点の記録

点と点が結ばれるのをじっと待つブログ。主に書籍について。サブで音楽やら映画やら。

行動的禁欲と地獄の設定

何かを成し遂げる人というのは、ミスター社会学マックス・ヴェーバーが言う「行動的禁欲」を自然と身に着けている人であるように思う。

行動的禁欲というのは、目的のために、その他一切の欲求を忘れ、ひたすらに目的の達成の為に行動する態度のことである。マックス・ヴェーバーは、この行動的禁欲という概念を、資本主義発生のメカニズムの解説に使った。資本主義の発生に大きく貢献したのが、職業人の倫理であり、それは禁欲的なキリスト教の一派であるプロテスタントの教えが由来であった、と分析している。

死後、天国に行くか地獄に行くかというのは、もうすべて神様がお決めになっているのだという「予定説」を信じていた人々は、神から与えられた天職を全うし、神の恩寵を受けようとした。ここで、労働の対価である金を目的とはせず、労働そのものが目的化するようになった。人々は働くこと自体に喜びを感じ、入ってくるお金は天職を最大化させるために利用されたり、蓄えられたりする。無駄遣いをせず、身を粉にして働いた結果、資本がたまり、資本家が誕生するというのが、ざっくりとした資本主義の発達過程だ。だいぶ端折ったけど。間違えてたら教えて下さい。

ところで日本では、このような態度を禁欲とする認識が薄い気がする。

日本人の文化を形成する宗教って、なーんだ?というテーマで良く耳にするのは、「神道」と、「儒教が混ざった仏教」である。もっといっぱいあるんだろうけど、ぶっちゃけそんな知らんし責任持てないので端折る。で、仮にこの2つが日本の文化に影響を与えているとして、これらのものから想起される禁欲のイメージは、ウェーバーが言うような禁欲とは違う気がする。

禁欲とは苦痛の伴うものであり、禁欲を超えた先の境地を目指すための必要な過程であり、欲求を無理やり抑えるというイメージがなかろうか。もしかしたら偏見か。

ここで冒頭の主張に戻るけど、何かを成し遂げたいと思っている場合に必要なのは、上に書いたような日本的な禁欲ではなく、ウェーバーの言う行動的禁欲のほうが望ましいように感じる。

例えばダイエットを例に説明してみる。日本的禁欲の態度でダイエットを見るならば、「運動したくないという邪念、三日坊主という怠惰、卑しい食欲を抑えてこそ、理想体型という境地にたどり着く」という見え方になってくる。

対して行動的禁欲の態度でダイエットを見るならば、「理想体型になるために、湧き上がる食欲とか運動が面倒くさいとか、そういう気持ちは忘れた!!」となる。さらに言えば「運動していること自体が嬉しくなっちゃってさ!」と本心から言っているような状態になるだろう。

「目標達成するためには、過程自体を楽しむべし」というのは自己啓発本において使い古された常套句である。我々意識低い系は、そんなありふれた一般論に頭を下げるというのは納得がいかない。そういう反骨精神だけは、いっちょ前に持っていたいのだが、悔しいかな、我慢することが嫌で嫌で仕方がない我々に残された道は、もはやこれしか無い。「楽しむべし」というのも生ぬるい。ここは「さもなくば地獄に堕ちる」くらいの気持ちが必要かもしれない。

現代人にとって難しいのはここだ。昔の人は、そこそこ地獄だったりとか、救済されなかった場合のイメージが共有されていたかもしれない。しかし現代を生きる我々はどうだ。何を地獄とするか?ですら、個々人の判断に委ねられる。気が付かないうちに地獄化している可能性があるのだ。

山崎が行動的禁欲を発揮できるものといえば、読書とか映画とかくらいだ。言ってて悲しい。

目的はもちろん神の恩寵を受ける為である、なんてことは無い。「面白いものを通じて人と繋がる」という矮小なものだ。でも、この目的のためならば、体調不良であっても読書レビューないしは映画の感想文を書くために、読んだり観たりすることに躊躇しない自信はある。技量の問題で、しっかりとした文章や感想が出来上がるかは微妙だし、ブログの更新をしなくても、手頃なところで人と繋がれることが分かったせいで、こっちでの本気度が伝わらないというのは言い訳にしかならないが、しっかり書いておく。

もしも本や映画も見れなくなっても、「面白いものを通じて人と繋がる」ということができるものがあれば、そちらに行くだろう。小さいころはそれがテレビゲームだったりした。だが、そういうものがいよいよ無くなってしまうのであれば、たちまち世界は色味を失い、張り合いがなくなり、人との会話も交わさず、ただ興味もない仕事で稼ぎ、ありがたみのない対価を得て買った惣菜パンやジャンクフードを貪り、冷えた便器でウンコを垂れ流す毎日を送るのである。

これは僕にとって、甚だ地獄に等しいものだ。