点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

『エロスと「わいせつ」のあいだ』──「文化」か「犯罪」か

我々一般市民は、性的な表現を目の当たりにした時、それがエロスであるか、わいせつなものであるか、という判断をするのにそれほど苦慮しない。おおかた、「嫌悪感を抱くか否か」となればわいせつとなり、「下心なしで受け止められる」ものはエロスとなる。あ、ついでに書くと、「股間にクるか否か」と言う判断基準でも、わいせつ物とみなされる場合がある。

もはやそれは「好み」でしか判断できないんではないのか?とシロウトは思いたくなるような問題は、実は民主主義において重要な権利であるところの、「表現の自由」に大きく関わるし、「法秩序」という堅苦しいところにまで及ぶ問題にもなっている。これらがエロによって揺るがされている。実は大真面目に議論しなければならない類のお話である。

こうした問題を扱う上で、本書は非常に分かりやすく現状と歴史を教えてくれる一冊だ。タイトルからしてエロ談義、エロエッセイを期待するかもしれない。僕はまんまとエロ談義かもしれないと思って手にとったけれど、違いました。ごめんなさい。本書の内容は、刑法175条に関連した事象を取り上げ、文化としての「エロス」と刑罰の対象となる「猥褻」との差を考察するというものだ。

刑法175条とは、「わいせつ物頒布等の罪」である。要するにエッチな表現やエッチなモノ、エッチな情報を取り締まる法律だ。詳しくは本書か、Wikipediaを参照していただい。記憶にあたらしいのは、アーティストのろくでなし子氏が女性器をモチーフにした作品を公表し、これは刑法175条に該当するとされて逮捕・起訴された一連の事件である。「かなまら祭り」など、性器の模したみこしが出てくる祭事なども規制対象になるのか?ということでも話題になった。

この法律、実は明治13年1880年)に制定された法律である。1970年代には、世相に合っていないとか、見たい人に見せるのは問題ないではないかというポルノ解禁の動きもどうやらあったらしいけれど、それも沈静化してしまった。どこからが文化でどこからが犯罪なのか、判例では「わいせつ三要件」と呼ばれる一定の基準を参照している。しかし、結局猥褻かそうでないかというのは、裁判官の判断でしか下せないものであり、最終的に曖昧な判断で判決が下されるという印象を捨てきれないため、判例に対する批判も多い。

個人的に気になるのは、裁判官の性的趣味が、判決や判例と一緒に、遠回しに暴露されちゃうのはちょっと可哀想じゃないかなと思うという点だ。さすがに「うーむ、これは……エロい!猥褻!」というような判断基準ではないとは思うんだけど、僕みたいないい加減な人間からは、「あ~それが性癖の人がいたのかな」とか思われちゃうんじゃないかな。

あ、それはさておき、冒頭では「表現の自由」や「法秩序」を脅かす重要な議題と書いた。少しでも肌色が多く、性的なことを匂わす表現があるなら規制だ!とするなら、これは表現の萎縮に繋がることは皆さんご承知のとおり。頭の固い人がこの問題に取り組むなら、そんなディストピアになりかねない。

そして判例に矛盾が多いというこの現状は、法律を運用している裁判所に対する視線が厳しくなってしまうことにつながる。法秩序に対する不信感が、エロいエロくない、下品上品の話で揺らいできてしまう。一番わかりやすい矛盾点は、インターネットに対する態度だ。これの登場で、エロ界隈が無法地帯化されているのにもかかわらず、そちらはさておき、女性器のモチーフを公表したアーティストが逮捕・起訴されるような事態になっている。

変態紳士淑女の皆様方におかれましては、ネットに転がる性描写がどれほどエゲツないかということはご存知だろう。おうよ、もちろん僕も知ってるよ。発禁待ったなしのネタがゴロゴロございますよ。この本で紹介されている問題となって摘発されたり、出版社や作者に実刑判決が下ったような作品というのは、お金を出せばネット上で簡単に閲覧できる。

