点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

無駄とは何かーライブレポート記事を書いて思ったこと

平沢さんのFUJI ROCKの記事を多くの人に読んでいただいているみたいで、大変にありがたいと思います。限界オタクさながらの語彙力低下に悩みながら、ええいままよ!と投稿したところ、僕のブログの記事の中では一番読まれた記事にまりました。

このブログ、大体平均して50PVくらいなんですよ。

それがたった1日で400PVほどになっていて、びっくり致しました。

人が何を求めているのかというのは、本人が意図していないところにあるものですな。

読んでくれたのは、だいたいがTwitterからの人でした。こんな感じで共有しました。

RTで回ってくる情報の中には、有益なものもあれば、目も当てられないほどに酷いネタツイートもあるわけです。僕の記事は、おそらく後者に当てはまります。生活に必ず必要なものではありません。と、僕は思っています。

しかし、それを有益か否かと決めているのは読み手の主観であって、書き手の主観ではないのだということを、再認識した次第です。

ところで、あの記事を書いたあと、ブログの記事の質にこだわるのって無駄なのかしら、とか思ってしまったりもしました。というのも、平沢さんのFUJI ROCKのライブレポートは、「もう思ったことを書こう」とか、「自分の中から出てきた言葉で突き進もう」ということを最初に決意してから書きはじめまして、まあ見事に後半に行くにつれて興奮してしまい、アレな文章になったと思っています。

それが400人近い人に読まれたと思うと身がすくむ思いがするわけですが……

しかし、クセのある文章というのは面白いという個人的な経験もありますから、あまりかしこまらず、己の言葉をブログに書くということを大切にした方が良いかもしれないと感じたわけです。きっかけをくれた平沢さんやFUJI ROCK、それから読んでくれたり記事をRTしてくれた人には本当に感謝しています。ありがとうございます。

 

ところで、最近図書館から借りた本に、西成活裕さんの『無駄学』という本がありました。これは世の中に存在する数多くの無駄を省くにはどうすればいいか?ということについて考察された本です。

無駄学 (新潮選書)

無駄学 (新潮選書)

 

 無駄という言葉をきちんと定義するのは難しい。一見無駄なものに見えても、いつか役に立つこともあるからだ。(略) 

 まず気がつくことは、無駄という言葉は、

 時間、資源、労力、お金、命

 といった貴重で価値があると考えられるものが、「有効に使われていない」あるいは「失われてしまったとき」に使うということだ。

 

無駄の基本形を、「貴重で価値があると考えられるものが有効に使われていないあるいは失われてしまったとき」と捉え、さらにこの定義に漏れるか、「一見無駄なものに見えても」という時間的経過によって無駄ではなくなるものなどにも考慮にいれて、「無駄」の分類をしています。

  • 「ムダ(誘引型)」
    当事者が無駄だと分かっているもの。
  • 「むだ(不覚型)」
    当事者は行為の最中、無駄をしている意識はなく、結果を見ると無駄だと判断したもの。
  • 「無駄(自然型)」
    不運や予測の困難さからくる、人力に左右されない予測不可能なもの。

僕のブログはこの類型ですと「ムダ」なことでしょう。僕がブログを書く時間を他のことにあてる……例えば働いたり家事をしたり依頼をこなすという時間にあてたら、効率の良い生き方ができると思います。その側面において、明らかにムダです。

しかし、僕が「ムダ」と思っていたことが、部分的ではありますが、多くの人に楽しんでもらえた(という前提で話をします)という経験をしたとき、僕がブログを続けることは、「ムダ」でも「むだ」でも「無駄」でも無いという認識が生まれました。

なぜかといえば、たしかに金銭的な価値はありませんが、労力に見合った嬉しさや楽しさという経験を体験することができました。「ムダかつ楽しい」という経験は、たとえそれがムダ(誘引型)であっても続けるべきだと感じたのです。

同時に、文章の質にこだわることは、「むだ(不覚型)」であったということも、今回の収穫でした。

何が起きるかわかったもんじゃないですからね。ムダだと思っても、それをすること自体が楽しいのであれば、他の時間を犠牲にしても、胸を張ってやっていくべきだと痛感しました。

それをやること自体が楽しいことで無いのにやっていることのほうが、「むだ(不覚型)」の可能性だってありますからね。

 

 

ということを考えることは、果たしてムダか、むだか、はたまた無駄か……。