点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

洋服を選ぶことが苦痛だ

 自分から洋服店に足を運ぶことは2年に1度ほど。主にやぶれた下着や、相方に先ただれた靴下の代わりを探すための買い物であって、自分の好みの洋服を探しに行き、それを喜々として買い求めるためのものではない。

 あらゆるものに自信を無くしてきた僕だが、「デザイン」やら「ファッション」というものに関しては格別に自信がない。独断で選んだ洋服は、ほとんどの場合、周囲からダサいと決めつけられた。中学から高校にかけて、自分の美的センスに関して難癖を付けられ続けた(と思い込んでいるだけかもしれないが)ので、いよいよこれを向上しようという努力することに見切りをつけた。

 そうした過去が原因かはわからないが、洋服店に行くと脂汗が出たり、脈が早まったりする。そのため夏場は試着ができない。なので、できれば赤ん坊がごとく、全てのコーディネートと、購入に必要な費用を他人に押し付けたい。洋服に金を使うのはストレスでしかない。

 ファッションについて無頓着だと、他人のファッションに対しても無頓着である。

 他人が着る服に対して、似合っているのかいないのかを判断するのが難しい。そもそもファッションに関心を向けるには努力がいる。こだわる人はあれこれ悩み、考え、自分に最適である!と思って選んだ洋服を着る。つまり努力をしているのだ。なるべく気がついてあげたいのだけれど、残念ながらそちらのセンスに対しては心を閉ざしているので、ぜひ僕の友人知人家族には、新しい洋服を褒めてもらいたい欲求を我慢して、「Achelouはこういうのに気が付かない人間だから仕方がない」と諦めて欲しい。

 本心を言えば、そこが僕の魅力ではないか。小手先の見た目よりも、本質的な部分を見ながら人と接しているのだから、むしろ外見を褒めないということは良いことだ。

 しかしよく考えると、選ぶのが苦痛であっただけで、実際には「好み」というものは存在するのだ。例えば、英語がベタッとプリントされたピンクのジャケットに黄色のシャツ、タイトな紫色のズボンを履けと言われても、嫌だ。もっと地味で無難で人混みに溶け込めるようなものが良い。当たり前である。ピンクのジャケットや黄色のシャツ、紫のズボン……それは僕が高校の頃に着てみたいなと思ったファッションだったからだ。

 当時P-MODELプラスチックスYMOなど、70年代後半に巻き起こったテクノポップブームの音楽を聴いていたので、そういう服を着てみたいという欲求はあった。試しに友人に「こういうのカッコいいな」とそれとなく意見表明をしたら、「実際に着てきたら友達やめたいけどね」という心無い一言を浴びせられたことがある。それほど時代とズレたファッションセンスなのだから、僕がカッコいいと思った服は、一生着ることができないのだ。

 誤解を招くといけないので書いておく。未だにあの70年代~80年代初頭にかけての、P-MODELヒカシュープラスチックスYMOのファッションというのには惹かれるものがあって、決してダサいと思ったことがないということを。いつか着てみたいが、ファッションセンスのプライドがない男というのは、人の顔色をうかがいながら、「ダサい」と言われることを恐れ、地味な服を選ぶような男のことだ。

 そういえば『服を着るならこんなふうに』という漫画がある。これはファッションに対して自信のない男がファッションに目覚めていくという話だ。僕と同じようにファッション恐怖症の人間は一度読んでみて、参考になる箇所を取り入れてみると良い。

服を着るならこんなふうに(8) (カドカワデジタルコミックス)
 

 ちなみに、これを読めば洋服嫌いも克服できるかと思ったのだが、8巻も出ているということは、それだけの基準がファッショにはあるということだ。なんだよ!もっと簡単かと思ったのに!面倒くさいから、「服の種類を削る」という方法を取ることにする。

 今度GUに行って、同じ色のジャケット、同じ色のシャツ、同じ色のズボンの組み合わせを複数用意して、スティーブ・ジョブズのマネでもしてみようかと、割と本気で考えている。

 どの洋服にしようかな?と悩む時間は、僕にとっては過去のトラウマをよみがえらせるだけの悲しい時間だ。だから、それとおさらばするために、僕は同じ洋服で揃えようと思う。5月に入ったら、部屋着を除いて、同じ洋服だけ着るようにしよう。

 「こいつ洗濯しているのかな?」と人に思わせないように、大事に扱うことに苦労することになりそうだけれど。

 無難にストレス無く生きる準備として。

以上