点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

『1冊読み切る読書術』──読書のハードルを下げてくれる本

1冊読み切る読書術

1冊読み切る読書術

 

久しぶりにこの手の本を読んだ。

目新しいテクニックは無く、著者お得意の「3色ボールペンテクニック」に多く紙幅を割いている。ただ、「読み切る」という部分に焦点を当てているため、いかにして読書というもののハードルを下げるか、いかに「読み切る」ということは簡単であるか、というテーマで書かれているので、「読書ってかったるくて仕方ない」という人には勧められる内容かもしれない。

ただ、以前から申し上げているように、読書術という「型」は、有ってないようなもので、幻想に近い。よく言えば親切であるけれど、同時に自責の念にかられやすいタイプや真面目な人間がこうした方法論に触れると、「正しく読むことができなかった」という謎の自己嫌悪におちいる可能性があるので、話半分に読んだほうがいい。

著者の伝家の宝刀である3色ボールペンテクニックは、赤、青、緑を使う。緑を主観的、青を重要、赤を最重要と色分けして傍線を引く、チェックしていく方法論だ。後で読み返した時に、自分がどこに感銘を受けたのか、この本の論旨は何か、ということを確認しやすくなるという利点があるという。確かにこうしたチェック行為、松岡正剛が言うところのノーテーションは、再読時の手すりになる。

しかし、正直、読書が苦手である人間は、こうしたチェックのルールすら煩わしいのである。まず、緑、青、赤のそれぞれの役割ってなんだっけと、いちいち思い出す必要がある。加えて、本文を読んだ時に、いずれかの色に分類をしなければならない。

野口悠紀雄『「超」整理術』の価値観をそれなりに重要視している僕としては、「分類」には限界があると考える。3色ボールペンテクニックを使うと、僕の本はおそらく緑色(主観的に重要だと思ったところ)だらけになる。これは、分類上「その他」が膨れ上がるのに似ている。分類好きにはオススメの方法論だが、緑色に塗りたくられた本から、更に重要箇所を抜き出す作業に追われることになる未来が僕には見えた。

そもそも、金がなく、あまり本を買えない僕は図書館を利用することが多いので、この方法は使えないし、自分の持っている本であったとしても、本に線を引きたくない。せいぜいドッグイヤーくらいに留めておいている。理由は、本を読み返した時、「おいおい、こっちのほうが重要じゃないか、何やっているんだ過去の自分……」という気分になるが嫌だからだ。

さて、愚痴を散々言ってしまった。それは僕がクソ読書派だからだ。クソ読書はクソみたいな態度で読書に挑むことである。そんな読書しているもんだから、3色ボールペンは煩わしいことこの上ない。許して欲しい。

しかし、本書には読書のハードルを下げるのに、「これは役に立つな」という箇所もあった。

10「書店をぶらつく」19「3章あたりから読む」、26「外出するときは本を持つ」、41「本を3ヶ所に配置する」などは、馬鹿にできない。特に10番は誰でもできると思う。コンビニにふらっと立ち寄って昼飯を選ぶかのように、書店にふらっと立ち寄ってあいた時間のお供を探す。まずはそれだけでいいからやってみてほしい。。

読書が苦手であるというのは、多くの場合「本を読むことに慣れていない」のが原因で、まずは本との距離を縮める必要がある。書店をぶらつくだけで、自分の興味関心のある本や、まったく知らない分野の本、タイトルや表紙が魅力的だと思う本などに出会う。

この「本との出会い」は、読書というものへの可能性を想起させるのに重要だ。知っていたと思っていた世界を広げてくれる可能性が、本屋には無数に点在することを知ったとき、その人と本の距離は一気に縮まる。プラスアルファ、自分が全く知らなかった知識や、絶対に自分が関わることのない職業の人間が持つ視点などを、読書でバーチャルではあるが体感できるということに気がつくことができれば、底なし沼に一歩足を踏み入れたと一緒である。

とにかく、ハードル下げには優れた1冊かなーと。本が好きな人が敢えて読むような内容ではない。各自好きなように読んで、今日も活字にさらわれ、溺れようではないか。

『1億3000万人のためのeスポーツ入門』──一過性のブームに終わるのか

1億3000万人のためのeスポーツ入門

1億3000万人のためのeスポーツ入門

 

フィギュアスケートができなくても観戦するのはとても好きである、という人が、この国には多いと思う。

羽生結弦選手などが出る番組は録画をしなければと躍起になる奥様方は数しれず。Twitterでは「推し」という言葉によって、ファンはその魅力を語るためのアクティブな態度を獲得し、推し選手が出場するスポーツ番組などが放送された日は、トレンドにその番組名のハッシュタグや、選手の名前がランクインする時代である。

スポーツは、自分が全くできない競技であっても、観戦という楽しみ方が存在する。僕も最近、『THE KING OF FIGHTERS 2002UM』というスポーツを観戦している。え、知らない?激アツですよ。僕は全くできないのだけれど、観てる分にはとてもおもしろい。You Tubeでは試合の配信もしているよ。2002年頃から始まった新しいスポーツなんですけど……。

