点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

『読んでいない本について堂々と語る方法』

 

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

読書が苦痛で仕方がないけれど、それでも読みたい!と思っている真面目な人に一冊送るとしたら、この本を送りたいです。

ところで、沢山本を読めば、本について沢山語れるのではないかと思っている人たちへ。注意してほしいことがあります。それはこちら。

どれほど熱心な読書家であっても、存在するすべての書物のほんの一部しか読むことはできない。したがって、話すことも書くことも一切しないというのでないかぎり、つねに読んだことのない本について語らされる可能性があるのである。(ちくま学芸文庫版 p23)

身も蓋もないですよね。それがこの本のいいところです。

ユニークな言説で人気の読書本ですが、内容は骨太。僕にとっては、読書とは何か?本を読む、読んだ、とはどういうことなのか?真の教養とは、どういうものなのか?ということに改めて目を向け、向き合うきっかけを作ってくれた本です。

本好きであればあるほど、「読んだ」という状態に固執したりしてしまいがちなんですけど、「読んだ」という状態って、何なのでしょうか。誰が決めるのでしょうか。「読んだ」という状態を規定できなければ、「読んでいない」という状態を規定することもできないわけです。

「読んでいない」という概念は、「読んだ」と「読んでいない」とをはっきり区別できるということを前提としているが、テクストとの出会いというものは、往々にして、両者のあいだに位置づけられるものなのである(p15)

何をもって「完璧に読んだ」とするのか?を考えるとキリがありません。主観の話ですから、議論の題材にできるような基準を作ろうとすると無理が出てきてしまうんですね。そこが世に出回っている教養本と違うなと思うところでして。

大概の読書体験というのは、「両者のあいだに位置づけられる」つまり「読んだ」とも言えるし「読んでいない」とも言える状態に、あらゆる本が存在するのだ、と考えているところは、非常に納得の行く考え方です。

昨今「教養ブーム」が未だに続いているように感じている(僕だけでしょうか)のですが、この本でも「教養とはなんたるか」ということについて語られている部分があります。

書物の中身に首を突っ込む者には教養を得る見込みはない。読書の意味すら疑問である。というのも、存在する本の数を考慮するなら、全体の見晴らしをとるか、それとも個々の本をとるかを選ばなければならないが、後者の場合は、いつまで経っても読書は終わらず、全体の掌握にはとうてい至らないからである。(p31) 

教養ある人が知ろうとつめるべきは、さまざまな書物のあいだの「連絡」や「接続」であって、個々の書物ではない。(中略)教養の領域では、さまざまな思想のあいだの関係は、個々の思想そのものよりもはるかに重要だということになる。(p33)

 「読んだ」という状態への固執、執着が、あなたを教養ある状態から遠ざける可能性があるわけです。連結や接続、全体の見晴らし、これらに目を向けずして、本について語ろうとするならば、ひどく狭い視野によって本を語らなければならなくなってしまい、本について語ることが窮屈で仕方のないことになってしまいます。

著者が、「むしろ読まないほうが本について語ることができる」という意見を持っているのは、こうした教養に対する態度があるからだと感じます。

まずはその固定概念を捨ててしまいましょう。もしも読んでいない本について語ってくれと言われても、全体に目を向けていさえすれば、自然と言葉が出てくるはずです。

その際は、まずは気後れしないこと。自分の意見を押し付けてもいいし、本の内容をでっち上げてもいい。その本を頼りに自分自身について語ってしまってもいい。こうした部分の技術について語ってしまうと読んでくれそうもなくなるので、ここでは書きません。

なぜこの本を冒頭で話した方々におすすめしたいかというと、「読まない重要性」に気がついて欲しいからです。読まないことによって視野狭窄を防ぎ、読まないことによって無知蒙昧を打破できることもあるからです。

本なんて読まなくても生きていけます。インターネットが発達したこのご時世、本を読めないことは悪いことではありません。知識収集ならインターネットで入門の知識は手に入れられます。そういう態度に自信を持って切り替えられる本なのでオススメしたかったんですね。

この本を最後の読書にしてしまうのもいいのかもしれません(笑)