点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

価値観を押し付けてくる奴は嫌われる

批判される道徳の「教科化」

 道徳の「教科化」が進められているという。
 佐貫浩氏『道徳性の教育をどう進めるか 道徳の「教科化」批判』では、このことが痛烈に批判されている。

 道徳の「教育化」の最も核心のねらいは、国民の思想や価値観、人格的な価値意識そのものを国家によって統制、管理、教化することにこそある。その改変によって、日本の学校教育は、今までとレベルの違う教育価値をめぐる国家統制の下におかれる可能性がある。

 道徳の「教科化」かぁ。ニュースでは聞いていた。けど深くは考えていなかった。

 倫理観の教育はどうしても問題視されてしまう運命にあるだろう。教育に国が求める倫理観が関わってくる。そしてそれが「教科」として教育が始まるとなると、指導要領に則った教育が行われ、現在よりもより一層内容が画一的になってしまうという懸念がある。その一つに教科書として使用される教材に国がいちゃもんをつけることができるというカラクリがある。認定されないものは教材にできない。国が良いと思ったものだけが子どもたちの手に届くのである。生徒がそれぞれ持つ価値観が国によって矯正されかねない!という意見が出るのは当たり前だね。怖いよね。

 本書は安倍政権による道徳の「教科化」を厳しい論調でこれでもかと批判するので、安倍政権が嫌いな人はどうぞご覧になって。安倍政権が好きな人も、道徳教科化の反対派の意見として、比較的新しい本なので読んでみてくださいな。

 同意できるところはたくさんあれども、やたらめったら厳しい口調で批判されているので読んでいて疲れたし、真っ向から安倍政権批判な雰囲気のまま議論が展開されていくので、道徳教科化賛成意見の情報を入手しようとも思えた。

 何はともあれ本書によって危機感を持てたことは良かった。僕みたいに鈍いひとは、ニュースでポンと流れていても特に気にせずそのまま流してしまいがち。政権、政策批判本は、なかなか世の中の情報を新聞読んでも分からんって人にはおすすめだと、今回改めて思った。

僕と道徳

 「何が良くて、何がダメか」、「何が人間として良いことか」について「道徳」という科目はひとつのお手本を示してくれる、らしい。そんな道徳の授業だが、僕はそれほど好きじゃなかった。
 まず退屈だった。
 道徳の授業においては、先生や教科書(じゃなかったのかもしれないがそういう教材があった)が教えてくれることの全てに、「いいこにしなさい、なりなさい」というメッセージがバンバンに込められているなぁと小学生の小さな脳味噌でも分かった。
 いじめの問題を取り扱っていたとしても、道徳が示す答えはあくまでもお手本だった。曰く、いじめられる人がいたら、勇気を振り絞って阻止しよう、だったり、周りの大人に相談しよう、だったり。だけど「実際はこんな風に助けたり、先生に相談したりはできねえよな……」と思ってしまう。
 教材に取り扱われる過去の文学作品、例えば芥川龍之介の『蜘蛛の糸』とかが取り上げられたことがあったような気がするけれど、そこから道徳性をよみとけ!と言われても、臨場感の「リ」の字もない創作物に対しては、リアリティの「リ」の字も意識しない、想像しうる「お手本」に解答を近づけようとしていた。それくらいのものだった。

思想・良心の自由

 山川出版社『詳説 政治・経済』が教えてくれるところによれば、道徳は自律的強制であり、それぞれの「良心」によって、罪の概念をとらえ、自責によって心に強制を加えるものらしい。
 なるほど、道徳の根拠は良心なのだ。
 日本国憲法の中でも有名な精神的自由権の中に、「思想・良心の自由」が第19条に明記されている。さて道徳教育はこの良心の自由に抵触するか否かと僕みたいに疑問に思った人いるんじゃないかしら。
 思想・良心の自由の解釈の仕方にもよるけれど、思想・良心を形成する自由も保証されているんじゃよという説があってこれがなかなか有力なものらしい。なので憲法上は問題ないとかってなってくるのかな?なんか釈然としないけど。ここらへんは曖昧なので各自調べてみてください。そして教えてください(無責任)

価値観を押し付けてくる奴は嫌われる

 心は、人間にとってはデリケート・ゾーン以上の絶対不可侵領域だと思う。

 授業中にHな妄想をしてても罪にならないし、上司から怒られている最中にHな妄想をしても罪にならないし、一世一代の昇進がかかったここ一番のプレゼンテーション最中にHな妄想をしても罪にならないのだ。もちろんHな妄想を具現化すれば罪になる、場合もある。
 話がそれた。
 そういう絶対不可侵領域にアクセスを試みようとする不届きな輩が現れると、多くの人は程度は違えど不快なると思う。
 自称恋愛マスターがネットの女性向けコラムサイトに寄稿するような独りよがりの「理想の恋愛観」を見て「おげ~~」としたり、ビジネス本を読んで「これが人生における本当の成功である!」という文言をみて「んなアホな」と思ったり、中2男子が「大人なんて糞だ!」と周りの大人に反発しまくったりするのも、全部価値観を押し付けられることからくる不快だと思う。

人々の心は管理できない

 「心のノート」が配布された時期からか、周りの大人から「気味が悪い」「良い子にしようとしすぎ」という声がちらほら聞こえていた気がする。そう考えると教科化が本格的に推し進められてきた最近からというよりも、もっと前から道徳という科目に懐疑的な意見はあったのだと思う。こういう本もありますし。

「心のノート」の方へは行かない (寺子屋新書)

「心のノート」の方へは行かない (寺子屋新書)

 

 

「心のノート」を考える (岩波ブックレット (No.595))

「心のノート」を考える (岩波ブックレット (No.595))

 

 

 やっぱり人間にとって「価値観を押し付けられる」ということは、押し付けられようとする価値が、モラルに反するかしないかはあまり関係なく不快に思うんだろうな。道徳の教科化は、「統制、管理、教化することが目的だ」と、今回取り上げた本には書いてあったけど、果たしてどこまで国が子どもたちに植え付けたい倫理観が浸透するのかな、そんなにしないんじゃないかと疑問に思う。楽観的すぎ?
 子どもの価値観が形成される過程において大きな影響力を与えるのは、大抵の場合、家族学校の先生の2者だと思う。学校の先生は立場上、国の言いなりに成らざるをえない。そこで家族の出番だ。
 そんな時間は無い!と理由をつけずに、道徳の科目に関しては、家族でも話し合ってみることが大切になってきそう。その時、親は「これって本当に正しいと思う?」と「道徳的正解」に対して懐疑的な立場になってみると面白いのではないか。だからといって、自分の価値観を押し付けるような言葉遣いで接しては元も子もないのだけれど。

僕に子どもがいたら

 ちなみに、もし僕に子どもが居たのなら、「世の中に、絶対に正しいことなんて無い」と伝えたいな。用意された道徳のレールを思考停止状態で進むのではなく、寄り道、遠回りしながら自分で考えてほしいな~と思ったりする今日このごろであります。今のうちにたくさん本を買っておくのもいいかも。もちろん自分が読む用として購入するのだけれど、見えるところにそれとなく本を置いておいて。興味持ってくれたら嬉しい。うふふ。

 え?それも価値観の押し付け?
 なになに、自分のことを棚に上げて好き勝手言いやがって?
 金が無い無い言ってるくせに本買うんじゃねえと?

 あの……妄想ですから、大目に見てくだせえ。