点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

良書と悪書の基準

外山滋比古さんの『乱読のセレンディピティ』を読んでいたら、序盤にこんなことが書いてありました。 

乱談のセレンディピティ

乱談のセレンディピティ

  おもしろい本とためになる本があれば、たいてい、おもしろい本が悪書、ためになる本は良書になる。 
 コインで、悪貨は良貨を駆逐するという命題が有名である。悪化がつよいのは流通するからで、良貨は価値が大きいから使うのはもったいない、というので使わず温存される。やがて出まわるのは、悪化ばかりとなるのである。
 本の場合、おもしろくて、わかりやすいもの、あまり推奨されない価値の低いのが悪書である。有用な知識、価値のある考えなどを含んだものは、良書である。良薬と同じで口に苦い。放っておけば、いつとはなしに姿を消すのである。(p.33-34)

この一文を見た時、自分にとって良書と悪書ってなんだろうと疑問に思いました。

今まで僕にとっての良書とは、「面白い本だなと感じたもの」が良書でした。だから、ありとあらゆる良書が僕の本棚にはあるのだと考えていました。

『乱読のセレンディピティ』で述べられている良書と悪書の基準、つまり、面白いだけの本が悪書であり、面白さは別として、有益な情報が詰まっているのが良書であるというのは、ドイツの哲学者であるショーペンハウアーも似たようなことを言っています。

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

 いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである。いま大評判で次々と版を重ねても、一年で寿命が尽きる政治パンフレットや文芸小冊子、小説、詩などには手を出さないことだ。むしろ愚者のために書く連中は、いつの時代も俗受けするものだと達観し、常に読書のために設けた短めの適度な時間を、もっぱらあらゆる時代、あらゆる国々の、常人を遥かに凌ぐ偉大な人物の作品、名声鳴り響く作品へ振り向けよう。わたしたちを真にはぐくみ、啓発するのはそうした作品だけである。(光文社古典新訳文庫版 p.145)

「良書は良薬と同じで口に苦い」とまでは言っていませんが、「分かりやすいものは悪書」と分類するという点は共通している部分だと思います。さらに「良書とは古典である」ということを言っています。「あらゆる国々の、常人を遥かに凌ぐ偉大な人物の作品」というのは、古典とみて間違いないでしょう。良書であるがゆえに古典となるのです。

「有用な知識・価値のある考え」というのは、古典と呼ばれる書籍の多くに詰まっています。ショーペンハウアーの意見を真に受けるならば、古典だけ読もうとなります。ケインズが言ったことを現代の経済学者がわかりやすく書いたケインズ本なんて、大したことない!そういう有象無象の経済学者が書いたものよりも、『雇用・利子および貨幣の一般理論』を読んでしまえというわけです。

じゃあ古典だけ読んでれば良いのでしょうか。

それこそ「てめー何俺の言ってることを真に受けてんだよ」とショーペンハウアーに怒られそうです。外山さんもショーペンハウアーさんも、「自分の頭で考えろ」と書いています。

現代はショーペンハウアーが生きてきた時代よりも遥かに出版ペースが早いです。ショーペンハウアーの時代だって「悪書が多くてもうやだ」と嘆いていたのに、それを凌駕するほどの悪書がひしめき合ってきます。そんな環境で、良書だ悪書だにこだわり過ぎてしまうと、本なんて買えません。

ところで、ここまで書いておいてあれですが、外山さんとショーペンハウアーの両者が本当に伝えたいことは、「悪書ばっかり読むんじゃなくて良書も読め」というものではないと思います。そうではなくて、「悪書だろうが良書だろうが、本に追随してしまうこと」が本当に警戒すべきことだ、と主張しているように思われます。では、悪書と良書を分けておく必要はどこにあるのか?それは、「悪書に騙されにくくなる」ということです。

多くの自己啓発本はおそらく悪書に分類されます。書かれていることを真に受けてしまい、著者の開催する高額なセミナーに赴く人もいるでしょう。そういう本は内容も出版社が儲かるようにマーケティングのメスが入っています。これは良書か?悪書か?という視点は、安易な悪書への追随、信仰を鈍らせます。

