点の記録

点と点が結ばれるのをじっと待つブログ。主に書籍について。サブで音楽やら映画やら。

面白いレビューを書きたい

山崎は「面白いレビュー」を書きたい。

何故か。

我々オタク共が手っ取り早く自分の好きなことで社会に役立ちたいのなら、作品に金を出すか、作品を他者に語るかをすることに絞られてくるからだ。

オタクにとって、見た、あるいは観た、聞いたものを自分の中にしまい込んでおくのは勿体なさすぎる。インターネット上の口コミが未だに説得力を持つ時代である。ならば、クリエイターを食わせ、より良い作品を作ってもらうためにも、「魅力的な表現で作品を語り、語った人に実際に触れてもらう」という技能は必要だ。クリエイターや制作サイドに金が入り込めば、より良い作品が我々に供給される。オタクが自分の煩悩を満たし、かつ不特定多数の他人の役に立つには、この方法が手っ取り早いのである。

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則

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ところで「レビュー」とは何か

レビューは英語でReviewと書く。英語2の山崎でも意味するところは字面で分かる。Re-再び view-見る である。見直し、とか、再検討とかの意味が含まれているものだ。

この世で最も全知に近い存在であるGoogle様に聞き及んだところ、「評論」を意味するのが一般的だ。しかし「評論」とはなんとも堅苦しいイメージが付随する。だから素人が何かについて語る時にはあまり使われない。

我々は中学から高校までの間に、現代国語の授業において、「評論文」に手ひどくやられているから、エントリーのタイトルで「スター・ウォーズ エピソード7 評論」とか書かれても、正直見る気がしない。読み手も読みたがらないし、書き手にしても評論なんて言葉は使いたがらない。書き手が学術関係者ではない場合、そんな大それたことを言うつもりも書いたつもりもないという精神的なブロックがかかる。そこで英語表現のレビューのほうが砕けた印象があるため、こちらが好まれて使われるようになったのではなかろうか、とこのサイトに書いてある。

[三省堂辞書サイト]10分でわかる「レビュー」

レビュー=評論として話を進める。

大辞林によると「評論」は

物事の善悪・価値などについて批評し,論じること。また,それを記した文。

となる。エッセイ、随筆と比べると、論理、ロジックを用いることに重きをおいた表現方法と言える。

書籍や映画、音楽について語るとき、エッセイであってはいけないと言うつもりはない。むしろ、小説や映画などのフィクションは、論理という世界観で語れない部分を伝えようとすることで、ググッと魅力的な文章になる場合もあるから、物によってはエッセイとして思ったことを書いた方が良いものもあるかもしれない。

では何故、山崎はエッセイではなくレビューを書きたいのかというと、それはエッセイを書くに耐えうる教養や修辞、人間的魅力や技量を持ち合わせていないからだ。

評論は論じるというルールがある。論じるというのは、根拠となるデータを、主張との裏付けをしつつ展開する文章形式だ。つまりルールを守っていれば、文章としての質は「筋が通っている」としてある程度保障されることになる。

書評で例えるなら、「この本は面白い」という主張をしたい場合、それが面白いという根拠となるデータ(本文からの引用など)を見つけ、なぜ主張を裏付けるデータと言えるかを記せば、言っていることに筋が通っている、妥当性があるとして、一定の評価ができる。

しかしエッセイとなると話が異なってくる。これは論理を使っても良いし、自分の心情や感情を文章に乗せることも、後ろめたさを感じずに堂々とやって良い。そのため、よほど文章の心得がなければ、しっちゃかめっちゃかな文体となって激ダサになる。これは文章の極意を掴んだ作家、あるいはその才能を持つ人がやるべきことであって、エッセイで人の役に立つというのは、山崎のような凡夫には到底不可能な境地だ。

ところで、しっちゃかめっちゃかな文章でも需要のある場合がある。

それが先程あげた、人間的魅力である!人間的魅力があれば、よほど日本語としての体裁が崩れていなければ、ある程度整合性の取れていない文章であったとしても、「○○さんらしい」ということでケリが付く。

あぁ!エッセイストへの道は潰えた!……目指してないけど。

結局のところ、どこぞの馬の骨が書いたエッセイなんぞは見向きもされない。山崎が歴史に残る名文を生み出せたとしても、現状、地下アイドルがプロモーションで使っているTwitterの電波キャラめいたつぶやきにすら勝てないのだ。

「もっと読みたい」と思わせる文章を書く

「もっと読みたい」と思わせる文章を書く

 

話を戻す。

ネットにある書評サイトでエッセイ的な文章と書評の違いを体感したいなら、松岡正剛氏の『千夜千冊』と、Dain氏の『わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』に掲載されている書評の数々を比べて頂ければ分かる。

松岡正剛氏はエッセイ的で、テーマとなる本に関する話が無尽蔵に飛び出してくる。まさしく散文的だし、ボリューミーだし、専門用語が出てきたら初学者以下の分際では太刀打ちできなかったりするのだけど、面白い。まるでさらわれるかのような心地がする。書評というよりも書をテーマに自身の主観を織り交ぜた作品を読まされている気分になる。こんなふうに、深い教養に裏打ちされた、遊びのある文章が書けるようになりたいものだと、もれなく書評家が憧れるひとつの型だ。

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松岡正剛の千夜千冊

 

対してDain氏は書籍の紹介に努め、どこがどのように面白かったのかということをファクトベースで書いているように感じる。Dain氏の書評の特徴は、相当な読書量から繰り出される要約力の妙である。一文字目から最後の文字まで読むと、本の概略を掴んでしまえるほどに分かりやすい。もちろんネタバレや核心には触れられないから、読みたくなる。Dain氏から圧倒的な焦らしを受けている心地がするのがたまらない。

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わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

この2つの書評サイトの「面白さ」は、全く別の面白さである。

取り上げられている本を読みたくなるのは、松岡正剛氏よりもDain氏の方だ。こりゃあよほど面白い本だったに違いないと猛烈に刺さる。読まねばならんと思うほどで、紹介されている本をもれなく図書館から借りたり買ったりしてしまっていた。

松岡正剛氏の方は間違いなく本について語っているんだけど、全然関係ない分野の話が飛び出してきたり、横断的な視野を獲得できる読み物のようなものに近い。だから、エッセイ的とはいったものの、読み通せば道筋をたどってひとつの視点を得ることができる。得られるのは松岡正剛氏の視点だ。

作品について語るときに、「触れてもらいたいから語る」のと、「自分の考えを伝えたいから語る」のとでは種類が違う。山崎が今後身につけていきたいのは前者の態度だ。自分が読んだ本、観た映画のどこが面白かったかを、筋道通して語りたい。ついつい山崎は「あの映画のあそこでね、登場人物がぶぁーっとなって、敵がボォーンつって、最後におばあさんがぐちゃぐちゃになります面白いです」みたいなことを言いがちだが、そういうのもうやめたい。

あと文章を凝ろうとして、日常使わないような言葉を使ったりするから、もう、ひやーー!痛いよぉー!と読み返した後に死にたくなる。ちょっと中二病をこじらせたのが山崎の持ち味であると開き直るのには、まだ時間がいる。

作品に対する情熱を、理性と論理を意識しながら、うまく文章に流し込むには鍛錬がいるだろうけれど、少しでも「お前のブログで取り上げてた本、映画、面白かったよ~」と声を書けてくれる人が増えればいいなと思います。