点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

謹賀新年

多くの寄り道をして、現在に至ります。

寄り道はしないのも問題ですが、しすぎるのも問題です。度重なる寄り道で出来上がったのが、僕にとっての2017年でした。寄り道し過ぎた結果、現状維持となりました。

度重なる黒歴史とおさらばするため、一度このブログに見切りをつけようかと思っていた時期もありました。しかし、生み出した黒歴史から逃げないというのは、インターネット時代に必要なメンタリティです。自分の発言に責任を持つ。この言葉の重みを、誰にも分からないところで噛みしめました。

これから数多くの黒歴史を生み出していくつもりなのに、過去のひよっこな自分が生み出した、矮小なる黒歴史なんぞに気をとられるとは、僕もまだまだです。ブロガーという公開オナニストとしての自覚が足りないのかもしれない。

いずれにせよ、この社会の一定層の方々に受け入れられるような、しょーもない情報を発信していきたいと思っているところです。

これからも、点の記録による黒歴史配布をよろしくお願い致します。

『日常に侵入する自己啓発』──自己啓発ブームを社会学で見る

 

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

 

自己啓発にハマり狂っていた頃があったということを、このブログでも何度か記事にしている。高邁なゴールを設定し、念じれば思考は現実化するというトンデモナイ世界に足を踏み入れ、周囲の方々を大いに困らせた。現在は、そんな状態だった僕を見捨てずに付き合ってくれた彼女様に往復ビンタを、また多くの友人からタコ殴りにされたお陰で、高邁な理想世界から平凡な俗世へと帰還を果たすことができた。

僕が自己啓発に片足を突っ込んでしまったきっかけは「読書」である。この世には「速読」なるものがあるらしく、脳を開発・訓練すれば、立ちどころに多くの情報を処理できるのだという幻想を抱いて門を叩いた。読書という日常的に行われている習慣を、もっと良くしたいという素朴な感情に、自己啓発は侵入してきたのである。

胡散臭い、希薄な根拠を引っさげてもなお人々に受け入れられる自己啓発。出版業界縮小の時代でも、書店のベストセラーやランキングの棚には自己啓発書が占める割合が非常に高い。

こうした自己啓発ブームに、社会学のメスによって客観的に観察したのが、『日常に侵入する自己啓発』である。第1章だけでも読めば、自己啓発に対して距離を置いて眺めることができるようになる。著者の牧野智和氏は早稲田大学大学院で、教育学の博士号を取得しており、この本よりも以前に、『自己啓発の時代』という著作を出している。こちらはまだ読めていない。

自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究

自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究

 

著者の関心は、自己啓発書からあぶり出される社会の関心と現状把握だ。自己啓発書はある種の世界観を我々に提示する。この世界観について分析すれば、どのような価値観が現代の人々の間で馴染みあるものとして流通され、望ましいとされているのかが見えてくるだろうというところからスタートする。

自己啓発書という、近年台頭した、最大公約数的な価値観・願望・不安を取り扱うメディアの分析から、私達の社会が一体いまどこにいるのかを推し量ろうとすること。それが本書の主旨である。

「はじめに」より 

この本は自己啓発本ではない。自己啓発本ばかり読むのはけしからん、という類の自己啓発本があるが、そういうことではない。あくまでも目的は、社会学の視座でもって自己啓発というムーブメントを研究しているものだ。

ところで、タイトルの「日常に侵入する」とはどういう意味だろうか。

本書における自己啓発書の定義は、我々が漠然と抱える自己啓発書のイメージと相違ない。「自分自身を買えたり、高めたりすることを直接の目的とする書籍群すべて(P.2)」である。 こうした書物に特徴的なのは、焦点の一つに、「日常」をどう過ごすかという内容が入っていることだ。

 自己啓発書が扱うテーマ、目指す目標はさまざまである。だがそれらがどうあれ、啓発書ではしばしば、日常生活をどのように過ごすかという一見して些細な事柄が、やがて「微差、僅差の積み重ねが大差」(鍵山 1994:22)となり、「日常のほんの少しの差が、何十倍の実力の差に変わっていき」(本田 2010a: 110)、より大きな結果へと結実するのだと語られる。 

このような自己啓発書の基本的な思考を、筆者はブルデュー社会学と、そこから派生した諸流派の研究に結びつけ、自己啓発書は著者が提示する「感情的ハビトゥス」の習得を促すものであると捉える。

