点の記録

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未完成を恐れない

 

未完成 大作曲家たちの「謎」を読み解く (角川SSC新書)

未完成 大作曲家たちの「謎」を読み解く (角川SSC新書)

 

 クラシックジャーナル編集長中川右介氏が、大作曲家として知られるシューベルト、ブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィッチ、プッチーニ、モーツァルトの6名の作曲家における「未完成」の楽曲に纏わるエピソードを紹介、解説し、独自の推論を展開している。

 クラシックなんて全然知らん僕だが、こう見えても趣味が作曲なんですよ。
 テクノとか電子音楽とか、ポピュラー和声やクラッシクの和声学が身についていなくてもノリで作曲できる類のジャンルですけどね……。
 音楽家のエピソードをつまみ食いしようかな程度で図書館から借りてきた本書だが、作曲に限らず先人の生き方に学ぶところは多いなと思えた。

「完成」という言葉の曖昧さ

 まず、芸術作品における「完成した作品」とは一体何か。著者の見解としては、あとがきの1文に見られるだろう。

 つまり――すべての物語は「未完成」とも言える。きりがないのでどこかで区切りをつけようとして、作者は「完」とするだけなのだ。

 では逆に未完成とは何か。

 「未完成作品」とはそのほとんどが「作者が公表を承認していない」ものでもある。それなのに世に出るのは、「遺族のお家の事情」に他ならない。

  これは芸術作品以外でも言えることだ。

 例えばこの記事にしたってそうだ。

 僕がここで「もういいや完成~♪」と思い、エディター左下の「公開する」ボタンを押し、その後修正する気などさらさら無かったら「完成」なのである。
 これが仕事として行っている行為だとしたら事情が違ってくるが、それでも「これは完成された」と思う人が自分以外に出てくるだけで、実際は明確に「完成された状態」なんて作っている段階ではおおまかな予想を立てることしかできない。

 ある行為、ある作業の完成、完了は、その製作者(行為者)や周囲のさじ加減によって決まる。そう思うと、想定していた結果が得られなくても落胆することが無意味に思える。
 小説や論文のプロットを考えるときに、「結末から最初に書く」というテクニックがあるが、それはテクニックでしかなく、実際は予め設定した落とし所に辿りつけないという事態も、もちろん発生する。だがそれは、達成するかしないか、完成するかしないかを恐れて何もしないよりも遥かにマシだと思う。

企画倒れも何のその

 トゥーランドットで知られるプッチーニ。
 トゥーランドット、未完成作品だったってご存知?
 僕は知らなかった。荒川静香がイナバウアーを披露したときに流れていた「誰も寝てはならぬ」を聞いて「いい曲だな~」と思っていたのに。まさか未完成作品だったとは!
 トゥーランドットが未完成になってしまった理由はプッチーニ自身が喉頭癌に冒され亡くなってしまったことにあったが、彼にはいくつもの「企画倒れ」になった楽曲案があったとコラムに書かれている。

 「何か一緒にやりましょうよ!」「いいですね!やりましょう!」
 しかしその後、結局音沙汰なしで何もその人とやらない。
 こういう経験をした人がどれほどいるかは定かではないけれど、「自分はいつも実行できないな」と落ち込むのも勿体無い。
 発想がなければ、そもそも行動に移すことすら困難だ。
 今は当時より人々のアイディアが保存されやすい。Twitterに何気なくつぶやいた一言や思いついたことがたとえ実現されなくても、企画倒れしたものとしてマイナスに捉えることはしない方がいいなと思える。さらにそれを捨てないことも重要だ。

 トゥーランドットは初演こそ未完成状態だったが、その後フランコ・アルファーノという作曲家が補作している。未完成のものを作者の死後だれかが補い、それが世に出されるというのは、故・伊藤計劃氏のプロットを円城塔が引き継ぎ完成させたSF小説「屍者の帝国」などが連想される。

 このような作品の出され方には様々な意見があると思うけれど、僕は素晴らしいものが世に出されない方が勿体無いと思ってしまう。作者に敬意が払われていれば良いと思う。
 そう考えると、アイディアを捨ててしまうことが非常に勿体無く思える。自分では広げられなかったものが誰かに読まれることで、それが世の中の不特定多数の人々に役に立ったり喜ばれることはとても良いことだと思う。

 妄想でも何でも、思いついたことを書き溜めておくことは習慣にしておこうと思えた。もしかしたらどっかの誰かが、素晴らしい物に変えてくれるかもしれない。

 

未完成  角川SSC新書  大作曲家たちの「謎」を読み解く

未完成 角川SSC新書 大作曲家たちの「謎」を読み解く