点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

キャラクターとしてのコミュ障

ブログ更新が停滞気味になっておりやした。
言い訳がましくその事について述べておきますと、趣味の音楽と読書に費やしていたからであります。
ブログは更新できなかったけど、話題は蓄えることができた。
話したくなるような本を何冊か読んだので、考えが纏まりそうだったら覚書を兼ねて更新頻度をあげよう……という予定である。

もちろん予定は未定である。

 


さて本題に入ります。
経験的な話がかーなーり入ってるから注意。

自称コミュ障たち

「コミュ障」という言葉があることはインターネットを利用する、特にSNSを利用する人ならばほとんどの人が知っているだろうし、知らない人でもどういう状態を意味する言葉なのか、字面から推察できるだろう。

「コミュ障」とは「コミュニケーション障害」の略称である。
デジタル大辞泉からコミュニケーション障害の意味を引用させていただく。

コミュニケーション‐しょうがい〔‐シヤウガイ〕【コミュニケーション障害】

1 視覚・聴覚の障害、発声・発語の障害、知的障害などによって、自分の意思を伝達したり、相手の意思を理解したりすることが困難な状態。脳卒中や頭部外傷による失語症、運動障害性構音障害、音声障害、聴覚障害など。コミュニケーション症。
2 人とつきあうのが苦手な人、雑談や世間話をしない人、他人に無関心な人などのことをいう。コミュ障。

出典|小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.

我々が普段の会話などで「コミュ障」という言葉を使うとき、2の意味でこの言葉を使うことが多いと思う。
要するにもっぱら精神的な問題で、程度が重篤ではなく、しかし意思疎通や人との交流に関しては消極的な態度という意味合いで使う。

僕は常々疑問に思っていることがあるんですよ。
最近、ネット上、現実世界問わず、「自分はコミュ障だから……」という人がとても多いように感じる。ただそういう、自らをコミュ障と断定する人たちと話しても、特にコミュニケーションにスレ違いがあると感じることがあまりない

Facebookを見りゃ友達が多かったりするし、Twitterみりゃフォロアー数だって多い。でも自分のことをコミュ障と自称することが流行っている。僕から言わせれば「自称コミュ障」さんたちだ。なんでこうなるんじゃ。

「キャラ」と「コミュ力」に気をつけろ

総合人間学会編 『<居場所>の喪失 これからの<居場所>―成長・競争社会とその先へ』(2015年)に、手がかりとなりそうな箇所があったので引用させて頂く。

精神医学者・斎藤環は、今の若者においては、「ひきこもり」であれ「ニート」であれ、至るところで「承認」と「コミュニケーション」の問題がなければ理解できないと指摘する。(中略)

 斎藤によれば、承認の指標になっているのは「キャラ」と「コミュ力」である。

これは当事者としてとても腑に落ちる指摘だ。

承認されたくば、キャラクター性とコミュ力を持て。なき者は去れ。
世界は残酷やで。

 また、キャラはコミュニケーションの媒体として機能する。性格の多面性をそぎ落とし、限定的な最小限度の要素で描き出された単純な人物像は、それだけ強い印象を与え、把握しやすい。(中略)このコードが便利なのは、人物の本来の性格がどうであれ、それとは無関係に、複雑な人間関係を凝縮して、わかりやすいキャラの枠組みで円滑にコミュニケーションできるからである。そして、この意味での「コミュニケーション力」、すなわち「コミュ力」がない者には、その関係の中にそもそも<居場所>がなくなるか、序列下位にしか居場所がない(斎藤 2013:010)

ほんといつからそうなっちゃったんだろう。
「ツッコミキャラ」「ボケキャラ」「いじられキャラ」「天然キャラ」などなど、若者の人間関係の中ではこの「キャラクター性」が非常に重要視される。

そしてグループ内における「コミュ力」の相対的な欠損は、キャラクターが与えられないか、ヒエラルキーにおいて下層のキャラクターが与えられてしまう。

人間のキャラ化の影響

「人間のキャラ化」は、以下の様な特徴があると思う。ちゃんとした根拠はない。

  1. 一貫性の要求
  2. 提示されたキャラと人間性の照合

「よくいじられているよね」と「いじられキャラだよね」の違いで説明したい。

まず1について。
「よくいじられているよね」は過去の出来事を語っているだけなのに対し、「いじられキャラだよね」は「過去もいじられ役だったし、現在もいじられ役であり、これから先もいじられ役である」という要求が、それとなく、あるいは無意識的にかくれいているように思う。