ハビトゥスについて、ここでは習慣とか態度とかの意味として捉えてほしい。脳科学・心理学系自己啓発的に言うと、「ブリーフシステム」に近い概念だ。詳しくはこちら。

kotobank.jp

自己啓発ハビトゥスとして捉えると、自己啓発の著者と我々との差異を考える時に便利だ。ブルデュー社会学には「誤認」という考え方がある。自己啓発にもこうした「誤認」状態があると著者は説く。ブルデューの言う「誤認」とは、貧富の差、学歴の差などの社会階層的な背景を無視して、本人の振る舞いは本人の個性や感性によるものであると認識してしまう象徴だとか、印象の操作のことだ。

自己啓発の著者を見よ。見事な経歴がズラリと掲載され、現在はモテモテの億万長者だ。彼らは所謂「成功者」であるが、その成功はすべて、「基本に忠実」とか、「常にポジティブ」というような「感情的ハビトゥス」によるものであるとすることが多い。

ブルデュー的に考えるならば、文化資本(超ざっくりなwikipediaの解説だと、上品で正統とされる文化や教養や習慣等)は相続され、再生産される。裕福な子は、金銭的な資本だけでなく、文化資本においても高い水準になる。

だが、自己啓発でそんなことは言えない。私が成功したのは、お金や文化資本がたくさんある家に生まれ育ったからです!ということは言ったら自慢になって終了するだけである。

私は高学歴で高給取りだから、才能があると見えるかもしれません。でも、実は皆さんも、このたったひとつの習慣を身につければ、誰だって僕のようになれます!

とか

全然ダメダメの冴えない男だったのに、こういう態度で人と接しただけて人生バラ色になりました!

など、全てが「感情的ハビトゥス」の習得に帰結していく。

その人がどういうハビトゥスを持つかというのは、幼少期からの家庭を中心とした環境に左右されるのは当たり前だ。「そういうのは関係ない」という、ある種の幻想を見せてあげなければならない。しかも、日常の、ほんの少しの意識の向け方で、あなたの人生はバラ色になるのだと思わせなければ売れないのだ。

ここにブルデュー的「誤認」を見ることができる。つまり自己啓発本を書いている成功者がなぜ成功したのか、これから読者が、どんな風に成功していくのかということについて、誤認的現象をみることができる。成功者の社会階層的な背景は排除され、彼らの成功は、彼らの自助努力、態度や行動の変革という個人的な感性の問題によるものであると説く。

こうした自己啓発の捉え方を軸に、男女別「年代本」、「手帳術もの」、「片付けもの」というようにジャンルを絞って、さらに詳しく分析している。自己啓発本読者のインタビューには頷くことが多くて面白いし、途中に出てくる自己啓発本の引用は、前後の解説文と合わせて読むと、途端チンケな意見に見えてくるから不思議だ。

あなたがもし、自己啓発本にハマっちゃって、なかなか著者が提示する感情的ハビトゥスを習得できないとお悩みならば、本書を読んでみるといい。自己啓発本著者、編集者、出版社、読者層、啓発本の主張内容を俯瞰して見ることができるチャンスである。

「初学者殺し本」の見分け方

「初学者殺し本」とは

「初学者殺し本」

 本来、初心者を読書ターゲットにしていると想像できる「入門」の名を冠しながら、実際は多量の前提知識が必要であり、とても初学者が読めるようなものではない書籍のこと。個人差アリ。

僕が安直なネーミングセンスをフル動員して名付けた。正直恥ずかしい。

「初学者殺し本」は知的好奇心旺盛の無垢な青少年や、向学心に燃えたビジネスパーソンに、「入門」と謳って擦り寄り、「てめえのようなチョコザイはコレとアレとそれを勉強してから出直しな!バーーーーカ!!」と殴りかかってくる書籍である。

何が入門だ。門前払いも甚だしい。

悪意さえ感じさせる書籍もある。本文中に、「誰向けの本か」というターゲット層についての明記をしていない本などがそれだ。それくらい書いておくれよ。

「入門」と書いてあるので、さぞかし平易な文章で、その分野のあらましを説明してくれるのだろうと期待して購入する。しかし、いつの間にか、本棚の奥深く、あるいは積読コーナーの中の一冊になっている。こういう経験をしたことがある人、結構多いんじゃないかな。