手近な部分を取り締まることしか実際にはできない現状に対して、どう対処していくのか。これは相当に頭の柔らかい人に考えてもらわなければ、下手すると国家からのネット規制だってあり得る話だ。話が飛躍していると感じる人もいるかもしれないけれど、本書で現状を知れば、そんな道も想像できてしまう。

文化芸術としてのエロスとは何か?というテーマや、表現の自由に関心を持っている人にも読んでいただきたい一冊です。

『グレイテスト・ショーマン』──解釈のいらないストレートな一本

 

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

 

難しいことは抜きにして、単純にミュージカル部分が素晴らしい映画だった。

主人公のモデルとなっている興業王バーナムと、ヒュー・ジャックマンが演じるバーナムの人物像が全然違ったり、ストーリーが急展開しすぎたり、内容が薄っぺらいなどなど、そういう粗探しというのは批評家に任せよう。

この映画はクサい脚本にクサい演出、クサいメッセージ性が合わさって、激アツお決まりクサクサ映画になっている。ストーリーがどういう風になるのかというのが手に取るように分かる。ご都合主義も良い所だ。なのに、全然嫌いじゃない。むしろ好き。

音楽はクサいことを言っても許されるメディアであると感じた。小説とか映画だったら、話の流れの巧みさ、台詞回しの旨さなどが注目される。「夢は叶う」とか、「私はやるんだ!皆も私とやろうぜ!」とかで終止するメッセージをもった作品というのは、ダメなもの、ダサいものという評価になってしまいがちだ。それよりも、人間心情の綺麗になれない部分が描かれていたり、日常生活なら言葉にならない感情の機微を言葉にしたり、あるいは演じることによって表現されたりする作品の方が好ましい。特に、映画はエンターテイメントではなく総合芸術であるという視点を持っている人であればあるほど、一筋縄ではいかない作品を好む傾向があるように感じる。

僕も、あんまりにも分かりやすい映画は、高評価に値しないと思っていたクチだったんだけど、今作を観て、そういう先入観を持つのは勿体無いんだなと考えを改めた。

分かりやすいメッセージを形にして発信しても心に刺さるメディアとは、もうそろそろ音楽とか、ミュージカルとか、そういう作品形態、メディアにしかできないことなのかもしれないと思い始めている。ひねくれた歌詞をもつインディー・ロックはメンヘラ御用達のレッテルを貼られ、難しい言葉を使えば中二病の仲間入り。やはり一定層に受け入れられる音楽というのは、解釈を必要としないものである。

皮肉でも何でもなく『グレイテスト・ショーマン』は解釈を必要としないからこそ良い。喜怒哀楽ははっきりと示され、キャラクターの行動や心理もすべて表現されているように思う。提示されるメッセージに身を任せるべきだ。内から出てくる「いやいやそうは言っても」を排してご覧頂きたい一本。ミュージカルが苦手じゃないなら是非どうぞ。

久しぶりに、映画見て単純に元気出た。

『コーヒー哲学序説』から好きなものを語るときのテクニックを学ぶ

もしも自分が好きなものを発表するとして、それが世間からあまり良く思われていなかったり、あるいは、自分から推したりするのに引け目を感じるならば、寺田寅彦の『コーヒー哲学序説』を読んでみるといいかもしれない。

コーヒー哲学序説
 

物理学者であり、夏目漱石に影響を受けた随筆家でもあった寺田によるコーヒーエッセイである。Kindleでも読めるが、持っていなくても青空文庫寺田寅彦 コーヒー哲学序説)で読める。

構成としては、寺田の少年時代におけるコーヒーとの出会い、留学先や海外旅行でのコーヒーについて、日本で出されるコーヒーの珍妙さといった、寺田自身のコーヒーに関する思い出が前半から中盤にかけて書かれ、終盤にさしかかるあたりで、寺田にとってコーヒーとは何かを語る、という内容になっている。