では、古典に関してはどうか。

ゼロではないですが、書いてある内容まで出版社の都合で歪められることは少ないはずです。ゼロと言い切れないのは、超訳なんちゃらシリーズとかもありますからね。すぐに役に立つような知識が手に入いるとは限りません。しかし、価値ある考え方であるからこそ、脈々と受け継がれているのが古典です。それを読むということは、タイムスリップをせずとも、著者から価値ある考え方を借りることができる、ということです。このことは読書をする上で非常にプラスでしょう。

これを踏まえて、僕も今後は本の良し悪しの基準を設けることにしました。

「あぁ~面白かった!で終わらせても良いなと思った本」は悪書、「この本についてしっかり考えたいと思う本」を良書としたいです。要するに、「考える肥やしとなったか?なっていないか?」ということです。こうやって分類すれば、2種類の読書体験ができて、一石二鳥ではないでしょうか。

悪書は面白いんです。そうした体験も大切にしたいというのは、煩悩でしょうか。

世界十五大哲学──歴史を知ることは遠回りではない

世界十五大哲学 (PHP文庫)

世界十五大哲学 (PHP文庫)

 

 本書は哲学史の本である。本書を読めば、哲学史の基本の部分が分かるように設計されている。僕自身が入門本をめちゃくちゃ読んでいるわけではないので、僕がおすすめだ!と言うのでは説得力が無いかもしれない。一応、博覧強記の佐藤優氏も推薦文を出している。彼を信頼している人は、読んでみるといいかもしれない。ちなみに僕がこの本を知ったきっかけは、なんとアンチ佐藤氏な友人からのおすすめだった。

教養を身につけるべし!という世の中になってきてる。なかでも哲学は教養の代名詞のような扱いを受けている。そもそもなぜ哲学を勉強する必要性が出てきている!と騒がれているのか。もちろん本を売るために危機を煽っているからという理由もあるかもしれないけれど、どーせならそれ以外で考えたい。

哲学を志す人の最終的な目的は、自分の哲学を展開するところにある。要するに、「自分で新しいことを考える」ことである。

しかし、新しいアイディアや哲学をすべて自分の体験や経験から展開しようとしたりすると、なかなか難しい。では「自分で新しいことを考える」ためにはどうすればいいのか。色々経験だ!という意見もあるかもしれないが、学問においては文献研究が王道だ。過去の研究者の意見を自分の血肉にしておいたほうが、自分で生み出す考えが深まる、というのは本書の序文でも語られている。

どのような人間も、そしてどのような問題につても、過去の事柄を無視しては、新しい創造にむかうことはできない。(中略)過去の専門的な哲学の業績をふまえることをしないで、自己の中に哲学を求めることは、蚕が桑を食むことなくして糸を吐こうと努力するほどに、むなしい営みである。

序ー13頁

本書は二部構成だ。

第1部では、まず哲学思想史をざっくりと、古代から現代まで解説する。

第2部では、思想史に大きな影響を与えてきた哲学者15人の考えを基礎的な部分に限定して説明してくれている。

この本を出発点とすれば、現代哲学や思想を理解する上で必要な基本的な知識をさらえるようになっている。

個人的におすすめしたいポイントは、哲学の歴史全体をざっくり理解することで、第2部がよりしっかりと理解できる点だ。

どういう時代背景から、どういう考え方が生まれていったのか、あるいは、どういう議論から、どういう世界観が作られていったのか……という知識がないまま、「この人はこういうことをいってたよ」と書かれても、「で?」となるだけ。哲学者一人ひとりを懇切丁寧に解説している入門本もあるけれど、まずは全体をざっくりと理解するというところでは、歴史に目を向けてみると良いという気づきも得られる。

人間の思想というものは、その人間がどういう時代にうまれ、どういう環境に育ち、生活し、どういう意見から影響を受けたかによって大きく左右される。それらを抜きにして一人の哲学者の学説を理解しようとするのは、まさしく本書の言葉を借りるのであれば「蚕が桑を食むことなくして糸を吐こうと努力するほどに、むなしい営み」になってしまう。