もちろん、世の中には良い「入門書」もある。ではどうすれば見分けることができるのか。

今回は、こうした「初学者殺し本」の見分け方について持論を展開しようと思います。

最近読んだ本で、「これは初学者殺しだな」と思ったのは、『マックス・ヴェーバー入門』です。

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)

 

「入門書」を読まずに買うのはおかしい

当たり前のことを書く。

あまりに当たり前なのでくだらないと思う。でも、多くの人はこれを実践しないまま「入門書」に手を出して、失敗する。

今、あなたが買おうとしている入門書が「初学者殺し本」か、そうでないかを推し量るには、「試しに読む」しかない。

あなたにファッションに疎い友人がいたとする。その友人が、洋服を選ぶ時に試着なしで購入し、「ありゃりゃ!つんつるてん!」「しまった!全然似合わない!」などと嘆いていたとしよう。さて、次の機会に失敗しないようにするにはどうすればいいかを教えてあげたい。何と声をかけようか。「次は試着をしろ」が正解であるはずだ。

初学者の状態で入門書選びに失敗しないようにするのも理屈は同じ。「試しに読む」ことが必要だ。

偉い先生が言っていたから購入するとか、アマゾンレビューで高評価だから購入するとか、そういうのは入門書であれば絶対にやらないほうが良い。そういうのを参考にしてクソほど面白くなかったら不幸でしかない。己の未熟さを恥じ、それが原因で好奇心が死ぬ。

入門書は必ずリアル書店で購入することを強くすすめる。

「初学者殺し本」の見分け方

「試しに読む」といっても頭からお尻まですべてを読み通すことなんてやってたら本なんて選べない。ではどこを読めば良いのか。

それは「はじめに」と「目次」だ。

「はじめに」を読む理由は、それは先述の「この本は誰に向けた本か」ということが書いてあることが多いからだ。読み手に対するレベルの要求がしっかりとなされているものは、「初学者殺し本」とはならない。「はじめに」にしっかりと「初学者にも分かりやすいように」とか「前提となる知識についても、注釈で解説をしている」など書いてあったら、第一段階クリア。初学者の我々にも優しい可能性が高くなる。

ところで、「はじめに」は、本選びの中で一番警戒しなければならない部分でもある。

立ち読みをする人に買ってもらいやすいようにする「掴み」だからだ。本文よりも分かりやすく、概要を説明してくれたりするのは、読む人の好奇心をくすぐる仕掛けと思わなければならない。この部分は、本によっては著者と編集者が相当力を入れて推敲しているはずだから、簡単そうだなと騙されては無いように(僕は何十冊単位で騙されています。)

「はじめに」を読むのはあくまで、読者層の設定という「入門書」のマナーを守っているかということを確認するためのものだ。第1章のページを開いて10分後に後悔した、なんてことのないように、「目次」を読む必要がある。

まず目次に、見慣れない単語は無いか確認しよう。人名とか、目新しい概念の名前っぽいものとか、目につくはずだ。目次全体を見渡した時、馴染みが無い単語がどのくらいの割合を占めているのか?ということに注意してみる。その割合が7割を超えていれば、その本は「初学者殺し本」である可能性が高い。(割合については僕の肌感覚による。自由に変えられたし。)

さらに精度をあげるなら、実際に馴染みのない単語の箇所を、目次を使いながら読んでみると良い。そこでチンプンカンプンであれば、「もしかしたら自分にはまだ早いか」と予測を立てよう。

勿論、尻込みしているだけでは、読書はひどくつまらないものになる。わかりきったものを何度も再確認して「俺は読書家だぜ!ゲヘヘ~~」と悦に浸るのは自慰読書に他ならない。自慰読書を否定するわけではないが、それが嫌ならどんどん書籍のレベルを上げるべきだ。

この記事は、あくまでも初学者の状態でモチベーションを維持するにはどうしたら良いのかということを考えた内容であるということを、ここで念押ししておく。

ダメそうならば「門前書」を選ぶ

宮崎哲弥さんの『新書365冊』という書籍に、「門前書」という言葉が出てくる。門前書というのは、入門以前のレベルで、その分野についてより平易に解説されている本のことだ。会計学における『さおだけ屋はなぜ潰れないか』とか、経営学における『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら 』などがコレに当たる。

