点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

全ての「レビュアー」に読んでもらいたい──『音楽の聞き方 聴く型と趣味を語る言葉』について

 音楽を語ること

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

 

 皆さんにとって「音楽を語る」とは何であるか。いきなりそんなことを聞かれても釈然としない人は多いと思う。

ではちょっと質問を変えてみる。

「音楽を語ることは是か非か」

こういう質問に変えてみると分かりやすくなるかもしれない。「語る」ということは言語を使ってその音楽に関して意見や感想を述べる行為だ。音楽は絵画、文芸などと違って視覚を使って味わうものではないから、視覚を使って共有できないものを文章で表現しようと思うとこれが難しい。

音楽レビューなんてことを少し前にこのブログでやったことがある。

 

achelou.hatenablog.com

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 なんとも薄っぺらい内容で大変恥ずかしい。ただ、自分が感じた感覚などをそのまま文章にしてしまうと、それこそひどく曖昧で妙にポエミーなものになってしまうそうだったので、なるだけ平易な文章で書いたつもりだったのだけれど、平易になりすぎたかもしれない。

などなど。悩むことが多い。本当にやってみると難しいことがわかるので音楽好きなブロガーはやってみて欲しい。

さてそこで先ほど皆さんにご提示させて頂いた「音楽を語ることは是か非か」に戻ってみる。「音楽を語ることに果たして意味があるのか?」ということや、「そんなに難しいならやめちゃえよ。音楽は感じるものだぜ?」という意見があると思う。もちろんそうした意見があることは間違いではない。音楽は先程挙げた絵画や文芸などよりも抽象的なものだ。ストレートなロックミュージックだって、聞き手によって歌詞の解釈が違ったり、オケの印象が違ってくる。

この質問に対する立場の違いや、音楽を語る時の意見の食い違いは、「音楽の聴き方」が大いに関わっている。本書、『音楽の聴き方』は今まで漫然と音楽を聞いてきた自分の音楽体験を改めて振り返り、客観視をする試みをする際に役に立つ視点をくれる。

音楽は何故言葉にしにくいのか

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本書カバーから概略を引用しよう。

音楽の聴き方は、誰に言われるまでもなく全く自由だ。しかし、誰かからの影響や何かしらの傾向なしに聴くこともまた不可能である。それならば、自分はどんな聴き方をしているのかについて自覚的になってみようというのが、本書の狙いである。

音楽を語る、音楽について議論するとき、そこには暗黙の了解が働く。それがこの「音楽の聴き方は、誰に言われるまでもなく全く自由だ」ということだ。これに異論を唱える人はちょっと心が狭いというか音楽について語ることに向いていない。

主にクラシックを中心に議論が展開されるので、読んでいて堅苦しい印象を受ける人もいるかもしれない。しかし文章自体は読みやすい。著者の主張が分かりやすい。読んでいて特に苦労することは無かった。はじめにの段階で著者がこの本で一番伝えたいことが書いてある。

自由に音楽を聴くことなど、誰にも出来ない。ただし、自分自身の聴き方の偏差について幾分自覚的になることによって、もっと楽しく音楽と付き合うことが出来るのではないか──これが本書において最も私が言いたいことである。

 先程も触れたことだけど、このブログでもさんざん本や映画については偉そうに語ってきたけれど、音楽についてはそれらに対する「客観的意見」の衣を着せて意見を述べることはためらわれる。それは音楽を聞いた時の感覚を言語に変換しにくいからだ。本書で面白いなと思ったのは、三島由紀夫の言葉を借りて、音楽は受動的に楽しむものであるということを強調している点だ。

音楽についての価値判断がまやかしじみたものに見えるとするならば、その理由は一にも二にも、それが「触れてくる芸術」だという点にあるのだろう 。(中略)

三島は芸術鑑賞の姿勢を、「サディスティックな」ものと、「マゾヒスティックな」ものとに分ける。前者は造形芸術などであり、眼前に明晰な形態を見据え、それを能動的に把握しようとする。それに対して、受け身で対象に愛撫されることを好む後者の典型が音楽鑑賞だというのが、彼の主張である。

能動的に分析しようが無いものであるというのは、音楽を語るのに中々言葉が出てこない原因のひとつであると言う。

しかし、受動的であったとしても「好み」やピンとくる音楽、こない音楽があることに対して目を向けてみると、音楽を聞いた後の自分の身体的な感覚以外にも言語化できる部分が見つかり、そこに目を向けてみると自分の「聴き方」がわかってくる。そして音楽を語る「語彙」を身につけることができれば、音楽を語ることが容易になるという主張をされている。

その辺りの技法に関しては本書を購入して読んで欲しい。いや、そこを教えろよ!と思うかもしれないけれど、そしたら本を読む意味が無くなる訳で。

自由に音楽を聴くことなど、誰にも出来ない

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本書を読んでいて一番の気づきは、「自由に音楽を聞くことなど、誰にも出来ない」ということ。音楽を聴く時、我々は既に多くのものに影響されつつその音楽を聴いている。自分の感性100%でその音楽を自由に聞くことはできない。このことは、No Music No Lifeな人たちほど気がつかないかも知れない。今まで受けた影響を排して鑑賞することができないというのは、他の芸術を楽しんでいる時もそうだし、そもそも、人間の認識全般に言えることかもしれない。

自分の趣味を語る時、どのように伝えれば相手に臨場感たっぷりに面白く伝えることができるかを考えようとすると、自分がどういうふうに音楽を聞いてきたのか、またどういうふうに音楽を聞いているのか、影響を受けた考え方は何なのかということをチェックしてみることは、自分の言葉を探すことにも繋がってくる。音楽そのものではなく、音楽を聴いている自分に意識を充てること、そして音楽を語ることが楽しくなる一冊だと思う。

音楽が好きな人、音楽ブログを書きたい人は読んでおいて損はない。

以上『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』についてでした。

 

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