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点の記録

点だけ打って線を引けない男が、点と点を結ぼうとするブログです。

偉人の言葉に興味が持てるようになる本

思ったこと 読書

落ち込むことを予測して

 こんな本を買った。

5分で「やる気」が出る賢者の言葉 (小学館101新書)

5分で「やる気」が出る賢者の言葉 (小学館101新書)

 

 

 去年の大晦日、来るべき正月明け鬱と就活鬱に対抗すべく、ブックオフ高田馬場店で10冊ほど自己啓発本を安く買った。
 その中のひとつ、齋藤孝さんの『5分で「やる気」が出る賢者の言葉 「プチ鬱」から抜け出す33の技術』が読みやすく、とても使える本だなと思ったので記事にした。
 本書の内容は、斎藤さんが賢者としている歴史上の偉人のやる気の出る言葉を取り上げ、一つ一つ短めにまとめてくれているというものだ。本を読むのが苦手な人でも、一つの節を読み切るのに5分とかからないと思う。中学生からでも読めるような内容なので、お子さんにもどうぞ。

 第一章 どん底から這い上がるための技術
 第二章 もっとポジティブに生きるための技術
 第三章 人を動かし、仕事を成功させるための技術

 全三章。それぞれ一つづつ、個人的に気に入った所を取り上げたい。
 

自己肯定力持つべし―陸奥宗光

 まず第一章からは、陸奥宗光の節がグッと来た。
 陸奥宗光は幕末・明治期の政治家。海援隊で活躍し、西南戦争で政府転覆の疑いをかけられ投獄されるも出獄後は欧米に留学し、第二次伊藤内閣の外務大臣になったすごい人。有名な功績として挙げられるのが、イギリスとの治外法権の撤廃に成功したことだ。
 政府転覆に加担した罪で陸奥が投獄されたのは34歳。禁固5年。今の我々からしたらバリバリの働き盛りにとんだ判断ミスだ。
 人生のどん底、深い谷を経験するが、どうしてそこから這い上がったのか。斎藤さんは自己肯定力がカギだと述べている。

 こんなときに必要なのは「自己肯定力」である。
 ミスをしたのに、事故を肯定してどうするんだ、という考え方もあるだろう。だが、実は、「自己否定」が強いほど、自分のミスを認められないものなのだ。
 自己肯定力が強いということは、ちょっとやそっとのことでは自己が動じないということだ。だからミスを認めても、自分自身の存在は揺るがない。
 一方、自己否定の強い人間は、自分に自身がないので、少しのことでグラついてしまう。だからかえってミスを認めようとせず、自己正当化に走る。ミスは、あくまで「行動上」のものだ。自己正当化するのではなく、自己客観視すべきだろう。

 この節で取り上げられている言葉が、陸奥が「山形繋獄」と名付けた漢詩の一変《弁は懸河の如く 胆は天の如し》である。
 弁舌は流れの早く淀みのない河のようであり、胆力は天のように大きい。この自己肯定の強さが、陸奥の行動原理にある。

 この陸奥の箇所を読んで、容易に「自己肯定力が無いんですよね」と人前で言うのはよそうと思った。
 自分に自信があるということは、いつも自分が正しいと「思い込む」ことではない。本当に自分に自信がある、自己を肯定する力があるのであれば、ミスをポジティブに変換することができるはずなのだ。
 自信満々で言い放った言葉が大間違いだったとき、そのミスを認め恥ずかしさを感じる。その恥ずかしさを味わっても折れない心を持ち、ミスは己のアップグレードのチャンスだ!くらいの動じなさこそが、本当の意味での自己肯定だと僕は思った。

「才能」は「他者の求めるもの」が分かる能力―フレディ・マーキュリー

 第2章はロックバンド「クイーン」のボーカル、フレディ・マーキュリーの節がグッと来た。
 やばいし、凄いのは皆知ってる。でもフレディーの発言とかそういうところにまで関心が行く人は稀なのではないか。

《僕の使命は人々の心を勝ち得ること。そうでなければ、パフォーマンスが成功だったなんて言えない》(リック・スカイ『フレディー・マーキュリー 華やかな孤独(改訂版)』中村美夏訳/シンコーミュージック・エンタテイメント)
 とフレディは考えた。(中略)

 フレディのパフォーマンスは「自己陶酔」ではない。あくまで「求められていること」に応えるものだった。

 音楽の世界って求められていることがわかにくい。いや、もしかしたら「求められていることの範疇の中で自分の好きな音楽、好きなパフォーマンスをすることは難しい」という方が適当かもしれない。
 ニコニコ動画やYou Tubeというインターネットメディアは、音楽や動画、イラストや写真などを作っている人にとって、かなり有り難い存在だ。自分の作品に対するレスポンスが帰ってくる可能性もあるし、多くの人に自分の作品を届けられる可能性もある。
 インターネットというインフラが整備されているからこそ、余計にこう思う人が多いと思う。
 「何故自分の作品は皆に分かってくれないのだろう」
 「自分には才能が無いのだ」
 多分、フレディにとってみれば、そんなことで悩むのは時間の無駄だ。

《僕にとって才能っていうのはそれをどうやって一般大衆の口に突っ込んで飲み下させるか、その方法を知っていることも含まれているんだよ!》(『フレディ・マーキュリー・ファイル』シンコー・ミュージック・エンタテイメント)
※本文は太字ではない

