点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

『インターネット』──ネットのことを学ぶのなら読んでおきたい基本書

 

インターネット (岩波新書)

インターネット (岩波新書)

 

本書は、日本のインターネットの父、計算機科学者の村井純さんによるインターネット解説本だ。我々が何気なく、当たり前のように使っているインターネットの仕組みについて、第一人者の視点から解説されている。随分前からこの本のことを知っていたのだけど、最近ようやく入手したので読んだ。たしか、プログラマー小飼弾さんも自著『空気を読むな、本を読め。』というビジネス書の中でオススメしていたのがキッカケだった気がする。

「インターネットなんてチンプンカンプンです」という人であったとしても理解できる内容だ。本書が発売されたのが1995年。22年前なので、ちょうどインターネットという存在が知れ渡りはじめた頃だ。当時の最先端技術についての解説本なので、非常に慎重に、重要な箇所をしっかりと分かりやすく説明してくれている印象がある。

当時、パソコンで何か通信をする方法といえば、その名の通り「パソコン通信」だった。インターネットはこのパソコン通信の仕組みが大規模化したものであるという風に捉えられていることが多い。しかし、根本的な仕組みからして違うということを、「ここが違うのだ」としっかりと解説してくれている。

 そしてパソコン通信でできることは、その中心のコンピュータ(ホスト・コンピュータ)によってきまります。たとえば、もしパソコン通信の世界のなかで何か新しいことが起ころうとした場合には、ホスト・コンピュータのなかで起こっていること──言い換えればホスト・コンピュータが提供するサービス──が変わらなければいけません。(中略)

 一方、インターネットでは、コミュニケーションの当事者──一つひとつのコンピュータ──が勝手に始めたことが、そのままインターネット上での活動になります。つまり、地球上の二つのコンピュータさえ合意すれば、すぐその場で自由に全く新しいことが始まる可能性があるのです。

事実、インターネットが普及したことによって、それはもう数え切れないほどのクリエイティブなありとあらゆるもの──工業製品から芸術作品に至るまで──が誕生した。時間、空間の制約を取っ払い、誰でも気軽に不特定多数の人間に、情報配信ができるようになった。近年では動画のストリーミングサービスによって、リアルタイムに臨場感あふれる映像を、素人が見せることができるようになった。このインパクトは計り知れない。

メディアとしてのインターネットの展望が書かれている第3章はロマンに溢れている。

  このように、インターネットがメディアとして使われることで、今までのメディアでは難しかった人間の新しい関係──というより、本質的だったのだけれど、メディアが果たせずにいた関係──を提供していくことができると思います。結局たいせつなことは、まず人間の本来の関係というものは何であるかを考えて、それにふさわしいメディアを選び、それぞれの開発や利用を進めていかなければいけないということなのです。

人間のコミュニケーションの本質を考えるという趣旨の言葉は、この本で繰り返されている。インターネットがその役割を買って出るのだ、という野望とも捉えられるような内容も散見されて、読んでいて楽しい。

読後の感想だが、仕組みの理解に役立つだけでなく、ネット倫理についても考えさせられる本でもあるな、と感じる。インターネットにおける人間のコミュニケーションの実情については、今まで既存のメディアが削り落としていた、人間のコミュニケーションの汚い部分がダイレクトに見えるようになったことで、新しい問題が出てきてしまっている。それについては本書の第5章でも触れている。「ネットけんか」「ネットいじめ」という新しい人間関係のトラブルが発生してきていると書いてある。

残念ながら、現代はネットいじめから自殺者がでてくる世の中になってしまった。では、インターネットというインフラができあがったからそのような悲劇が生まれたのかといえば、そうではない。今まで、本来の意味で「人と関わる」ことについて、我々が考えられて無かったのではないだろうか。

汚い部分を隠して抱えて生きていた人が、ネットによってそれをぶちまける。それを目の当たりにした我々は、インターネットを悪者のように捉えがちだが、よく考えてみたら、その人が何故そのような状態になってしまったのだろうか、という視点から、ネットが悪いと断定するのは早計だと気がつく。

