点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

「積読」について

積読」とは何か

買ってきた本を放置してしまう。読書が好きだという人だろうが、そんなに本を読まない人だろうが、誰でも一度は経験があるんじゃなかろうか。本を全く買ったことがないという人は別だろうけれど。

買ってきたものの、机の上に置かれたまま放置され、それがそのまま何冊にも増えていくことを「積読(つんどく)」と言うらしい。「積ん読」とも書かれることがあるらしい。要はダジャレです。

個人的には最近やたらと目につくようになった言葉なのだけれど、どうやら新しい言葉では無いらしい。1986年に発行された外山滋比古著『思考の生理学』を読んでみると、「つんどく法」という章がある。

本を積んで、これを読破するのだから、これをつんどく法と名付けてもよい。普通、つんどくというのは、本を積み重ねておくばかりで読まないのを意味するが、つんどく法は文字通り、積んで、そして読む勉強法である。そして、これがなかなか効果的である。

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

 

 

本を読まずに積み上がっている状態について、必ずしも悲観的に捉えることは無いんじゃないかという意見は、30年前からある。こうした意見がもっと広まっていれば、読書に対するハードルが下がっていた気がする。積読なんてしてなんぼ。本は積んでいこう。買った本を読まなかったとしても、捨ててさえしなければ決して無駄だというわけではないという考え方が広がればいいのに。広まってほしい。

 

 

積読」は無駄なのか

「そうは言っても積読ってなんか嫌だ……」という人も多いんじゃないかな。「そもそも、お金を出して買ってきた本を読まないということは、その本代をドブにすててしまうようなものだ」なんて思ってしまうのは仕方がない。安い新書であっても一冊700~800円する。だったら本なんかじゃなくて漫画でも良かったんじゃないかとか色々後悔してみたりすることもあるかもしれない。それか、この本を買わなかったらお弁当一食分だったなとか、あの外食したときにデザート頼めたなとか、そういう考えが巡ってきてしまいそうになる、こともある。僕もそんなことを思ったことがある。

ただ、「読まない=金の無駄」という考え方がそもそも間違っているような気がする。本は買うだけでしっかり意味があると主張したい。

本を買うことができなければ、その本は本屋で立ち読みをするしかない。立ち読みはマナー違反だし、本は本屋の商品だから好き勝手におることもできない。本を買うということは、本に記載されている情報に対してだけ金を払っているわけではないのです。その本をどこに持っていこうが、どのタイミングで読もうが、本棚のコレクションにしようが、コースターとして使おうが、煮ようが焼こうが好きにできる「所有権」がついてくる。これは大きい。破棄さえしなければいつでも読めるのです。どういうふうに扱っても何も文句言わない。図書館の本は気を使って大切に読まなければならないけれど、買った本なら線を引いたりページを折ったり破いてスクラップブックに追加したり、食べたりしても文句言われない。すごい。持っているだけでこんなにアドバンテージがあるのだ、と考えてみるのはどうかな。それだけで心持ち楽になりそうじゃない?そうでもない?

 

積ん読本棚 幅35×高さ130cm (シルバー)

積ん読本棚 幅35×高さ130cm (シルバー)

 

 

読破するという前提を捨てる

読書以前の話だけど、「読書をする自分」にある一定の期待のようなものを感じている人は、積読状態を嫌うんじゃないかな。「本は買ったら読まなければならん!」と思っている人とかもそうだよね。大体の人は読めそうな本や、読みたいなと思った本を買うから、本を買うときはその本を読破するという前提で本を買うと思う。

でも中には思った以上につまらない本だったり、何書いてあるかチンプンカンプンだったり、価値観に合わなくて「もう読んでいられるか!」というものもあるわけだ。でも本を読めないとなんだか、負けた気分になるという人もいるんじゃないだろうか。買ったんだから読まなきゃという思いに囚われすぎるのも、ちょっと真面目がすぎる。

これがゲームだったらどうだろう。「クソゲー」というものがある。クソゲーは「クソみたいなゲーム」の略で、つまらない、あるいはシステムの構造上問題があるなどして、完成度の低いゲーム作品一般に対して使われる言葉だ。ゲームの場合、それがクソゲーだとわかった瞬間にプレイすることをやめても、「俺はこんなゲームすらできないなんて……」と落ち込む人は少ないだろう。本が読めなかったときの悔しさに似た感情は沸かない。たとえ悔しいと思ったとしても、程度が低いか、あるいは「こんなクソゲー掴まされて悔しい!」という、ゲームを最後までプレイできなかったこととは別の悔しさが出て来る。

本もこれと同じでいいんじゃないのか。つまり「読めなかった」と悩むのをやめようということが言いたいのです。

クソ本やトンデモ本というのは存在する。読んでつまらないと思った本や、ちょっと何言ってるかわからないという本は、無理して読む必要無いし、買ってから1ページも読んでいない本だって、「表紙や帯を見てもみたい気持ちが湧いてこない」という風に本の責任にしてやることもできちゃうわけだ。「買った本は読破しなきゃ!」なんて気持ちはかんたんに捨てられると僕は思う。そうすることで、積読へのコンプレックスは無くなる。

もっともらしいことを言えば、積み上がった未読の本があるということは、それだけまだ見ぬ世界があるということだ。その状態だけでも、今その本たちが手元にないという状況よりは、100倍もマシなんじゃないかな。

以上『「積読」について』でした。

 

どんな本でも大量に読める「速読」の本 (だいわ文庫)

どんな本でも大量に読める「速読」の本 (だいわ文庫)