点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

『古代ローマを知る辞典』

古代ローマを知る事典

古代ローマを知る事典

 

 2004年の本なので、最新の研究結果とは違う部分があるのかもしれないが、まさしく古代ローマを知ることができる一冊だ。予備知識はほとんどゼロで良い。歴史にさほど関心や熱意のない人であったとしても、スラスラと読み進めることができるほど平易に、わかりやすく纏まっている。

 さて、この本を読み始めるまで、僕は古代ローマなんて微塵も興味がなかった。世界史のおさらいをしていると、序盤の方にでてくるやけにデカい帝国、あるいはテルマエ・ロマエと関係する古代の文明、という印象くらいだった。あとは哲学史とかでちらっとかじる程度で、具体的にどういう文化だったのかということには、殊更興味が沸かなかった。現代のニュースや出来事についてあれこれを考えるとき、古代ローマを引き合いに出して考える人は稀な気がするしね。偏見かもだけど。だから、僕的には薄い存在だった。

  ローマのことをほとんど知らない僕が面白いと感じ始めたのは、本書の第2部からだ。第1部は「古代ローマ帝国入門」と第されているとおり、ローマ帝国概説である。歴史の教科書にも載っているような基本的な情報もあるが、帝国の細かな制度についてだったり、ローマという都市にはどんな人々が住んでいたのかという受験にはあまり必要のない知識が得られたりするので、それはそれで興味深かったりするのだけど、第2部の「古代ローマの社会と生活」からが、個人的には面白い。

 本書の第6章「人口からローマ社会を見る」によれば、古代ローマの首都であるローマ市は、べらぼうな過密地域だったらしい。紀元前350年ごろの人口が30,000人だったのに、164年ごろにはなんと100万人都市となった。

 墨田区(人口25万人ほど)ほどの大きさのローマ市に100万人すべてがすし詰めになっていたわけではないが、交通網などが発達していなかったため、市街地から遠く離れて暮らす人も少なかったと考えられている。現代東京もびっくりの過密地域へ上京してきた諷刺詩人ユウェナリスのぼやきが引用されていて、これが面白い。

 …われわれはいくら急いだところで、前にいる人の波につっかえてしまい、あとから来る群衆はこれまた大勢で腰を押してくるのだ。こっちのやつが肘でけんつくを食わせると思えば、こっちの奴は、固い輿の長押をぶつけ、こいつは材木を、あいつは油の樽を私の頭にぶつけてくる。

 それでもって、住宅事情はまさに今の東京のような状態で、読んでいて謎の親近感が湧いた。

 人口の過密は土地不足を生じさせ、土地の不足は土地価格の高騰と住宅の高層化を生じさせていた。とりわけ首都ローマでは、アパート形式の集合住宅が数多く建てられ、庶民の多くがそこで暮らしていた。そうした集合住宅が6棟から8棟ほど密集して一つの街区に建てられて、街区の殆どが占領されていた貧乏街は、その街区自体がこんもりと盛り上がった島のような景観を呈していたに違いない。

 無学の者には遠い存在だった古代ローマが、こういう情報によって急に近くなる。ちょっと歴史との距離感が縮まる思いがして、なんだか嬉しかった。他にも、都市部に住む人々は街の喧騒に嫌気が差し、自然的な、静かな空間へ憧れを持ったりしたローマ人なんかもいたということを知ったりすると、過密地域では、人種や時代が違ってもおんなじような反応をするものだなあと感心したりした。

 著者の長谷川岳男、樋脇博敏の両名とも歴史学者であり、共にローマや古代地中海世界についての学術系の本を書いている。ビジネスライターが書いたいい加減な歴史本ではない。専門家2人によってローマのエッセンスが凝縮された一冊だ。

 巨大帝国の栄枯盛衰ぶりだとか、強大な権力による「悪」の側面だとかをフューチャーされがちなローマ帝国。本書は、そうした一般的な古代ローマのイメージを持つ人にとっては、別の見方、別の知り方を教えてくれる。

 ローマなんて全然知りません、興味ありませんという人にとっても、想像以上に発展しているローマの人々の暮らしぶりや、それらと現代の暮らしぶりを比較することが、それなりに楽しいらしいということを体験するきっかけを与えてくれる本になるかもしれない。

長谷川さんのこの本もおすすめ。

 