茶番はさておき、テレビゲーム、ビデオゲームはスポーツであるという認識は、今や世界規模である……ということを敢えて言葉にするのも野暮になった。それほどまでに、「eスポーツ」という存在は日本で知れ渡っただろう。しかし、最近てんで盛り上がっていないように感じるのは、僕だけか。

全くeスポーツを知らない人に向けて言うと、定義は人それぞれだけど、「ゲームをスポーツのように競技化するムーブメント」のことである、と思う。

海外では日本よりも先に数十億円の金が動く一大産業になっている。日本でも、これは儲かりそうだぞ!と興味本位で覗いた人たちが大勢いた。けれど、なんやかんや、最近めっきり勢いが無くなってきている気がする。どうしてだろうと思い、eスポーツ関係の書籍を新しめの情報が記載されているもので探していたところ、本書『1億3000万人のためのeスポーツ入門』図書館で発見した。

本書はゼロからeスポーツの概観を知るのにうってつけ。ムーブメントの大まかな歴史などの基礎知識、eスポーツ選手の最前線情報、eスポーツの法務やマーケティング、eスポーツ今後の展望に分けて理解できる。

eスポーツについてはそれなりに知ってるけど?という人でも、法務の部分を面倒臭がってスルーしてしまっていたりする場合は、本書が役に立つ。

複数著者が苦手という人もいるかもしれないが、読んでいて飽きが来ないというポジティブな側面があるし、それぞれのトピックを専門的に扱っている人物が書いているので、信ぴょう性は高いのではないか。

僕の疑問、「eスポーツ最近盛り上がってんの?」に関して。

これは僕が思っていたよりも、盛り上がっているらしい。株式会社Gzブレインの調査によれば、日本のeスポーツ市場は2017年3億7000万円から、2018年48億3100万に急成長している。これを受けてか、2018年にはコンピュータエンターテイメント協会主導で、日本eスポーツ協会が発足。観戦人口は382.6万人(2018年時点)であり、大中小さまざまなイベントが日夜開催されている。

それにしてもメディアでの露出が少ない。僕がスルーしているだけかもしれないけれど、新聞や雑誌、テレビなどのマスメディアでeスポーツの記事をお目にかかることは稀ではないか。何故か。

eスポーツで競技になるゲームには、暴力表現が多く含まれているものが多い。日本のマスメディア、特にテレビに取り上げられるには、表現の変更や用語の残虐性などを取り除くなどの配慮が必要らしい。そして普通のスポーツとは違い、ゲームは著作物であるため、扱いが非常に面倒くさい。日本でeスポーツに関わったり、マネタイズしたりすることには、多くの障壁がある。

eスポーツ儲かりそうだな、と軽い気持ちで関わりを持とうとした人、持ってしまった人に向けて、本書はいい薬になるだろう。この本をきっかけとして、実際に自分がどのようにeスポーツと向き合うのかということを考えることができる。

また、観戦を主に楽しんでいる我々にとっても、法務やマーケティングなどの裏方的知識を薄っすら仕入れておくことは、ムーブメントの支援や、eスポーツ振興のアクションを起こす際に有益であると思う。

現段階では、法律面での障壁と、コミュニティの閉鎖性によって、eスポーツは中途半端な盛り上がり方をしてしまっており、このままだと一過性のブームで終わってしまいそうであるということだ。

タピオカの終焉とeスポーツの終焉、どちらが先に来るか。

 

タピオカだろうな。そうであってほしい。

自責の念'を捨てるには

タイトル通り、自責の念'(ダッシュ)を捨てるための第1歩として、以下の文章を残す。

 

実は、精神科の主治医に、希死念慮について伝えることができていなかった。

なぜかというと、事態を重く受け止められて、より病人のように扱われることに対する恐怖感があったからだ。僕は堕落しようと思えば、どこまでも堕落できると思っていた。復帰能力のない人間だと思っていた。万が一入院なんかしたら、そこから脱出することが不可能なのではないかと、本気で思っていた。

先日、そのことを親に、漏らすように伝えたところ、早急に診察をしたほうが良いという判断をされ、今日また主治医の厄介になった。両親も一緒だった。

団地の最上階から下を覗いたり、駅のホームでフラフラしているところを止められたりということが、3月~7月に起きており、親としては入院も視野に入れたいということであった。父は長年救急隊員であり、つまりそういう場面、自殺の現場を見てきている。多くを語らないが、よほど凄惨な状況であったことは想像に難くない。今日の受診日まで、おそらく気が気じゃなかっただろう。

気苦労をかけてしまって申し訳ない。

しかし、この「申し訳ない」という気持ちを持ちやすい僕の性格は、変えていったほうが良かろうということを、やんわりと、遠回しに、言葉選びを尽くされて医者から言われた。

そのことについては、全然落ち込んでいないし、むしろ「やっぱそうか」と納得した。

 

