忘れグセを治すための考え方
私は忘れっぽい
幼いころから「自分は忘れっぽい人間なのだ」と思っていた。
小学校低学年では宿題を毎回忘れるし、中学校になってある程度友達ができると、メールの返事を忘れるし遊ぶ約束を忘れる。
高校になってからは地域団体の重要な会議を忘れるし、部活の遠征日を忘れて学校に来てしまい、仮病を使って休んだこともあった。
大学に入ってからは、やらなければならないことが一気に増えて、公共料金支払い、家賃振り込み、年金の学生納付特例制度の手続きなどお金に関することを忘れ、子ども劇場の連絡を忘れ、遊び場活動の諸連絡を見ることを忘れ、自分の予定を管理することも忘れ、一番びっくりしたのは大学に行くことを忘れたことがある。授業あるのに。極めつけは、忘れグセを治そうとすることすらも忘れる。
だがそろそろ、この性格とおさらばしたいと思う。
忘れグセ=後回しグセ
「自分は忘れグセがあるかもしれない」という考えを改めようと思った。
ちょっと考えてみれば分かることだが、個人差はあれ、人間はみんな忘れる。
忘れないとすれば、それは「超記憶症候群」と呼ばれる病気で極めて稀なケースである。自分はそうじゃない。
健常な人間だという自覚があるならば、「自分は頭が悪いかもしれない」と諦めてしまうのは非常に勿体ないと思った。
では何が原因か。
物事を後回しにするクセが、もう、全部悪い。
私は今月、家賃の振り込みをまた忘れてしまった。しかし、期限の2日前には確かに「家賃払わなきゃな~」と考えていたのだ。だが期限の前日は完全に忘れていた。その日は試験勉強や休憩の間の読書に夢中になってしまっていたからだ。主に後者だけど。
何が言いたいかというと、自分の生活の中から、綺麗さっぱりやらなければならないことがなくなっていた訳ではない。
もし忘れてしまったことがあるのだとしたら、それはメモをしたり、考えたり、行動に移すことなどを、後回しにしただであったことが殆どであるように思う。さらに言えば、何かのタイミングで思い出したとしても、それすらも後回しにしている。
そういう後回しの連続の帰結として、「忘れた」という現象が現れ、それがクセになってしまったから、「忘れっぽい人間である」と他人から評価を受けることになったのだろう。
「忘れた」という結果に目が行きがちだったが、後回しにしているだけだったという比較的当たり前のことに、後回しグセがあるおかげで気が付かず、結果それを自分らしさとして納得してしまうという悪循環が生まれていたのだなぁ。
後回しグセの恐ろしさ
やらねばならないタスクがあったとしよう。
どんなに記憶力が優れた人であったとしても、後回しにしていくクセがあり、それが治らない場合はどうだろう。せっかくの記憶力は宝の持ち腐れである。
記憶力が、たとえ優れない、思い出すことが苦手な人であったとしても、直ぐに実行することができるパワーのある人は、忘れる前に物事に着手することができるため、忘れる前に終わったり、そもそも忘れにくくなる。
すぐ行動せよ!と言う自己啓発本の言うことは、あながち間違いではない。とは言っても、そうと分かっていても体が動かない。ほんと、動かないんすよ。
それはなぜかというと、自分の場合、タスクの中途半端なところまで想像してしまうからだ。タスク遂行中の様々な行動ばかりを想像し、目先の苦労を回避しようと後回しにするのだ。
どうせ想像するなら、タスクを遂行した後のことを考えればいいのに、ネガティブなことばかりに思考の舵を取られ、それらの気持ちは僕を万年床に臥せることを推奨してくる。
後回ししそうになったら
それを達成する手段や方法などを考えず、それを達成した後のこと「だけ」考えることをトレーニングすることが、後回しグセをなくす手っ取り早い方法だと整理がついた。その時の気持ちや状況まで想像してみると、「行動しなければならない」ことも、「行動したい」に変化する。おぉ、ビジネス本や自己啓発本に出てくる「目的志向型」というやつですな。
そうと分かれば実践ですわい!
当たり前のことを再認識するいい機会になった。
実はこのブログ記事も、やらなければならない課題を後回しに書いていた……というシャレにならないオチがありまして。