 「才能が無い」と嘆く前に、もう一度自分のやっていることが「自己陶酔であるだけ」になっていないかを考える必要がある。音楽だけではない。ヒトとヒトが関わりあうとき、すなわち人間関係においても、「自己満足になっていないか」を考えなければ絶対にうまくいかないのだ。

 他者が何を求めているのかを考えるということは、労働という文脈では「プロ意識」という言葉に置き換えられると思う。「役に立つこと=人々が求めていることをしなければお金は貰えない」ということは、当たり前過ぎて忘れている人がいるかもしれない。だが、まずそこを認識しなければ、仕事は楽しくないしスキルアップする気持ちなんて出てこないし、仕事をルーチンワークとしか見れず、どんどんストレスが溜まる一方……なんてことになるんじゃなかろうか(学生の身分でこんなこといって、ホント大丈夫か)
 フレディは「皆に何を求められているのか」ということを念頭にリハーサルをして、あれだけのパフォーマンスをすることができた。そして相当なエネルギーを人々に与えた。
 仕事の場面だけではなく、趣味や日常生活においてもこの視点を意識して行動してみようと思えた。勿論これは媚びへつらうこととは違う。自分の心情に嘘偽りなく、自分ができること、できないことをしっかりと認識した上で行動しなければ、主体性のない人間になってしまいかねない。

無駄と捨てるか回収するか―レオナルド・ダ・ヴィンチ

 第三章からはダ・ヴィンチの節がグッと来た。
 この節を読んで、器用貧乏は天才に化けるかもしれないと思えた。
 何でも卒なくそれなりにこなせるが、そのどれもが深みが出ない。自分がやったことって、もしかして無駄なのかも……と落ち込んでしまったりする。
 趣味で色々やる分にはとても楽しい。
 でも自分よりもっと凄い人は大勢いる。
 そういうことを考えると、趣味でも楽しくなくなったりすることが増えて、そもそもこの行為は自分の人生において「無駄なのでは」と思ってしまうことが多々ある。
 しかし、斎藤さんはこう語る。

 一見無駄な経験を放っておくか、それとも回収するか。ここに実は、凡人とダ・ヴィンチの大きな違いがある。ダ・ヴィンチはその「回収力」で経験をきっちり回収し、それを絵画制作に活かしたのだ。

 ダ・ヴィンチは「経験」から法則や理論を導き出す手法で、ありとあらゆるアイディアを生み出してきた。そしてその経験を回収する能力が長けていたからこそ、あの「最後の晩餐」や「モナ・リザ」を描けたのだと斎藤さんは解釈している。回収するというのは、「横断的に考える」ということと関係がある。ダ・ヴィンチの横断的思考を物語る言葉が、この節での賢者の言葉だ。

《水中の泳ぎを述べよ、そうすれば空中の鳥のとび方がわかるだろう》(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』杉浦明平/岩波文庫)
※本文は太字ではない

 それが正解か不正解かは問題で無い。泳ぎ方と鳥のとび方という2つの異なる動作を、ひとつメタな視点から俯瞰して関連付けていることが分かる。これが横断的に考えることであり、回収力に繋がる。
 何か一つのことを達成しようと思い、それをひたすらに、我武者羅にやっても一向にうまく行く気配が見えないとき、リラックスしようと別のことをしていると、急に達成への方略を閃いたりする。ビジネス本や自己啓発本で書かれているような内容だが、ダ・ヴィンチはもうそれ、やってましたよと斎藤さんは本書で述べている。

 僕は器用貧乏ではない。不器用であり、なおかつ貧乏だ。だが、たとえ不器用であったとしても、様々な経験をしてみようと思い、行動することはできる。未経験状態を嘆くのではなく、どんどん経験を積んで行こうと思える内容だった。

賢者に学べ

 今回この記事で取り上げた内容を無理やりつなげると、こうなるのではないか。
 「他者の求めているものは何かを考えるとき、自分の経験を横断的に捉え、繋ぎ合わせることは非常に役に立つ。そのようなことを考えるとき、自分の経験なんて無駄だ……と思わない心、自己肯定力は大事だ。」ビジネス本っぽくない?そうでもない?

 今回、齋藤さんの本を読んでようやく思えたこと。それは過去の偉人達の言葉を知っておくことの大切さ、古典の知識の重要さである。僕は斎藤さんの本を何冊か読んでいて、そのことは大体どの本にも書かれていたのに、この本を読むまでそうした彼の視点に見向きもしなかった。それに気づかせてくれた本書にはとても感謝したい。新品で買い直そうかと思う。

 伝記は「子どもが読むものだ」とか、「歴史的事実を淡々と記した退屈なもの」と思われるかもしれないが、大人こそ読むべきだし、退屈だと感じたらそれは内容の問題だ。退屈だと思わせる本が悪いと思う。
 自分が面白いと思う伝記と出あえば、それは最高の「心の燃料」になり得る。
 斎藤さんは辛く苦しいとき、歴史上の偉大な先人たちを生身のおじさんやおばさんに置き換え、身近な存在として認識し、そうやって彼らの言葉に影響を受けていたという。
 伝記を読めば、その人の言葉に触れることができる。
 皆様も、アドラーおじさんばかりではなく、もっと様々なおじさんおばさんの言葉に耳を傾けてはいかがだろうか。

 

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