自殺を思いとどまる術を獲得していることや、努めてそれを振り払おうという理性が残されているという理由で、入院には至らなかった。しかし、入院しない代わりに、以下のことを約束された。

  • 病気であることを自覚すること。
  • 病気であることを申し訳ないと思わないこと。
  • 無理をしないこと。うつは心の骨折であり、いきなりダンベルを持ち上げようとしていることが原因で、治りが遅くなることがある。
  • 以上のようなネガティブ思考が出てくるのは病気のせいであり仕方ない。しかし、それを放置したりしないこと。
  • 小遣いを拒否するのではなく、貰って遊ぶこと。遊ぶ中で感じる心の動き次第で、自分の脳機能がどの程度回復したのかを推定できる。

 

帰宅途中の車内で、この約束を守る上で一番必要なことは何かを考えていた。これらの項目を達成する上で、障害となる性格的、内面的な最も大きな障害はなにか。

 

そうしてたどり着いたのが、「自責の念'(ダッシュ)」という僕の思考パターンだ。

これは、「自責の念」と似て非なるものだ。

「自責の念」は、後悔して、自分を責める態度である。

「自責の念'」は、妄想で、自分を責める態度である。

後悔とは、行動の後に、その行動に対して悔やむことだ。悔やむ気持ちというのは、必ず行動の後にやってくる。役に立たないものとされることも多いが、それをバネにして、自分の行動や思考をアップデートする材料につかえることもあるから、完全に捨て去ってしまうのは問題だ。

これを踏まえた上で、「自責の念」の流れを考えてみると、「行動」→「自分が望まない結果」→「悔しい」→「自分はなんて愚かなことを」というのが「自責の念」の一般的なプロセスだろう。

これを振り払うにはどうするか。

後悔先に立たず、やってしまったことは仕方がないから、自分が納得行かない部分について思考し、今後の人生に活かそうと前向きに捉えるか、綺麗サッパリ忘れることだ。それができたら苦労しないし、他にも対策はいろいろあるのだろう。ただ、多くの心理テクニックを自分なりに鳥瞰してみると、最終的に以上の2つどちらかに思考を近づけるかということになるものが多い気がする。

もちろん、出来事の大小によって、振り払えるか否かは変わってくるだろうけれど。

それに対して、「自責の念'」の場合、「後悔」というプロセスを経ず、ひたすらに自分を責めるという思考パターンだ。自分を責めるきっかけになるものは、何でも良い。

家族の顔色が優れない、予定をしっかりと遂行できるか不安だ、部屋が汚い、電気を使いすぎた、1日殆どなにもできなかった、ウンコが出ない、天気が悪い、花が枯れた、電車が遅れた、友人が遅刻をした……自分の行動かどうか、行動の結果がどうか、そんなものは関係が無い。

「自責の念'」の流れは、「思考材料」→「自分はなんて愚かなことを」である。

つまり、なんでも自分のせいかもしれないと考えてしまう。これが「自責の念'」だ。

 

同僚が、上司に怒られているとしよう。原因は何かしらのミスである。それは僕が、同僚が上司に怒られることによって、僕の認識に入ってきた情報だ。つまり、僕がまったく関与しない、あるいはできなかった問題だ。しかし、もしかしたら僕は、その同僚になにかしてあげられたのではないか、協力することでミスを防げたのではないか、自分も同罪ではないか、ということを思ってしまう。

これが「自責の念'」だ。

最初から「なんでも自分のせいかもしれないと考えてしまうこと」と言え。

何人か思っただろう。ただ僕は、「自責の念」は人間にとってある程度必要であると考える。成長のきっかけとして使えれば、という条件付きだけどね。だから、「自責の念'」との違いを明確にして、これと向き合うことをしたかった。

「自責の念'」は、自分の行動や思考を抑制する。僕はこの考えを、いつの頃だかに身に着け、本日までかなりの頻度で採用し続けた。なぜこのような考えを採用しやすくなってしまったのか、ということについては、この記事では特に語らないことにする。問題は、これをどのように振り払うかである。

 

ネガティブな思考に限らず、暴走する思考に有効なのは、「何故」だ。

「何故」は、ネガティブでもポジティブでもない。何故の先が、どちらかに触れることはあるかもしれない。しかし、現状は思考材料があれば、ネガティブ妄想へと突き進む。少しでもいいから、中立、あるいはポジティブにする可能性を増やすことが、「自責の念'」を振り払うステップ1だろう。

もし、僕と同じような悩みを抱えている人がいたら、「なんだそんなことか」と思わずに、一緒にやっていこうじゃないか。僕らは自分を責めすぎた。少しは、「なんで私はこんなに自分を責めているのか」「どうして自分を責めたくて仕方がないのか」「今のこの自責の念は、私が感じるにふさわしいものか」ということを考えてもバチは当たらないと思わないかい。

ともかく、医者と両親との約束を意識しながら、「自責の念'」を少しずつ消していくことを心がけつつ生き延びるようにする。

非常に大きな収穫だ。今日は眠れる気がする。気がするだけだけどね。