インターネットの登場によって、インターネットを利用していない間のコミュニケーションの歪みをあぶり出すことができるようになったと考えたい。気がついてみると、我々はネット登場以前よりも、「人間の本来の関係というものは何であるか」を考えて生きている。以前よりも疲れるかもしれないが、それが人間なのだ。こんなにもネガティブな感情を抱えているのだとびっくりしているだけ。

後数年もすれば、ネット上での振る舞いが加味された「人間らしさ」が一般知として形成されて、ますます本来の人間関係のあり方への考察が捗るようになるかもしれない。

読書と背伸び

 

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

 

 

数学を知らない僕が、ウィトゲンシュタインの著作を買ったときの話をしたい。

言語学とか論理学というと、皆様どういうイメージを思いうかべるだろうか。僕が真っ先に思い出すのは、アリストテレスの「三段論法」だ。

アリストテレスは人間である。人間は死ぬ。ゆえに、アリストテレスは死ぬ」

A=B、B=C、ゆえにA=Cというアレだ。数学とか倫理などでならった記憶がある人も多いと思う。何よりも単純明快かつ、駆使すれば何だか頭がよくなった気分になる。

ただ、よく考えてみるとおかしなことになるのが、この三段論法だ。アリストテレスは人間じゃないかもしれない、という可能性が1%でも考えられる場合、この論理は成り立たなくなってしまう。アリストテレスは宇宙人かもしれないし、人間は医療の発達で不老不死になるかもしれない。お陰で、アリストテレスはよくわからない存在であり、ちゃんと死ぬとも不老不死であるとも言えない。

三段論法は、こういった欠陥がありながらも、アリストテレスの時代から長いあいだ支持され続けた。これをひっくり返したのがウィトゲンシュタインその人であると言うのだから、ちょっと読んでみたいなと、猛烈に興味を抱いた。ブックオフで中公クラシックス論理哲学論考を、660円で購入した。

 

1読してギブアップだった。

 

(おそらく)わかりやすく書かれている解説書を読んでも、中学数学の知識が欠損し、数学を駆使して物事を考えることに慣れていない僕は、関数を使った思考法に翻弄され続けた。読めば読むほど、まずは数学知識、数学思考の醸成が必要と思われ、自分が数学ができないことに強く不満を感じた。理解度も並の人間以下だったように思える。肝心な「うおおお、これは確かに論理学の歴史を変えた一冊なのだー!」という実感も味わえなかったのだ。

では、このブックオフで使った660円の『論理哲学論考』購入費用は、浪費だったのか。そしてこの、理解もできない『論理哲学論考』に挑戦しようとしたことは、時間の浪費だったのだろうか。そうは思いたくない。間違いなく、読んでよかった。得たものは大きい。数学に対して興味をもったきっかけになったし、いつか完全理解してやるぞという野望が生まれた。今ようやく、高校1年生の数学の範囲くらいまでをおさらい中だ。

「教養を身につけるのには、まず、前提となる基礎知識を入れなければならない」という意見がある。この意見が言いたいことは非常によく分かる。人間は、すでに理解している物事と関連付けたり、連想させたりすることによって、新しい知識を得る。これにのっとって、徐々に認識できる情報を広げるために、平易な内容の情報に触れ、それを理解し、あとからより緻密で理解に時間のかかる情報を、すでに理解している情報を駆使して理解せよ、というものだ。

ただ、試験勉強ならいざしらず、読書をすることに、基礎→応用という考え方は、むしろ読書のモチベーションを下げる要因になりかねない。読みたい本を読んでいく中で、わからん情報が大半だったなと思ったら、「背伸びしてしまった」と自分の無知を呪わず、この本が理解できたらどんなに嬉しいか?とか、難しい本に挑戦していること事態がすげえ!とか思うだけで、味気のない読書が楽しくなるよ。

なので、背伸びなんて気にしないで、とにかく本をよむことを楽しむってのがいいよなあと、おい、それを最初から言えという結論で締めくくりたい。

 

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『命題コレクション 社会学』──社会学古典の勉強に頼もしい

 

命題コレクション 社会学 (ちくま学芸文庫)

命題コレクション 社会学 (ちくま学芸文庫)

 

