点の記録

点と点が結ばれるのをじっと待つブログ。主に書籍について。サブで音楽やら映画やら。

「許す」「許さない」について

「加害者のことを許す、許さないの判断を下せるのは、被害者だけである。」

『聲の形』という聴覚障害を持つヒロインが登場するマンガ、それを原作としたアニメ映画作品が賑わいを見せている。「ヒロインの行動が理解できない」とか「加害者側に都合の良いストーリーに吐き気がした」という意見が散見され、あまり好きな言葉ではないけれど、「大炎上中」だ。大反響と言い直したい。作品を見たことのない僕は作品についての意見は極力排除しながら今回の記事を書きたい。そもそもなんで未鑑賞の作品に関するいざこざについてあれこれ書きたくなったかというと、この作品わ、鑑賞したの方々のレビューの姿勢に思うところがあったからだ。この作品に腹を立てている人たちに対して、上記の「加害者のことを許す、許さないの判断を下せるのは、被害者だけである。」という立場についてどう思うか、聞いてみたいなと思いながら話を進めます。

どうしても「許せない」人 (ベスト新書)

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「部外者意識」を持つ

芸能人の不倫報道やら不祥事やらスキャンダルのときも思うけれど、我々は基本的に部外者であるということを念頭に置かなければ、そうしたゴシップを楽しむことすら、よろしくないんじゃないか。「部外者だからこそ、好き勝手に悪口を言えるから面白い」という言い分があったとして、なんとなくその楽しさは分かる。絶対に自分がダメージを食らわないことが分かっていながら攻撃を加える快感は、スポーツ観戦をするとき、下手こいた選手に対してブーイングをする心理に似ていると思う。ただ、スポーツ観戦にはマナーがある。選手が動くフィールドに、ズカズカ入って行くのはご法度だ。部外者が他人の問題に首を突っ込んで「許す」「許さない」というジャッジをするのは、審判以外の人が急にフィールドに出ていって「反則!退場!!」というくらい頭がおかしいことだと思う。そういう行為をしないというマナーを前提で、部外者意識は持たなくてはならない、ということを伝えたい。

不倫報道の際に、「これだから男は(女は)」という人たちがいるけれど、「あなた方が不倫されたわけではないから、そんなに腹を立てることないだろう」と言いたい気持ちが爆発しそうになるときがある。例え怒りを露わにしている人たちが過去に不倫の被害にあったとしても、他人の男女関係のもつれにとやかく情報を発信しても意味のないことだ。

『聲の形』はフィクションであるにも関わらず、なぜここまで「感動ポルノ」として大叩きに遭っているのか。それは作品を観ていない僕は語ることはできない。差別的表現が過度に含まれているのかもしれない。いじめが想像を絶する内容だったのかもしれない。ただフィクションの楽しみ方としては、個人的な作品に対する意見をダダ漏らしするのは、何かと損だと思う。ダダ漏らしている最中は腹が立つだろうし、そのダダ漏らしを見た人からは、感情だけで情報を発信してしまう人なんだろうなという印象を与えかねない。例えその発信者が作品を観たことによって多大な精神的苦痛を受けたのだとしても、先程の、自分は部外者なのだという意識は持ってもいいのではないだろうか。きっとその方が楽だよ。「なぜ登場人物はこういう選択をしたのか」「作者の意図は何か」ということを考えもしないで、「ご都合主義大嫌い!!」と喚くだけの人は、インターネットに向いていないんだと思う。

 

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

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部外者が考えるべきことは「許す」「許さない」ではない

僕は「差別」や「いじめ」を容認しているわけではないということを言いたい。それと同時に、差別やいじめというのは、加害者側の根本的な自己肯定感や自己効力感が低い場合に起きやすいということも訴えたい。

こうしたいじめや差別の加害者側は、偉そうぶっているだけで、根本的な自尊心が低いのではないかと思うときがある。自尊心の維持のため、保身のためにいじめや差別を行うケースなんかを本やテレビで見ると、特にそう思う。いじめのケースによっては、100%彼らの自由意志によるものではない場合がある。ミシェル・フーコーが言うところのバイオパワー的な何らかの見えない力が発生し、それらに翻弄されてしまう弱々しい連中だ。集団で特定の少数派、あるいは個を虐げることで、自分たちを自己肯定する。そんなちっぽけな自尊心維持のために、いじめられた方はたまったもんじゃないから問題なんだけれどね。

社会現象として、社会的病理としての「いじめ」や「差別」に対して考えるとき、一個一個のケースの内容を「許す」「許さない」と部外者が議論しても何も意味がない。それはあくまでも、当事者の被害者側が下すジャッジだ。部外者は見守ることしかできない。被害者が下すジャッジに対して、とやかくいう権利もない。気に食わないのなら、仕方がないのだ。一部の外国人が日本に対していつまでも恨みを持っちゃっているのも、仕方がない。部外者が考えられるのはせいぜい、環境をよくすることくらいじゃないのか。どうしたら加害者気質の人たちが自己肯定感を別の場所で育むことができるか、どうしたら被害者の心の傷を癒せるか、トラウマから解放させてあげることができるかという環境整備を、如何にしていくかということを考えないと、話が前に進まない。

今回の『聲の形』の場合なら、好みの問題として、個人的な感情としてという前置きをした上で、自分の怨嗟をありったけぶちまけるのもよし、美談を不快に思うもよし、そうではなく、恋愛エンターテイメントとして良質だ!と褒めてもよし。ただ、その個人的感情とは別に、この作品の意図は何で、登場人物はどうしてそういう行動を取ったのか?ということをしっかり考えるべきなんじゃないかな。「描かれていない」は言い訳だよ。読書では書かれていないことを考える必要があると言われている。マンガや映画だってそういう楽しみ方がある。「行間を読む」という行為は、映像作品にだって必要だ。そうしないと、自分の個人的な恨みつらみだけで作品を観てしまうから、多分辛い経験にしかならない。自分のトラウマ、偏見を強めても、ただただ辛いだけだよ。やめた方がいい。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

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完全版 いじめられている君へ いじめている君へ いじめを見ている君へ

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いじめとは何か 教室の問題、社会の問題 (中公新書)

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