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点の記録

点だけ打って線を引けない男が、点と点を結ぼうとするブログです。

「責任」と「責任感」

なんでも社会のせいにしたいときと、これは自分の問題だからと課題を受け入れたい時がある。これは自分の場合、完全にその時その時の気分に左右される。

例えば体型のだらしなさに気がつくとき。

気分が良い時は、「これは自分の日頃の不摂生で品のないクソみたいな食生活のせいなのだ!」と思って、ダイエット本なり筋トレ情報サイトなんかを見て、実際にやってみたりする。三日坊主になるのはさておき、実際に行動に移すほどのエネルギーが湧いてくるのが、「これは自分の責任だ」と受け入れられる時だ。

常に自分の体型を意識し、前向きに課題に対して向き合っていたなら、ぼくはこんな体型ではない。しかし厄介なガキンチョ精神が働き続けたお陰で、今でも体重は全然減っていない。

それが、「こんな体型なのは親のせいだ」とか、「国はもっと国民の生活水準を上げて、食生活の改善を豊かにするように努めろ」とか、そういう類の子どもっぽい、自己責任を完全に放棄する考え方だ。

これでは社会や環境の改善を待たない限り痩せられないことになる。親のせいだなんて言った日には過去のことをいちいち蒸し返すという全くもって無駄無駄な不快感を得るだけだ。そのストレスで太る。

ここで思うのは、「課題解決と責任の所在は、年がら年中セットになっていない」ということだ。太った体型を課題と認識して、それを解決したいとするならば、目指すべきは摂取カロリー<消費カロリーのみである。あとはそこに向かって自分に合っている方法論を見つけ、試して、実行していくだけだ。それだけの話だ。ここに本来、責任とか難しいことを考える必要はない。誰のせいで太ったのだーーとか思うだけ無駄だ。

ではなぜお前は責任の所在云々言い出したのか?

それは冒頭でも話した通り。単純に、課題を生み出した責任を自分にしていた方が、より課題を受け入れやすいからだと思っているからだ。

「自己責任論」はしばしば批判される風潮がある。自己責任が及ばない部分にも、自己責任を押し付けてしまえという動きがあるからだ。

自己責任ではないケースは何か。例えば子どものうちに、ダメな親に育てられてしまったが故に、心の病気になってしまったりした場合などがそうだ。この場合、その子の心の病を作った原因は100%親である。ところが自己責任論者は、「ではその病気を治す、治さないの判断、行動を起こす起こさないは自己責任だ!」とかいう。

これは制度上の「責任」と、「責任感」をごっちゃにしているからそういう事が言えるのだと思う。

親権を持つということは、子の財産管理や法律行為の代理人としての権利を有することであるのと同時に、監督・養護の義務を負うことだ。制度上、成年に満たない子どもは、親の親権に服すことになるので、未成年の子の行為は親の親権が前提になる。制度上、子どもがいくら責任を持とうとしても、法律がそれをさせないようになっている。子どもは責任を「制度上」取れない。

だから、子どもは制度上「自分がいい成績を取れないことも、いじめられるのも、彼氏彼女ができないのも、お金がないのも、全部親のせいだ」と言っても思っても、何も間違っていない。親が不快になるだけだ。

しかし課題解決と責任の所在はセットではない。

制度上、いくら問題無いとはいえ、自分からアクションを起こさないと物事が停滞してしまう場面があるよねーということを言っておきたい。「親のせいだ、親のせいだ」と言って何もしないのでは、その子は成長しないでしょ。これをやる気にさせるのも親の責任ではある、というのはさておいて。

ある程度の「自分のせいだよな、これは」と思う力は必要だ。こうした心の持ち方は、うまく使えば行動を促すツールになる。子どものうちに、こうした決してマジモンの責任ではないバーチャル責任を感じられるか否かは、結構あとあと大人になってから響きそうだ。

しかしそんな風に思えるのは限られた条件の元である。それが、「自分でやりたいと思った事だけ」というものであると考える。

これは自分が選んだことだ。これは自分がやったことだ。これは自分が招いたことだ。

こうした心の動きを、どれだけ他人から諭されず、影響されずに持てるか?というのがキモになる。納得してない状態のまま、マジモンの責任を取るのは難しい。

やりたくないら仕事をうっかり選んだとして、それに対して上司から「もっと責任感を持て!」と言われたとしても、そんなもの納得できるはずがない。いつか破綻して、なーんにもやる気にならない、責任なんて持ちたくないという事が起きてしまう。

なーーんにもしたくなーーい!と言うのが、子どもならまだいい。それは親のせいだ。しかし親権から解放された大人になると、今度は実際に「責任」を追うようになる。すると、ありとあらゆるものが自分のせいになる。マジモンの責任、つまり法律だとか契約内容だとか、そうした責任を加味した上で自分の気持ちをコントロールする必要がある。

だから、何か行動を起こすときは、まず大前提として自分から選択する。次に制度上の権利や責任を調べ、万が一失敗した時、それを果たせなかった時は、それ相応のペナルティを引き受けることに納得する。というこの一連の流れを想像する力、つまり「責任感」は、持っておいて損はない。

起業とかする場合、事前に実際に負うべき「責任」を知っておく。この責任、リスクを負いたくもないのに企業だー!とか言って失敗して、借金背負ったとか地獄以外の何ものでもない。首吊るしか道はないように思えてしまう。こんなはずじゃなかったとか言っても遅い。

借金背負うかもしれないけどやるぞー!という責任感が乗っかって、納得した上でなら、事前に借金背負った場合についても考えたり改善方法を下調べしているはずだ。実際に借金したときにも、じゃあどうするか?と次を考えられる。

負うべき責任やリスクを調べておけば、それを選べるという大きなオマケがついてくる。実際に負うべき「責任」と、やる気ツールである「責任感」をごっちゃにすると、ハチャメチャに苦しい状況に追い込まれる可能性があることは、日本人として日本に住み、生きること選んでいる以上、納得すべきことだよなーとか。

長くなったけど、そんなことを思ったよ。

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