漫画やアニメ、創作上のキャラクターは、作者によって作者が設定した性質を一貫することが求められる。孫悟空という「戦闘バカ」は「戦闘バカ」以外なり得ない。子供の頃から2児の父になるに至っても、ずっと戦闘バカだった。らしくない行動はめったに取らない。話が破綻してしまうからである。碇シンジという「優柔不断な思春期男児」というキャラは、ストーリーが終わるその時まで「優柔不断な思春期男児」でなければならない。世界が滅亡してしまうかもしれないという一大事にあれやこれや思索に耽り、無責任にも考えることを放棄する。(これネタバレか?)一度キャラクターが割り振られれば、その一貫性を守るべしという暗黙の了解が生まれるのである。

次に2について。
他人からの評価がアイデンティティ形成に強く影響しているという前提で話すけど、「よくいじられているよね」は一貫性の要求の時と同じく、もし言われたとしても過去にあったデータで照合する。それ故考えようによっては「確かによくいじられていた」で終わることができるのである。
しかし「いじられキャラだよね」と言われる場合は「いじられキャラ」とはなんぞやに始まり、自分はどのようないじられ方をしてきたか、どのようないじられ方は耐えられるか、どのようなタイプのいじられ方が求められているのかと、過去現在未来にわたって、「いじられる」というキーワードと自己イメージを結びつけやすいのではないだろうか。そうして無意識にいじられキャラが刷り込まれ、そのグループ内での居場所を確保しようといじられキャラを受け入れてしまうのである。

無論、「よくいじられているよね」→「そうかもなあ。俺ってもしかしていじられキャラなのかもしれない」→自分でキャラ付けしてしまう、というパターンもあると思うし、
いじられキャラだよね」→「そんなんちゃうわ」で解決!とかも人によってはあると思うけれど……。

つまりどういうことが言いたかったかって言うと、「人間のキャラ化」は、規定した人もされた方も、簡単に、しかも強烈に、その人の人格や性格に対して特定のイメージを印象付けやすいんじゃないのということでした。

以上から「自称コミュ障」さんたちが現れまくっている原因はなんだろうかという疑問に戻る。それは人間というものを「キャラ化」という単純化を通して見ることになれた現代人の思考回路の状態、若しくは、コミュ力を重視し、居場所という承認の場を欲するマインドから生まれた暗黙の規範が生まれていることが原因なのではなかろうか。

自分をキャラ化するんじゃない!

あるグループでうまく自分の居場所を確保するために、役割期待に応える能力は確かに大事だと思う。だけど、その社会的な居場所における役割を、自分という存在を認識する際の指標として取り入れるときには「数あるアイデンティティの中の一つ」として認識するようにしなければならないんじゃないかな。
人間の性格は多面的である!と今更言われなくたって分かっているという人、結構いるんじゃないかしら。本当にわかってるのかしら。そういう人だって、他人を「○○キャラだよね」と規定したりしているんじゃないかな。
「自分(他人)は○○キャラである」という表現は、人間は多面的な生き物であるという理性での理解を超えてしまうのだと思う。簡単だし。自分を認識するのも、他人を認識するのも簡単になるし、設定された一貫性を保てば「自分はこういう人間なんだ」という行動指針にもなるわけだ。これの厄介なところはポジティブかネガティブかは関係ないという所だと思う。人間関係を築くというときに苦い経験をした時、「コミュ障」というキャラクター性を決定してしまうと、過去の思い出も、現在の行動も、未来の出来事も全部「コミュ障」という一貫性が働いてしまうように思えてならない。

「人間はそんな単純なものじゃないぞ!」という意識を持たなければ、他人からのネガティブなキャラの押し付けと、自分から発せられるネガティブな感情にめっぽう弱くなる。

人間性のコード化はもうやめにしませんか。