜という意識高めのミッションを看板とし、実際には読書仲間や映画仲間、趣味を共有できる人脈を作ってやろうという、超個人的な願望を達成するために運営されているのだ。人脈を作ることも含めて、もう少し広い意味あいをカバーする言い方に変えるならば、「趣味を深めるため」にブログを運営している

そういえば前職から現在の職につくまでの間の迷走期間中に「ブログは公開オナニーだ」ということを、まさしくこのブログで書いた。今もその意見は変わっていない。自分勝手にシコシコ考えた妄想や想像を、自己責任で、全世界の人が閲覧できる環境であるインターネットというドドメ色のプールに放流しているのだ。世のブロガーなる方々は、ドドメ色のプールに放流するものを、キラリと光るダイヤモンドにしようと努力している。それを怠ったのだ。ブログという土俵で自分の意見を発表するマナーを守っていなかった。

そもそも仲間を増やすには、読まれる記事を書かねばなるまい。読まれる記事の大前提は何か?と考えた時、とりあえず目を通してもらえることが重要になることは間違いない。もちろん中身は重要だ。しかし、ぶっちゃけ、タイトルが良かったらその記事の中身が面白かろうがつまらなかろうが、なんだかんだ最後まで読んじゃうのがブログだ。記事の見た目や第一印象というのは、質よりももっと大事なのだ。見た目、第一印象が悪い記事をTwitterFacebookにシェアしたところで、誰が見てくれるだろう。

「〇〇について」というタイトルの付け方について反省すべき点は、まだある。このタイトルの付け方一本でいく方針は、自分にはまだ早かったのだ。このようなタイトルをつけられる記事は限られる。ある程度、社会から価値を認められた人が、「え!?この人が〇〇について書いてるの!?」という興味関心を作り出す場合など、書き手がある程度の権威性を持っていなければ効力を発揮しない。

博覧強記のショーペンハウエルという人が、「読者について」書いてある本だから手に取る。そういう意味では、僕が「〇〇について」というシンプルなタイトルをつけられる日は来ないかもしれない。凡人以下である僕は、一生懸命に目を引くキャッチーなタイトルをつけ、堂々と公開自慰をする人になる覚悟をしなければならない。「〇〇について」などと、それだけでは中身が想像できないようなタイトルをつけて、お高くとまってはいかんのだ。この人が書く文章は絶対面白い!というバリューがつくまでは、面白いタイトルで質を騙すしかない。

ブログは、ニュースサイトやマスメディアと違って、情報の正確さやありもしない中立性を求められない。いや、本当は正確な方がいいし、極端な意見を書いたら敵が出てきて面倒なので、角の立たないような優しい表現を使うスキルは必要かも知れないけれど。しかし、そんなことを気にするのは割に合わない、と思い始めている。ほとんどのブログ記事は、読まれずにネットの藻屑となる。読んでも読まなくてもいい情報ばっかり書かれていると思われているからだ。

社会に役立つ情報を発信するには、池上彰さんや佐藤優さんのように、毎日異なる新聞を10紙ほど目を通し、毎日3〜6時間読書をし、ネットに出回っている情報の真偽を自分の持てるスキルで選別し、猫を愛し、リベラルアーツセンターで教鞭を振るうくらいにならなければ、役に立つ情報を発信してくれる人であると社会からは認められないのだ。

どうでもいい話題を、よく練りもしないままにテキストボックスにぶつけて、それをどうぞ見てくれ!とはおこがましい。まずは想定読者層に対して魅力的なタイトルを見せて、最初の数行までは気を使ってあげなければならない。尻尾を振らねばならない。凡人がモテるためには、モテる努力をしなければならないのだ。少しでも趣味を分かち合える人を作るべく、今後タイトルにも気を使って記事をシコシコ書いていく。

タイトルに騙された!と思われないように、記事の質もあげていかないとなぁ…と、綺麗事でもって締め括る。

みなさま良いお年を。来年も「点の記録」を何卒よろしくお願い致します。

『僕らが毎日やっている最強の読み方』について

 『僕らが毎日やっている最強の読み方』

ビジネス、リベラルアーツ、教養……この手のジャンルの2大スター、池上彰さんと佐藤優さんが、日常使っている情報の読み方を伝授してくれるらしい。タイトルを見る限り、新聞、雑誌、ネット、書籍から「知識と教養」が身につくという。

ビジネス本から足を洗ったような発言を過去にしておきながら、「買ってるじゃん!」というAchelouだが、買ってしまった。面白そうだったから……つい……。

世の中のできごとに対してコメントしている人たちが、普段どのように情報をインプットしているのかということについては純粋な疑問を持ったため、購入しちゃった。タイトルのキャッチーさがいいじゃないですか。The ビジネス本。

