点の記録

点と点が結ばれるのをじっと待つブログ。主に書籍について。サブで音楽やら映画やら。

エミール・デュルケーム『自殺論』──自殺について考える種本

 

自殺論 (中公文庫)

自殺論 (中公文庫)

 

若い世代の死因に自殺は多い。
日本人の年齢別死因では、20歳~39歳の第1位が自殺だ。

厚生労働省:死因順位(第5位まで)別にみた年齢階級・性別死亡数・死亡率(人口10万対)・構成割合

友人や、その親や、兄弟が自殺をすると、何もできないくせに「何かしてやれなかったのか」と思ってしまうのは何故か。それは「自殺とは防げるものである」という認識を持っているからかもしれない。そこで、自殺を食い止めるには自殺の原因を突き止めねばならないと考える。しかし、自殺をしてしまう原因は、個人的な悩みや、本人の精神状態、社会などの本人を取り巻く環境など、多種多様である。それらに向き合うことは非常に骨の折れることだ。

現代の社会でも骨が折れるというのに、今から100年も前にここに向き合った人がいる。エミール・デュルケームだ。彼は1897年に『自殺論』を世に出した。それまで自殺に関する研究がなかったわけではなかったが、自殺を統計と社会学的な視点から分析し、自殺の類型や、「アノミー」という社会状態を指摘して、その後の社会研究に大きく影響を与えた人物として知られている。

1888年デュルケームの高等師範学校の同窓生であり、親友であったヴィクトール・オンメーという人物が、自殺と思われる死因でなくなっている。このことが、彼を自殺の研究へ向かわせたきっかけになっているかは定かでは無い。当時ヨーロッパでは自殺率が上昇し、社会問題とされていた。社会学者という立場で彼を見ると、学者として、当時の問題解決にむけて努力したのだ、と思う。

たが、それだけでここまでの内容を著すことができるのかとも思う。本書を読み進めていくと、自殺の要因とは一体何か、何が自殺と関係し、どうすればそれを防げるかということについてを探ってやろう、突き止めてやろうという情熱が伺える。

当時は精神病と診断された人物による自殺のデータはあったが、それ以外の人々の自殺については、てんで資料が存在していなかった。個人の状態から自殺の原因を突き止めるのは、現代でも難しい。デュルケーム以前にも、手紙を遺して自死をしたケースから、死亡者の精神状態を解析しようという研究などもあったが、デュルケームはこれを充てにしなかった。それらの研究からは、自殺という現象に法則性を見いだせなかったからだ。

そこで彼は、社会環境などに目を向けることになる。

いはゆる個人たるかぎりでの個人、及びその動機や観念などはひとまずおいて、自殺の増減をうながすさまざまの社会的環境(宗派、家族、政治社会、職業集団など)の状態がどうなっているかをただちにさぐっていきたい。個人にたちもどって、それらの一般的原因がどのように個人化され、そこにひそんでいる人を殺めるという高価を発揮するかを究明するのは、それがすんでからのことである。

デュルケームは自殺を一つの社会現象と捉え、4つの自殺にタイプ分けをしている。(1)自己本位的自殺(2)集団本位的自殺(3)アノミー的自殺(4)宿命的自殺(注のみで語ったものなので、3類型とする意見もある。)とするのが自殺論の主張の一部だ。自殺論の中で最も有名な部分でもある。それぞれの解説はWikipediaにお任せする。

特徴的なのは「アノミー的自殺」だ。今まであった社会的な規範がぶち壊され、秩序が崩壊し、不安定な状態のときに起こる自殺である。こうなると、個人は抑圧状態から一気に幸福への追求を目指す。しかし世の中甘くないので、理想的な幸福状態と現実のギャップが開く。開きに開き、存在意義喪失や虚無感によって自死に至る。これを指摘したところに、同年代の他の自殺研究よりも注目される理由がある。

こっから個人的な感想。社会問題としての自殺というよりは、身近な人の自殺についても、この本の考え方を使って自分なりにまとめたかった。

自殺というものを考える捉える出発地点として、べらぼうに優れている気がする。それは社会問題としての自殺もそうだし、個人の自殺というものに対してもそうだと思う。彼の指摘した雛形を知ることで、自殺に共通する一つの特徴が浮かび上がる。それは「社会的に不安定な状態に注意せよ」ということじゃないかな。アノミー状態注意ですよと言われてみれば当たり前だけれど、確かにその通りと納得できる部分でもある。

既存の状態がぶち壊されるということは、それまでの心地よい状態が崩れるということだ。生物は現状維持を好む傾向にある。それをぶち壊されると、我々は必死になって元の鞘に収まろうとする。あなたが魚だったとする。のんきに泳いでいるうち、急に陸に打ち上げられてしまったとしよう。あなたは必死にひれをばたつかせ、なんとかしようともがくだろう。で、無理だ……となればもがくことすら諦め、窒息死の未来を受け入れる。随分勝手な解釈だけど、アノミー的自殺ってこういう感じじゃないかな。

急激な変化に適応ができないと、生物は死ぬ。よほどのことがないと、生物は急激な変化に適応なんてできない。そして、もとの心地よい状態を手に入れられないと知ると、突然無気力になったり、茫然自失としてしまう。死を選んでしまいかねない。

社会のアノミー状態や、社会の統合力が弱まりすぎることによる孤独感や不安感を感じることによって、人は自死をしやすくなるという視点は、現代の自殺を見る上での橋渡しとなっているはずだ。

デュルケームの指摘に限界を感じる人は、かつてデュルケームが考察していなかった分野、個人の心理状態や脳生理学の方へ足を向けたり、デュルケームの指摘と現在の状況の差異を見出して、自殺に対する科学の目は、どんどんブラッシュアップされるだろう。例えば、経済的に潤っている地域では自殺率が高く、貧困に苦しむ地域では自殺率が低いという指摘をしているけれど、多くの先進国では貧困層の自殺率が高い傾向にある。貧困を苦に自殺するケースというのは現代日本でも認められる。そういうのも、デュルケームを知らなければ、何故デュルケームの時代と違うのか、何が変化したのかという問題に気が付きにくい。

身近な人であればあるほど、自殺は悲しい。虚しい。残された我々は、自殺を選んだ人々が、溺れそうな不安や孤独や無力感などから抜け出せないと知った末の選択であるという悲しい想像か、あるいは、これでようやく楽になれたという、前向きなのかそうじゃないのか分からん解釈で気を紛らすしか無い。

前向きな解釈が悪いというわけじゃない。むしろ、自殺によって仲のいい人を失ったのなら、その死を悼み、しっかり悲しんで、その上で前向きに生きていく。そいつの分まで生きてやるくらいの気兼ねを持ってやるのがちょうどいいと個人的には思う。そういうことを、想像できるのが人間のいいところだ。

でもどうしても思ってしまうのは、病気だとか、人間関係だとか、お金だとか、自殺にはいろいろ理由はあるだろうけれど、自殺した人だって、楽に生きれたら生きたかったはずなんだろうな、ということ。

何がその人にとって心地よいことなのかを見誤らないようにする。言うだけ簡単だな。そうしたことをしっかりとできるようになるまでには、まだまだ時間が掛かりそうだ。