文庫-LOG編集後記──「読書術本」って胡散臭いかもしれないけど優しい存在だよね
新しく初めた文庫専門のブックレビューサイト『文庫-LOG』がぬっぽりスタートしており、3つの記事を書いた。
所謂「読書術」に関連する本達で固めてみたのは、新年度だし、ちょっとでも自己啓発的な内容に興味を持った人が釣られないかなという黒い期待からである。
1冊目『本を読む本』、2冊目は『読んでいない本について堂々と語る方法』、3冊目『どんな本でも大量によめる「速読」の本』というラインナップを組んでみた。
それぞれ全く異なる視点から、読書についてアプローチをしている。
3冊並べただけで、あれだけの違いが色濃く出ているので面白い。
日本のみならず世界には様々な読書術があり、これが1番であるという読書術は確率されていない。そしてこれからも、確立はしないであろうという予測は、まともな頭の持ち主であれば、なんとなく気がつく。
僕は、読書術が生まれる視点は2つ有ると考えている。
1つ目は「読書が好きだから」生まれる視点。
2つ目は「読書が嫌いだから」生まれる視点。
しかし、どっちも似たようなものになっていくから不思議だ。
読書が好きならば、「より早く沢山読みたい」と言って、読書が嫌いならば、「コスパ重視の読み方」として、どちらも「速読」に注目が集まる。
今度は、読書が好きならば、「本を読み飛ばすなど言語道断、知の世界に溺れるべし」と言って、読書が嫌いならば、「嫌いなものだからこそ向き合う方法はこれ!これであなたも読書が好きになる」と言って、どちらも「精読」や「遅読」などに注目が集まる。
行きつく先は「○○読」という「型」だ。型があることによって、「このようにすれば、今までの読み方をアップグレードができるという幻想」を生み出し、「モチベーション」が引き出される。武道の型もそうだ。やたらめったらに攻撃や防御するよりも、効率の良い身体の動かし方を学ぶことによって、強くなることができる。
だから、今後もこういう書籍は必要なんだと思う。
すべての読書術は……というのはいささか乱暴であるが、「学校で習わされるつまらない本の読み方」との関係の上に成り立つ。つまり、読書に対してネガティブな印象を抱いていたものを、アクティブな態度に変えてやる起爆剤として書かれている必要がある。もともと読書が好きならば、更にブーストをかけるようなイメージかな。
そうした要素がなければ読書術本ではない。
読書術の古典である『本を読む本』は、シントピコンという縦横無尽の体系的な教養の形態に対する憧れを我々に抱かせ、分析読書という途方もなく大変な作業に向かわせようとする。
- 作者: J・モーティマー・アドラー,V・チャールズ・ドーレン,外山滋比古,槇未知子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1997/10/09
- メディア: 文庫
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「型」にこだわりすぎてもつまらなくなるという注意点を教えてくれる本は少ない。それを打破したのが、『読んでいない本について堂々と語る方法』と『どんな本でも大量に読める「速読」の本』である。
まず、『読んでいない本について堂々と語る方法』。
この本によれば、「読書において【既読】と【未読】の境界線は曖昧であり、我々は、我々を取り囲むあらゆる書物について、一定の既読状態にある」という大胆な分析がされている。これは、読むことについてこだわっていた者たちに対して、強烈なメッセージである。「自分は一体読書に何を求めているのか?」という根本的な問いに目を向けさせてくれる。
僕はこの問に対して、「読書は趣味である」という解を得た。
その背中を押すように、『どんな本でも大量に読める「速読」の本』が教えてくれたことがある。本書は胡散臭い速読本のようで、読書中に陥りやすい罠について教えてくれるいい本であると思う。
それは、ある本に関連するストック(経験や知識)が備わっていない場合、その本は、速読はおろか普通に読んでも理解すらできないということである。分からない本ならばウンウンうなってないで先を読めというのは、僕にとって一つの驚きであった。学校では教えてくれない読み方だ。
分からない箇所があれば読み飛ばし、もう一度最初から読んでみたり、同じ分野の別の本をパラパラめくったり、ぼーっとインターネットでその本について調べたりする。そしてもう一回その本を読んでいると、ああなるほど!となったりするもんだ。
何も一回で読み切ろうとしなくても良いのだ。意味理解や読書スピードは、知識経験のストックの量や質に依るところが大きいのであるから、焦らずとも良いのである。
読書術本は優しい。だからその分、怪しい。
だが、本に対する苦手意識を克服してくれようとする重要な存在である。フォトリーディングだってあんなの絶対無理だけど、最初はそんな気持ちから出てきた案に違いない。胡散臭くても、読書に関する悩みや心の壁を解決しようという試みなのだ。
こうなってくると、「どんな方法で」というのは、好みでしかない。
読書とはあなたと本の世界観とのつながりを作る行為だ。その本から何を読み取るかは、あなたの自由である。間違えた解釈をしてしまっても、あとで誰かが指摘してくれるから、焦ることは無い。
だから僕は、本を趣味として、思いっきり楽しめているのだ。この3つの記事を書き終えてから、改めて実感した。たまにはこんなことを言ってみてもいいじゃない。
春だし。
関係ねえか。