新聞の読み方がすごい。確かに最強かもしれない。両者とも新聞は定期購読をしているものが10紙以上ある。購読料にして最低でも¥25,000~¥30,000だ。更に雑誌、読書大合わせたら我々の生活費分は情報入手にお金を使っている可能性がある。これ普通にフルタイム勤務の人は真似出来ないよな。と思っていたら前書きにこうある。

池上 ただ、ここで紹介する方法をいっきにすべて実践しようとはしないほうがいいかもしれませんね。意気込みすぎて途中で挫折してしまうパターンは、意欲の高い人ほど陥りやすい罠です。 

(中略)

佐藤 特にこの本を手にとるような向上心のあるビジネスパーソンは日々忙しく、インプットのために使える時間も限られているでしょう。まず全体に目を通してから、自分に必要な部分を強化していってほしいですね。

書いてある内容結構すごすぎて、すぐに真似してみよう!と思えるところ、少ない気がする。

全体的な感想としては、彼らのような情報処理の仕方ができれば、間違いなく優秀なビジネスマン……ではなくジャーナリストとか作家になれそうだな、と思えました。

ジャーナリストになりたい人向け

情報の精査という能力は、確かにビジネスに使えるのかもしれない。前書きの佐藤さんの発言からもそうだけど、この本からどのテクニックを自分のものにするか、という行為自体がワークになっている。この本の中の使える部分を自分なりにピックアップして使ってみろや!この段階からリテラシー問われてるで!みたいなね。

ビジネスに興味がない人でも、この本を読んでみると面白い。本書はビジネスパーソンに向けられてた一冊といった体でマーケティングされていると思うが、どういう人に一番オススメかというと、職業作家やジャーナリストになりたいと思っている人だ。彼らの真似をすれば、彼らバリの情報処理能力と知的生産性が身につくだろう。

売れっ子ジャーナリストの1日のスケジュールから、サブタイトルにある新聞、雑誌、ネット、書籍という4つのメディアについての向き合い方がわかる。真似したら絶対に頭良くなるだろうな、というものばかりだ。逆にここまでやって何も身につかないはずがないというくらいだ。彼らの生活っぷりや情報との向き合い方がいかにストイックであるかわかる。

ベースを鍛えよ

本書ではあらゆる情報のインプットに必要なことは何かということに一つの解を出している。それはベースとなる基礎知識をしっかり持っておけということ。

佐藤 この本でも強調してきましたが、義務教育レベルの基礎知識に欠損があると、いくら新聞や雑誌、ネットニュースを見ても、その内容を「理解する」ことができません。本をたくさん読んでも、知識がきちんと積み上がっていかない。すべての知識の土台となる基礎知識をいかに身につけるか、それがインプットの技法において、実は最も重要なことなんですね。

池上 しっかりした土台の上に積み重ねてこそ「情報」は「知識」となり、それを繰り返すことで「使える知識」「教養」になる。(後略)

自動車普通免許を持っている人が、いきなりF1ドライバーになれない。英語を操れない人が、いきなり通訳にはなれない。そこまですごい対比でなくても、基本が備わっていないと応用の知識というものは入ってこないし、実践することもできない。そりゃそうだよな~。

もともと勉強が好きな人におすすめ

この本はインプットに焦点を絞った本なので、おそらく次辺りに「僕らが毎日やっている最強の書き方」みたいな形で、池上さん佐藤さんの両氏によるアウトプット本が出てくるんだと思う。

ビジネスマンにしろ、職業作家にしろ、ブログで時事問題扱いたいなーという人にしろ、共通することは「お勉強したいな」と思っている人であるということだ。そういうにとっては、いい刺激になる本だと思う。ただ、本書を読んだからといって、「勉強自体が好きになる」とは限らない。むしろこのレベルで日々情報を仕入れないと、2人のような知的生産性を手にすることができないのか!と愕然とするかもしれない。

自分から進んで「勉強したいな」と思っている人は、たかがビジネス本でしょと高をくくらず読んでみるといいかもしれない。

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

 

  

achelou.hatenablog.com

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「積読」について

積読」とは何か

買ってきた本を放置してしまう。読書が好きだという人だろうが、そんなに本を読まない人だろうが、誰でも一度は経験があるんじゃなかろうか。本を全く買ったことがないという人は別だろうけれど。

買ってきたものの、机の上に置かれたまま放置され、それがそのまま何冊にも増えていくことを「積読(つんどく)」と言うらしい。「積ん読」とも書かれることがあるらしい。要はダジャレです。

個人的には最近やたらと目につくようになった言葉なのだけれど、どうやら新しい言葉では無いらしい。1986年に発行された外山滋比古著『思考の生理学』を読んでみると、「つんどく法」という章がある。

