点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

『コーヒー哲学序説』から好きなものを語るときのテクニックを学ぶ

もしも自分が好きなものを発表するとして、それが世間からあまり良く思われていなかったり、あるいは、自分から推したりするのに引け目を感じるならば、寺田寅彦の『コーヒー哲学序説』を読んでみるといいかもしれない。

コーヒー哲学序説
 

物理学者であり、夏目漱石に影響を受けた随筆家でもあった寺田によるコーヒーエッセイである。Kindleでも読めるが、持っていなくても青空文庫寺田寅彦 コーヒー哲学序説)で読める。

構成としては、寺田の少年時代におけるコーヒーとの出会い、留学先や海外旅行でのコーヒーについて、日本で出されるコーヒーの珍妙さといった、寺田自身のコーヒーに関する思い出が前半から中盤にかけて書かれ、終盤にさしかかるあたりで、寺田にとってコーヒーとは何かを語る、という内容になっている。

寺田はコーヒーを哲学や芸術や宗教になぞらえながら、コーヒーの魅力を語る。戦後間もなく世に出たエッセイだけれど、コーヒー好きには同意できるところがあって面白いだろうし、何か文章を書くことを生業としたり、趣味としたりする人にとっては、「自分が好きだと思うものについては、程よく大げさに表現するほうが面白い」というひとつの視点を得られる。そういう場合、「キザったらしくなって良くないんじゃないか」と思われるかもしれない。そこのバランスを身につけられれば、読んでいてこっ恥ずかしいエッセイではなくなる。

先述のとおり、寺田の場合は自分の好きなものを、芸術、哲学、宗教という非常に大きな文化と対比させる。なんといったってこれらは、人類が文明を持った時代から、長きに渡って心を突き動かす原動力であった。寺田自身にとってコーヒーは、そうした原動力とニアリーイコールであると語ってしまうのである。

芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。これによって自分の本然の仕事がいくぶんでも能率を上げることができれば、少なくも自身にとっては下手な芸術や半熟の哲学や生ぬるい宗教よりもプラグマティックなものである。

芸術や哲学や宗教は、抽象的な世界観故に現実世界への還元が難しい。しかしコーヒーというのは、寺田個人にとっては、三流の芸術、哲学、宗教よりも実用的なものであり役に立つのだと、むしろ、それらよりも地位を押し上げてしまっている。

これに似た感覚を、僕は最近体感した。

このあいだ購入した聖書やコーラン、大乗仏典を読むにしても、なかなか恍惚とした心情にはなれなかった。しかし、兼ねてより信仰していた『ポプテピピック』という漫画を読めば、精神が高揚し、かつ安定するのである。あの漫画は間違いなく最近の僕の原動力に大きく寄与している。エイサイハラマスコイ。

 ところで寺田はこの文章の後に、こう付け加える事を忘れていない。

ただあまりに安価で外聞の悪い意地のきたない原動力ではないかと言われればそのとおりである。しかしこういうものもあってもいいかもしれないというまでなのである。

散々己の好きなものを持ち上げた後は、このように「茶目っ気のある自虐」をひとさじ入れる配慮が必要かもしれない。これがあるのと無いとでは大きく違う。理性を失った文章ほど、読んでいて不安な気持ちになる。この人大丈夫かしら?そう思われないようにするためには「私が言っていることは、まあ、おかしいことですよ、分かっていますよ~」とポーズを取ることは、リテラシー低下が叫ばれる現代において、取っておくべき手段である。

そして自虐の作法として欠かせない「開き直り」を入れる。これは読んでいる人に気を使わせない重要テクニックである。おかしいことは分かってるけど、別にそういうのがあってもええやないの~と入れることで、「ああこいつはコーヒー好きなんだな」と気持ちよく納得するのだ。

ところで『ポプテピピック』はアニメ化で盛り上がりを見せており、多くの人がこの作品に酩酊と中毒症状を誘発させられている。その点についてはコーヒーに似ている。芸術や哲学や宗教よりも、ファンにとっては原動力になるかもしれない。三流なハイカルチャーぶったものよりも、プラグマティックなものかもしれない。しかし紛れもなく、「安価で外聞の悪い意地のきたない原動力」に属する。普通なら、ひとつの作品に対してこうした言葉を使うのは引け目を感じるが、『ポプテピピック』は「クソ4コマ」を自称しているので容赦なく言い切れるのが良い。

ところで、本当にそれが原動力でいいのか?読書家なら、古典とか学術論文などから得た情報を原動力にすべきではないのか?と思われる方もいるだろう。しかし、いいのだ。「しかしこういうものもあってもいいかもしれないというまでなのである。」ということなのだ。

この結論部分に限っては、同作品を原動力とする、多くの人に同意を得られるはずだ。

『寺田寅彦全集・290作品⇒1冊』 【さし絵・図解つき】

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寺田寅彦随筆集 セット (岩波文庫)

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