知的プライドが高い人ほど、キャッチーなベストセラーは読みたくないという心理状態になりやすい。しかも頭のいい人が書く所謂「読書本」は、門前書なんて読まないで良いという態度を取ったりもするから、そういうのから影響を受けちゃったりしているとなおさらまずい。

しかし、「はじめに」や「目次」を読んで、堂々と、悔いなく、門前払いに甘んじる──「門前払われ」──をした我々に残されているのは、もはや門前書しかない。より平易な表現で、要所要所を荒削りながらも書いてくれているのが門前書である。頭のいい人からすると「悪書」と見えるだけで、初学者にとっては宝の山の可能性が高い。凡人である我々は、まず門前書を足がかりにすることから始めよう。

門前書は知的好奇心を育むが、しっかりとした知識が身につくかというのは、やっぱり怪しい。あなたが博覧強記を目指すなら、これをブースターとして、再度入門本の目次を目にしてみるといいかもしれない。前提となる知識が蓄えられているので、初見の時に感じたモヤモヤは、ある程度晴れているはず。門前書と入門本の往復によって、入門資格が得られるまで気長にやってみると、ある時ズルズルズルっと入門から免許皆伝に至ることなどもあるから、読書は楽しい。

入門資格とか免許皆伝とか書いたけど、どのレベルが入門資格ありか、免許皆伝か、ということも自分で設定できるのが、一人でする読書の良いところなんすよね。

新書365冊 (朝日新書)

新書365冊 (朝日新書)

 

楽しく読めるか

一番重要なのは楽しく読めているかということだ。この場合の楽しくというのは、何もウキウキワクワクの精神状態で読める本であるか、というわけではない。多少理解ができなくても、読んでいて面白い本というのはあるものです。

それを手っ取り早く確認できるのは、やっぱりリアル書店での試し読みだ。この本はダメだと思ったら他の本、というようにスムーズに比べることができるから、何か新しい分野を勉強したいのならリアル書店に行ったほうが絶対に良い。ネットで済まして後悔する前に、本屋にいってしまおう。

他人から勧められた本も、一度読んでみるということをしたほうが、お金も勿体なくない。図書館という手もあるけど。

ほんとうの意味での「初学者殺し本」は、殺されっぱなしになってもいいや、と思ってしまった本だ。そういう本を見分けるために、「はじめに」と「目次」は最低限確認しておくと、自分にとっての「初学者殺し本」にぶち当たることも少なくなる。

これが、全く興味のない分野などであれば、「ジャケ買い」とか「帯買い」といった遊びもできますが、今回の記事は、あくまでも勉強したい分野があって、初学者として読書するモチベーションを失わないための一つの僕なりのライフハックとして捉えてくだされば幸いです。

おしまい。

 

 

僕的に大丈夫だった「門前書」

人文科学系は、日本術業出版社から出ている『本当にわかる○○学』シリーズはおすすめ。目次を読んでみてほしい。本のどこに、どういうことが書いてあるのか?ということが、自分の理解度で一発で分かる本は、門前書としてベスト。

本当にわかる宗教学

本当にわかる宗教学

 
本当にわかる哲学

本当にわかる哲学

 
本当にわかる倫理学

本当にわかる倫理学

 

理系で最近読んだ本の中でめちゃめちゃ楽しかったのは、瀬山 士郎さんの『読む数学記号』

数学コンプレックスは、数学記号コンプレックスであることが多い。楽譜は音符や記号が読めなければ、音楽として形にできない。数式も、アラビア数字以外の記号について知らなければ、どのように処理するのか思考できない。直接的な数学再入門の本では無いけれど、まず面白かった。

社会科学系では、経済学なら『落ちこぼれでもわかる』シリーズ。

落ちこぼれでもわかるマクロ経済学の本―初心者のための入門書の入門

落ちこぼれでもわかるマクロ経済学の本―初心者のための入門書の入門

 
落ちこぼれでもわかるミクロ経済学の本―初心者のための入門書の入門

落ちこぼれでもわかるミクロ経済学の本―初心者のための入門書の入門

 

結構前の本だけど最近知った。マンキュー経済学入門が家にあるけど、こっち先に読めばよかった。初学者の天敵は「好奇心が死ぬ」ことなので、楽しく読める本を自分でこさえることが重要かと思われます。これは僕的には分かりやすく読めたので、個人的にはいい本だと思う。