本を積んで、これを読破するのだから、これをつんどく法と名付けてもよい。普通、つんどくというのは、本を積み重ねておくばかりで読まないのを意味するが、つんどく法は文字通り、積んで、そして読む勉強法である。そして、これがなかなか効果的である。

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

 

 

本を読まずに積み上がっている状態について、必ずしも悲観的に捉えることは無いんじゃないかという意見は、30年前からある。こうした意見がもっと広まっていれば、読書に対するハードルが下がっていた気がする。積読なんてしてなんぼ。本は積んでいこう。買った本を読まなかったとしても、捨ててさえしなければ決して無駄だというわけではないという考え方が広がればいいのに。広まってほしい。

 

 

積読」は無駄なのか

「そうは言っても積読ってなんか嫌だ……」という人も多いんじゃないかな。「そもそも、お金を出して買ってきた本を読まないということは、その本代をドブにすててしまうようなものだ」なんて思ってしまうのは仕方がない。安い新書であっても一冊700~800円する。だったら本なんかじゃなくて漫画でも良かったんじゃないかとか色々後悔してみたりすることもあるかもしれない。それか、この本を買わなかったらお弁当一食分だったなとか、あの外食したときにデザート頼めたなとか、そういう考えが巡ってきてしまいそうになる、こともある。僕もそんなことを思ったことがある。

ただ、「読まない=金の無駄」という考え方がそもそも間違っているような気がする。本は買うだけでしっかり意味があると主張したい。

本を買うことができなければ、その本は本屋で立ち読みをするしかない。立ち読みはマナー違反だし、本は本屋の商品だから好き勝手におることもできない。本を買うということは、本に記載されている情報に対してだけ金を払っているわけではないのです。その本をどこに持っていこうが、どのタイミングで読もうが、本棚のコレクションにしようが、コースターとして使おうが、煮ようが焼こうが好きにできる「所有権」がついてくる。これは大きい。破棄さえしなければいつでも読めるのです。どういうふうに扱っても何も文句言わない。図書館の本は気を使って大切に読まなければならないけれど、買った本なら線を引いたりページを折ったり破いてスクラップブックに追加したり、食べたりしても文句言われない。すごい。持っているだけでこんなにアドバンテージがあるのだ、と考えてみるのはどうかな。それだけで心持ち楽になりそうじゃない?そうでもない?

 

積ん読本棚 幅35×高さ130cm (シルバー)

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読破するという前提を捨てる

読書以前の話だけど、「読書をする自分」にある一定の期待のようなものを感じている人は、積読状態を嫌うんじゃないかな。「本は買ったら読まなければならん!」と思っている人とかもそうだよね。大体の人は読めそうな本や、読みたいなと思った本を買うから、本を買うときはその本を読破するという前提で本を買うと思う。

でも中には思った以上につまらない本だったり、何書いてあるかチンプンカンプンだったり、価値観に合わなくて「もう読んでいられるか!」というものもあるわけだ。でも本を読めないとなんだか、負けた気分になるという人もいるんじゃないだろうか。買ったんだから読まなきゃという思いに囚われすぎるのも、ちょっと真面目がすぎる。

これがゲームだったらどうだろう。「クソゲー」というものがある。クソゲーは「クソみたいなゲーム」の略で、つまらない、あるいはシステムの構造上問題があるなどして、完成度の低いゲーム作品一般に対して使われる言葉だ。ゲームの場合、それがクソゲーだとわかった瞬間にプレイすることをやめても、「俺はこんなゲームすらできないなんて……」と落ち込む人は少ないだろう。本が読めなかったときの悔しさに似た感情は沸かない。たとえ悔しいと思ったとしても、程度が低いか、あるいは「こんなクソゲー掴まされて悔しい!」という、ゲームを最後までプレイできなかったこととは別の悔しさが出て来る。

本もこれと同じでいいんじゃないのか。つまり「読めなかった」と悩むのをやめようということが言いたいのです。

クソ本やトンデモ本というのは存在する。読んでつまらないと思った本や、ちょっと何言ってるかわからないという本は、無理して読む必要無いし、買ってから1ページも読んでいない本だって、「表紙や帯を見てもみたい気持ちが湧いてこない」という風に本の責任にしてやることもできちゃうわけだ。「買った本は読破しなきゃ!」なんて気持ちはかんたんに捨てられると僕は思う。そうすることで、積読へのコンプレックスは無くなる。

もっともらしいことを言えば、積み上がった未読の本があるということは、それだけまだ見ぬ世界があるということだ。その状態だけでも、今その本たちが手元にないという状況よりは、100倍もマシなんじゃないかな。

以上『「積読」について』でした。

 

どんな本でも大量に読める「速読」の本 (だいわ文庫)

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