これは、あなた自身が、新しい哲学やアイディアを生み出すときにも重要だけど、過去の哲学者という一人の人間を理解しようとする上でも、重要なことだと僕は思う。歴史に名を残した哲学者の生み出したアイディアは「むなしい営み」とはならなかったから今に語り継がれている。

「なぜその考えに至ったのか」を知ることは、遠回りではない。昔の偉い人たちだって、過去の情報を参照し、それを自分の知識や経験と統合して生み出しているのであれば、その源泉を知っておくことは、素早い理解への近道だ。むしろ周辺知識として理解を助け、記憶にも刻まれやすい。いそがば回れで原著よりも先に、ざっくりと本書の知識を入れておくだけで、哲学という学問分野の捉え方が違ってくると思う。

Kindle版もあります。

世界十五大哲学 (PHP文庫)

世界十五大哲学 (PHP文庫)

 

 

 

冷気の壁

今週のお題「晴れたらやりたいこと」

 

僕はとにかく暑がりで汗っかきだ。どれくらい汗かきかと言えば、酢が入っているものなどを食べると脇汗や顔汗がひどくなるときがある。これは味覚性発汗と呼ばれる生理現象で、特に異常なことではない。しかし、ちょっとした運動、気温の上昇、精神的な不安によって、ドバドバ汗をかく。見た人が引くどころか、心配になるレベルで汗をかく。

そんな僕は、もちろんのこと夏という時期が大嫌いだ。毎年夏になると憂鬱を通り越して希死念慮さえ出てくる。うそ。むしろ夏の方がどっか行けと言い出してしまいそうになる。一年中湿度40%、20~22℃であればいいのにと心の底から願っている。はてなブログのお題は「晴れたらやりたいこと」だけれど、この時期に晴れた場合は家に引きこもって読書かゲームか映画を観るのいずれかだ。

しかし、Achelouは夏にまったく魅力を感じない哀れな男と思われるのもなんだか寂しいので、夏嫌いな僕の、夏最大の楽しみをここに公表する。しかもしっかり、晴れた日でないとできないことだ。

それは「冷気の壁」を感じることだ。

冷気の壁とは何か?

ムワリと暑く、人を殺しかねない日差しで自分の身体が蒸発してしまいそうな、午後1時の東京の猛暑日を想像して頂きたい。少し休もうとあたりを見渡すとスターバックスが目に入る。おそらく冷房が効いている。すでに殺人直射日光から逃げおおせた人で賑わっているが、関係ない。一刻の猶予もない。立て掛け式の黒板に、手書きでうまそうなフラペチーノのイラストが書かれていて、そういえば喉もカラカラだったと気が付く。

フラフラと自動ドアの前まで歩く。自動ドアが開く。重いガラスのドアが滑るレールの上をまたいだ瞬間、まとわりついていた湿気と熱気が一気に剥がれ落ち、代わりにひんやりとした空気が全身を包む。まるで自動ドアのレーンにそって冷気の壁があり、それを暑くなった身体で突き抜けるような感覚だ。

これが僕が夏の時期にとても大切にしていることだ。

冷気の壁は喫茶店の場合ハズレが多い。オープンテラスの席などがある店は冷房のインダストリアルな涼しさではなく、自然に吹く風を店内に取り入れるなど、シャレオツなことをする。シャレオツだが、涼しくない可能性が高い。それではだめだ。

一番冷気の壁を感じやすいのは、地域密着型のスーパーだ。

地球温暖化なんて我々の辞書にはありません。魚が腐ったらどうするんだ!」

という具合に、風邪を引きそうなレベルでガンガン冷房を効かせる。これがいい。この取って付けたような容赦のない涼しさの押し売りが、僕にはちょうどいい。

「ん゛あ゛~゛~゛~゛ずずじい゛~゛~゛~゛」と呻くように声を出してしまうが、びっくりしないでほしい。

これが僕の夏の楽しみ方なのだ。