ライト書評 『ボランティアという病』『術語集』『世界史とヨーロッパ』

ボランティアという病 (宝島社新書)

ボランティアという病 (宝島社新書)

 

押し付けがましい善意によって地獄を見る人がいる。ボランティアはかねてより、「善意の押しつけ」「自己満足」という負の部分が抜けないカルチャーだ。本書はボランティアによる「やらかし」の実態を書いている。被災地のニーズを性格に把握しきれず、あるいは踏みにじり、自分たちがやりたいことを、災害支援という大義名分によってやってしまう困った団体、困った人物がいるのも事実なのである。。

キャッチーなタイトルにキャッチーな文章、TwitterFacebookで見たことをそのまま書いている箇所があるなどの粗が目立つので、ボランティアに関する問題を調べようとしたときに賛否両論ある本書をあてにするのは、あまりよろしく無いかもしれない。ただ、こういう意見もあるんだなあと参考にはなる。防災プロに、本書についての意見を聞いてみたい。

術語集―気になることば (岩波新書)

術語集―気になることば (岩波新書)

 

さらりと読んで感想を書くものではない本というものがあって、本書はそういう類の本だ。少なくとも一回読んで語るべき本ではない。しかしピエール・バイヤールも言うとおり、「読めた」という状態というのは曖昧である。いつまでも読めない読めないでは一生読めない。そういう本こそえいや!と書いてしまうべきだ。

本書は現代思想のキーワードについての短評を纏めたものだ。人文書であり、エッセイでもある。のっぺりとした哲学書とは違い、解説文にも潤いがあって、難しい話をされているはずなのに、簡単に思えるのがフシギだ。こういう本を読んでしまうと、さも賢くなったかのように錯覚するが、そこは要注意である。

アランの『定義集』に着想を得て、本書のような「私家版用語集」を世に出した著者は、あとがきにて「自分の頭の<大掃除>をした思いがした」と述べている。なるほど、整理方法には、こうしたのもあるのかと、この心意気に惚れ、自分でも「気になることば」を集め、自分の言葉で短評を書くということをブログとかでやりたくなった。試しに本書の1番最初の単語、「アイデンティティ」で一筆書いてやろうかとメモ帳を開くと共に、頭が真っ白になった。自分の浅はかな世界の認識、つまりは言葉の認識の仕方に、絶望した。

世界史とヨーロッパ (講談社現代新書)

世界史とヨーロッパ (講談社現代新書)

 

 完全無欠の「客観性」というのは存在しない。それは歴史も同じ。書き手によって、事実の見え方は変わり、書き手の持つ思想や信条によって表現は異なってくる。歴史はつまらない、と考えている人は、この点に歴史=退屈という方程式を崩す糸口があるように思う。

本書を読めば、世界史がヨーロッパ文化の中でように書き換えられていったのか?ということを知ることができる。時代時代において、ヨーロッパの人々がどのような世界観からどのような歴史を綴ったかを知るのは、案外楽しかった。

最近の歴史の楽しみ方として、無味乾燥な文章による歴史知識の詰め込みよりも、遠回りでもいいので、本書のような歴史そのものの発生過程を知るとか、史実とされる知識にプラスアルファで書き手の主張が見えやすい本を選ぶのが良いのかもしれないと思い始めている。その理由は単純で、面白いからだ。

特に時間の捉え方の変化の仕方は、読んでいて楽しい。古代ギリシアの円環的な時間認識の世界から、中世ではキリスト教的世界観に移り変わり、時間は一定方向に進むベクトル的なものになる。そこから宗教改革がおこり、それまでのカトリック的な時間観念に対する反発や、大航海時代によって世界の認識の仕方がガラリと変わる。科学革命が起きれば、時間とはなにかという命題はさまざまな科学的視座に晒され、特にニュートンによる絶対的時間のアイディアに注目があつまった。

歴史は、そうした時間的認識の違いを抜きにして語れない部分がある。歴史学の古典を読むとき、その当時の時間というものへの考え方、歴史というものへの考え方を知っているのと知らないのとでは、いかに著者の視点に立てるかということが重要になる読書という営みにおいて、理解に大きく差が出るはずだ。西欧人の古典のお勉強に、必ずプラスになる。