社会学部でした。」というと、皆様キョトンとされる。

経済学部、法学部、医学部、農学部、工学部、……シンプルな学部は、そこでどのようなことを勉強したのかが分かるのが良い。文部科学省のお達しで、新しい学校であればあるほど、よくわからない長めの学部が増えてきている。千葉県浦安市にある明海大学には、「ホスピタリティー・ツーリズム学部ホスピタリティー・ツーリズム学科」という名前の学部があるらしい。そういう名前の学部だったらまだ、面食らうというかキョトンとなるのは分かる。ただ、シンプルな癖して中身がスッと入ってこない学部が「社会学部」だ。

高校3年生の受験のときは、「なんか社会に関する学問なんだろうな~」という感覚だった。予想は見事に当たり、マジで「なんか社会に関係することを学問する」のが社会学だ。

おい!そんないい加減なことを言っているとネットヤンキーに絡まれるぞ!と思いながらも、マジなんだから仕方がない。社会学をハチャメチャに研究したわけじゃないから、僕なんかが言っても単なる雑音にしかならんかもしれない。しかし、こんな風に思っているのは僕だけじゃないのだ。

社会学入門本」にカテゴライズされる本の序章には、「いやぁ……社会学とは?って質問されても……うーん、定義とかちょっとよく、はぁい、わっかんないっすね~~」みたいなことが書いてあるからだ。

社会学研究のお供にうってつけの本書、『命題コレクション 社会学』も然り。

 社会学とは何か。その対象の定義はどうなっているかというと、今日でもなお、それは人によって多少とも異なっている。社会関係、社会集団、社会システム、社会構造、社会制度、等々。社会学を学ぼうとする人にとっては、これらの定義を最初に与えられても、何のことだかよくわからない。

書き出しはこれである。この先が心配になってくる。社会学って何!?と答えを急ぐ我々を、どうどうと宥めようとしてくれている。けれども現実は残酷。真理なんてない。たかだか、「社会学とは何か?」という問ごときで大げさかもしれないが、定義絶対決めたいマンとか、ほら、いるじゃん。そういう人には、社会学は向いていないのだ。

なぜ社会学がこれほどまでに漠然としちゃったのか。本書曰く、

それは、社会という言葉が日常語としては多義的なので、この言葉を含む定義からは、社会学のイメージが鮮明に浮かんでこないためである。

そもそも「社会」という言葉が漠然としているからであるという身も蓋もない理由だ。もうこれだけで僕なんかは、だからこそ面白いと思ってしまう。あやふやなグラつく足場の上で、せっせと社会関係、社会集団、社会システム、社会構造、社会制度、等々を研究しているのが社会学者だ。常時アノミー状態かもしれない。それは言い過ぎか。

ところで、哲学とか経済学とか宗教学などにライトな本が多いのに、社会学にはそれほど無いという印象がある。Amazonで「社会学」と検索してみてほしい。ビジネス本界隈から殆ど相手にされていないように見受けられる。

なぜか?それは社会学には「共通言語」がさほど無いからだ。経済学や法学などのように、これさえ覚えとけば社会学の真髄を知ったも同然!というものが無い。数学で言うところの、公理が無い。あったら多分、小室直樹さんあたりがそういう本を書いていそうだけれど、いよいよ書かずしてこの世を去った。(僕が知らないだけの可能性あるから、あったら教えてください)

本書は、社会学的営みをビビットに感じるのにうってつけだ。その命題がどのようなロジックであったかというのを、命題に対する反論なども取り上げながら例示をし、社会学とはどういう学問なのかということを、リアルにイメージしてもらうために書かれている。中にはどうやら社会学じゃないかもしれないというものまであるが、

これら50の命題の中には、社会学の特定の領域にかかわる理論や歴史理論、文化比較の理論も含まれている。これらを除外すれば、社会学の命題集は貧弱な内容なものになってしまう。

と正直に書いてある。なんか、良くない?ますます「じゃあ社会学って何なんだ?」となる。どこからどこまでが社会学なのか。決まってないのも面白い。

文章は古い書籍だけあって、些か硬い印象がある。中級者向けかもしれないけれど、社会学入門本に飽きてきた人(そんなニッチな奴いるのか)とか、社会学に興味ある人、全国の社会学部生は読んでおいて損はない。命題ごとに分けられているので、辞書的に使えるというメリットもある。読んでみると、古典とあなたとの距離が、少しだけ近くなるかもしれない。

 

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