点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

2019-04-17

 『うつ病は下痢に似ている』という文章を書いた。家族にもそのように伝えた所、納得のいくようだった。精神の調節ができないのは、ちょうど腹を下した時に、どう頑張っても漏れるときは漏れるという、あの感覚に近い。考え方を変えても、下った腹は便を出しきらなければ回復しないという感覚に近いと話した。

 うつ病の場合は感情を出し切るのが良いのか良くないのか、僕にはわからない。ただ、この説明をすると、大体納得してくれるので、表現は汚いが便利である……と思っている。人と接する機会のあるうつ病患者で、うつ病ってどんな感じなの?という質問にウンザリしてしまった人は、自己責任で使ってみて欲しい。食事中にすると嫌な顔をされる危険性があるので、おすすめしない。

 ところで、現在僕は立川の自宅を離れ、近所の実家に厄介になることになった。しばらくはここでゆっくり養生し、来るべき社会復帰に備えて力を蓄えようと、家族会議で決まった。親には感謝しか無い。

 どうやら、こうなったことについて、親も責任を感じているらしい。僕は自分がうつになったのを、親のせいだと思っていない。その理由については、後述することにする。だから、親には感謝しか無い。本当にありがたい。お礼はからなずしようと心に決めた。そのためにはまず回復である。

 また、仕事を辞めようとか、医者に行こうとか、家族を頼ろうといってくれた、僕の彼女さんにもお礼を言った。もう少し、ちゃんと言いたいから、健康になったら何か感謝のしるしとなるものをプレゼントしたいと漠然と思う。彼女がいなければ、首をつって死んでいたかもしれない。

 

 話は変わるけれど、Achelou家は、僕が18歳で家を出てから、いつの間にか「1日1食教徒」になった。まだこんなことになる直前、およそ1年ぶりくらいに再開したときに、母から言われた。父に会ったときに恐ろしく痩せていてちょっと心配した。その後僕は1日1食のリスクについて、母にとうとうと語った。しかし、その時には既に両親とも1日1食教であったがゆえに、特にその後も1日1食の食生活を変えなかった。

 で、そんな環境にて養生することになった僕だが、結局僕も「1日1食教」に入信いたしました!結局ね!いやーいいっすわ。楽で。自分が作るというときも、1日1食しか考えなくて良いのはとてもいい。

 タンパク質中心の食事を心がけると、不思議と1食でもあまり腹が空かない。もし万が一腹が減っても、おやつにはアーモンドか、ゆで卵か、チーズを食えばよろしい。白米は食べないが、調味料などに含まれる糖質などの排除などはしない。つまり、緩やかな糖質制限メニューで食事をしている。

 うつ病患者は食生活について、よく下記のように指導される。

 「3食リズムよくバランスの取れた食事を摂取せねばならない。さもなければ生活リズムが狂い、うつは悪化するであろう」

 しかし、こちとら「3食リズムよくバランスの取れた食事」を考案するだけで気が狂うほどに精神を摩耗するような状態である。この課題はクリアできるであろうかと不安に思っていたが、杞憂に終わった。働いていないせいもあるかもしれないが、1食で満足することを身体で覚えたので、とりあえず「朝決まった時間に起きる」ということを目標にして動いている。よほど朝の抑うつがひどくない限りは起き上がって、太陽の光を目に入れるようにしている。

 

 そうだ。さきほど、僕のうつの原因は親のせいではないと書いた。では何か?僕は「性に合わないポジティブ・シンキング」によって、うつになったのではないかと思っている。不安や緊張は武者震いやワクワクであると捉えなおしたり、体の震えは無意識が現状を打ち破ろうとしている証拠だと再定義したりしていた。しかし、不安は不安であり、緊張は緊張である。これらを感じている間、「それは僕らしくない!そんな僕ではダメだ!」と言い聞かせていた。

 不安や緊張を感じる自分に対して、「それでもいいじゃん」と言葉をかけてあげることがなかった。「自分自身を許す」ことができなかったせいで、自分にとって嫌なこと、辛いことに鈍感になり、積もり積もったほころびが一気に爆発して、現在のような状態になってしまったのだろう……ということじゃないかな、と思っている。その他、体調面や金銭面での不安などが複合的に絡み合っているのは否めないが。

 まあ、今更「○○のせいで」という議論をするのはムダだから、もうやめたい。何が原因でも、今はメンタルがバグっているのだから、治すことだけ考えよう。休む。

 というわけで、新○○人の皆様方は、ぜひとも「自分自信を許す」ことに、勇気を持って取り組んで欲しい。

 僕は今、「今までのダメな自分」や「過去の失敗」という、現在有りもしない想像上の産物に囚われてしまうことがある。これは病気のせいだと知識で分かっていても、辛い。この記事を書く直前も、それらに思考を蹂躙されていた。しかし、そういう想像上の産物であるダメな自分、さらにはそれに囚われている自分も含めて、許しの言葉を投げかけてやることで、回復をしようとしている最中だ。

 ネガティブなことを思うのは、もう仕方ない。そういうもんだ。全然ダメなことじゃない。なぜなら、それでも生きている。ネガティブじゃなかったら、今頃死んでいたかもしれない。生きているうちは、何度だってやり直せる。そう思えただけで、自分はすごいやつだ。それでいいんだ。ゆっくりやろう。

 心の底からそう思える日がくるその日まで、僕はひたすら自分を許してやるつもりだ。

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散歩中の風景。