『エロスと「わいせつ」のあいだ』──「文化」か「犯罪」か

我々一般市民は、性的な表現を目の当たりにした時、それがエロスであるか、わいせつなものであるか、という判断をするのにそれほど苦慮しない。おおかた、「嫌悪感を抱くか否か」となればわいせつとなり、「下心なしで受け止められる」ものはエロスとなる。あ、ついでに書くと、「股間にクるか否か」と言う判断基準でも、わいせつ物とみなされる場合がある。

もはやそれは「好み」でしか判断できないんではないのか?とシロウトは思いたくなるような問題は、実は民主主義において重要な権利であるところの、「表現の自由」に大きく関わるし、「法秩序」という堅苦しいところにまで及ぶ問題にもなっている。これらがエロによって揺るがされている。実は大真面目に議論しなければならない類のお話である。

こうした問題を扱う上で、本書は非常に分かりやすく現状と歴史を教えてくれる一冊だ。タイトルからしてエロ談義、エロエッセイを期待するかもしれない。僕はまんまとエロ談義かもしれないと思って手にとったけれど、違いました。ごめんなさい。本書の内容は、刑法175条に関連した事象を取り上げ、文化としての「エロス」と刑罰の対象となる「猥褻」との差を考察するというものだ。

刑法175条とは、「わいせつ物頒布等の罪」である。要するにエッチな表現やエッチなモノ、エッチな情報を取り締まる法律だ。詳しくは本書か、Wikipediaを参照していただい。記憶にあたらしいのは、アーティストのろくでなし子氏が女性器をモチーフにした作品を公表し、これは刑法175条に該当するとされて逮捕・起訴された一連の事件である。「かなまら祭り」など、性器の模したみこしが出てくる祭事なども規制対象になるのか?ということでも話題になった。

この法律、実は明治13年1880年)に制定された法律である。1970年代には、世相に合っていないとか、見たい人に見せるのは問題ないではないかというポルノ解禁の動きもどうやらあったらしいけれど、それも沈静化してしまった。どこからが文化でどこからが犯罪なのか、判例では「わいせつ三要件」と呼ばれる一定の基準を参照している。しかし、結局猥褻かそうでないかというのは、裁判官の判断でしか下せないものであり、最終的に曖昧な判断で判決が下されるという印象を捨てきれないため、判例に対する批判も多い。

個人的に気になるのは、裁判官の性的趣味が、判決や判例と一緒に、遠回しに暴露されちゃうのはちょっと可哀想じゃないかなと思うという点だ。さすがに「うーむ、これは……エロい!猥褻!」というような判断基準ではないとは思うんだけど、僕みたいないい加減な人間からは、「あ~それが性癖の人がいたのかな」とか思われちゃうんじゃないかな。

あ、それはさておき、冒頭では「表現の自由」や「法秩序」を脅かす重要な議題と書いた。少しでも肌色が多く、性的なことを匂わす表現があるなら規制だ!とするなら、これは表現の萎縮に繋がることは皆さんご承知のとおり。頭の固い人がこの問題に取り組むなら、そんなディストピアになりかねない。

そして判例に矛盾が多いというこの現状は、法律を運用している裁判所に対する視線が厳しくなってしまうことにつながる。法秩序に対する不信感が、エロいエロくない、下品上品の話で揺らいできてしまう。一番わかりやすい矛盾点は、インターネットに対する態度だ。これの登場で、エロ界隈が無法地帯化されているのにもかかわらず、そちらはさておき、女性器のモチーフを公表したアーティストが逮捕・起訴されるような事態になっている。

変態紳士淑女の皆様方におかれましては、ネットに転がる性描写がどれほどエゲツないかということはご存知だろう。おうよ、もちろん僕も知ってるよ。発禁待ったなしのネタがゴロゴロございますよ。この本で紹介されている問題となって摘発されたり、出版社や作者に実刑判決が下ったような作品というのは、お金を出せばネット上で簡単に閲覧できる。

手近な部分を取り締まることしか実際にはできない現状に対して、どう対処していくのか。これは相当に頭の柔らかい人に考えてもらわなければ、下手すると国家からのネット規制だってあり得る話だ。話が飛躍していると感じる人もいるかもしれないけれど、本書で現状を知れば、そんな道も想像できてしまう。

文化芸術としてのエロスとは何か?というテーマや、表現の自由に関心を持っている人にも読んでいただきたい一冊です。