寺田はコーヒーを哲学や芸術や宗教になぞらえながら、コーヒーの魅力を語る。戦後間もなく世に出たエッセイだけれど、コーヒー好きには同意できるところがあって面白いだろうし、何か文章を書くことを生業としたり、趣味としたりする人にとっては、「自分が好きだと思うものについては、程よく大げさに表現するほうが面白い」というひとつの視点を得られる。そういう場合、「キザったらしくなって良くないんじゃないか」と思われるかもしれない。そこのバランスを身につけられれば、読んでいてこっ恥ずかしいエッセイではなくなる。

先述のとおり、寺田の場合は自分の好きなものを、芸術、哲学、宗教という非常に大きな文化と対比させる。なんといったってこれらは、人類が文明を持った時代から、長きに渡って心を突き動かす原動力であった。寺田自身にとってコーヒーは、そうした原動力とニアリーイコールであると語ってしまうのである。

芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。これによって自分の本然の仕事がいくぶんでも能率を上げることができれば、少なくも自身にとっては下手な芸術や半熟の哲学や生ぬるい宗教よりもプラグマティックなものである。

芸術や哲学や宗教は、抽象的な世界観故に現実世界への還元が難しい。しかしコーヒーというのは、寺田個人にとっては、三流の芸術、哲学、宗教よりも実用的なものであり役に立つのだと、むしろ、それらよりも地位を押し上げてしまっている。

これに似た感覚を、僕は最近体感した。

このあいだ購入した聖書やコーラン、大乗仏典を読むにしても、なかなか恍惚とした心情にはなれなかった。しかし、兼ねてより信仰していた『ポプテピピック』という漫画を読めば、精神が高揚し、かつ安定するのである。あの漫画は間違いなく最近の僕の原動力に大きく寄与している。エイサイハラマスコイ。

 ところで寺田はこの文章の後に、こう付け加える事を忘れていない。

ただあまりに安価で外聞の悪い意地のきたない原動力ではないかと言われればそのとおりである。しかしこういうものもあってもいいかもしれないというまでなのである。

散々己の好きなものを持ち上げた後は、このように「茶目っ気のある自虐」をひとさじ入れる配慮が必要かもしれない。これがあるのと無いとでは大きく違う。理性を失った文章ほど、読んでいて不安な気持ちになる。この人大丈夫かしら?そう思われないようにするためには「私が言っていることは、まあ、おかしいことですよ、分かっていますよ~」とポーズを取ることは、リテラシー低下が叫ばれる現代において、取っておくべき手段である。

そして自虐の作法として欠かせない「開き直り」を入れる。これは読んでいる人に気を使わせない重要テクニックである。おかしいことは分かってるけど、別にそういうのがあってもええやないの~と入れることで、「ああこいつはコーヒー好きなんだな」と気持ちよく納得するのだ。

ところで『ポプテピピック』はアニメ化で盛り上がりを見せており、多くの人がこの作品に酩酊と中毒症状を誘発させられている。その点についてはコーヒーに似ている。芸術や哲学や宗教よりも、ファンにとっては原動力になるかもしれない。三流なハイカルチャーぶったものよりも、プラグマティックなものかもしれない。しかし紛れもなく、「安価で外聞の悪い意地のきたない原動力」に属する。普通なら、ひとつの作品に対してこうした言葉を使うのは引け目を感じるが、『ポプテピピック』は「クソ4コマ」を自称しているので容赦なく言い切れるのが良い。

ところで、本当にそれが原動力でいいのか?読書家なら、古典とか学術論文などから得た情報を原動力にすべきではないのか?と思われる方もいるだろう。しかし、いいのだ。「しかしこういうものもあってもいいかもしれないというまでなのである。」ということなのだ。

この結論部分に限っては、同作品を原動力とする、多くの人に同意を得られるはずだ。

『寺田寅彦全集・290作品⇒1冊』 【さし絵・図解つき】

『寺田寅彦全集・290作品⇒1冊』 【さし絵・図解つき】

 
寺田寅彦随筆集 セット (岩波文庫)

寺田寅彦随筆集 セット (岩波文庫)