点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』──書評ブロガーはこの本を読むべきだ

未読コンプレックス

本が好きであると自負している人に付きまとう、厄介な問題があります。それは、「未読状態」にストレスを感じてしまうということです。

読書が好きである、ということを公言していればいるほど、「あれよんだ?」という問いに対してはナイーブになってしまうものです。真面目な読書術の本をかじってしまった人であればなおさらです。「こういう状態が本を読めた状態である」というふうに、著者が定めた基準があり、それを達成したり、しなかったりすることで、いちいち落ち込んだり嬉しがったりします。

もしそんな「本好き」がいたらこれを読めと言いたい本が、『読んでいない本について堂々と語る方法』です。

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

どうして「未読」が嫌なのか

「未読」という状態が嫌だと思ってしまう。ときには、読んでもない本を「読んだことある」という嘘をついてしまったりする。心当たりがある人は、どれほどいるでしょうか。

ちなみに僕はどうかというと、読書が趣味になりたてのころ、古典と呼ばれる作品や論文を、虚栄心から「読みました」と嘘をついてしまっていたことがあります。なんと小さい男でしょう。

どうしてそんなつまらん嘘をつくのか。バイヤールは、読書には次のような義務のような規範があると言います。

  • 「読書義務」──神聖とされる本は読んでおくべし
  • 「通読義務」──本は始めから終わりまですべて読むべし
  • 「本について語ることに関する規範」──語る場合はその本を読んでおくべし

こうした規範があることによって、人々の心のなかに、読書に対する偽善的な態度が生じるのです。それが「読んでいない」という状態を、ネガティブな感情によって捉えてしまう要因のひとつであるとバイヤールは主張します。

「未読」とはどういう状態か

ところで、嘘をついてまで読書家が嫌う「未読状態」というのはどういう状態なのか。これを規定するのには、なかなか難しいことです。

そもそも「読んでいない」とはどういうことなのかよく分からないからだ。「読んでいない」という概念は、「読んだ」と「読んでいない」とをはっきり区別できるということを前提としているが、テクストとの出会いというものは、往々にして、両者の間に位置づけられるものなのである。

ちくま学芸文庫版 p.14

我々は漠然と「あの本を読んだ」という表現を使いますが、「読んだ」という状態にはレベルがあります。完璧に読んだのか、ざっくり読んだのか、読んでさらに内容を理解し、新しい意見を述べることができるのか……一様に、「読んだ」という状態を定義するのは、実は難しいのです。というより不可能です。

未読とは既読と区別できるという前提の立場であるならば、未読のレベルも分けて分析する必要があるでしょう。本書では未読の状態を4つの状態に分けています。

  1. 全然読んだことのない本
  2. ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
  3. 人から聞いたことがある本
  4. 読んだことはあるが忘れてしまった本

この基準に照らし合わせると、自分が「読んだ」と思い込んでいる本がいかに多いことかとハッとさせられますね。僕の場合、ほぼ全て2と4に分類されます。熟読精読した本なんて数知れず。よしんば熟読精読をしたとして、内容を事細かに覚えていることなど稀です。読んだと思っているだけでした。

ただ、僕にかぎらず、多くの読書家と呼ばれている、あるいは自負をしている人であっても、今まで読んできたあらゆる本は、この内のどれかに属しているのでは無いでしょうか。

読んでいない本について語るには

著者は「本を読んだこと」と「本について語る」ことは、全く別の行為であると書いています。

語ることと読むことは、全く切り離して考えていい2つの活動である。私自身に関していえば、私は本をほとんど読まなくなったおかげで、本についてゆっくりと、より上手にコメントできるようになった。そのために必要な距離──ムージルのいう「全体の見通し」──が取れるようになったからである。

バイヤールは「木を見て森を見ず」状態になるよりも、全体を見通し、その本と関連する本や著者について目を向けることで、その本を読まなかったとしても、十分に語ることができるということを終始主張してます。むしろ、1冊の本に集中しすぎることで、狭い視野、狭い情報でしか語ることができず、語るという行為にブレーキをかけてしまうこともあるのです。

では、どうしたら読んでいない本について語ることができるのでしょうか。バイヤールは第三部において、心構えを解説しています。

  1. 気後れしない
  2. 自分の考えを押し付ける
  3. 本をでっちあげる
  4. 自分自身について語る

完璧主義で真面目な人は、こうした読書の方法、心構えには納得できないかもしれません。しかし、自信満々にとある本について語るとしても、その本の魅力や著者の意見を余すところなく文字や言葉にするのは不可能です。くどくど長くその本について語りすぎるのは野暮ってもんです。

書評は書き手と本との対話にすぎない

そもそも完璧に読めている書物ということのほうが珍しく(もしくは存在しない)、我々はどんな本とも、「読めた」と「読めていない」の間に位置しているのではないでしょうか。バイヤールは欠損のない教養は存在しないのだから、気後れせず、自分の価値観に則って、堂々と本について語るべきであると主張しています。

読書から得られる情報というのは、どうあがいても読者の主観がバイアスとなります。著者の言いたいことを一番理解できるのは、著者以外に存在しないのです。そうした事実を認めず、「どれだけ正確に読めたか?」という態度で読書をしたり、「正しく読めているか?」という尺度で書評やらレビューを読んだりする……なんと無意味なことでありましょうか。

「これが著者の視点である」というものを確信したところで、それは所詮客観的なものではなく、個人的な信念に過ぎません。本について語るということは、自分の中にある価値観を本と照らし合わせてアウトプットするということです。誰かが本について語った内容や文章というのは、それほどまでにあやふやなものなのです。

みなさんが好きなあの知識人や、文壇アイドルが語った本の内容とは、彼らとその本との対話の結果です。そう思うと、世にはびこる書評とは、教養力を測るためのものとしては機能しません。本当の意味で、その本の理解度を示せる基準というのは存在しないからです。

信ぴょう性というのは、その情報に触れた各人が、どれほど賛同できるか?というものの総和です。所詮主観的な枠を超えないのであれば、「客観性に劣る」とか、「データに信ぴょう性が無い」という外野からの声は、雑音として処理してしまって良いのです。文句があるなら去れ、で良いのです。

終わりに

こんな風に考えると、読んだとか、読んでいないとかを気にして、一冊の本について語るということに気後れするということが、どんなに無意味なことであるかがわかります。

読書ブログをやっている人は、どんどん本について自分の考えを押し付け、本をでっち上げていいんです。「この本は読んでいないけれど」と注釈をつけていれば、嘘をついたことにはなりません。この文章はあくまでも予想ですよ、という前置きがあれば、どんなに事実と異なる情報を書き連ねたとしても、一定の責任を果たしていることになります。

本を語るという行為において、読んだことのない本についても、堂々と語って良い。むしろ語るには、その本を読み込まない方がいい。

読書という行為を、むさ苦しい教養偏重主義から切り離し、清々しく本を読み、堂々と本について語るための一歩として、最適な良書です。

 

ここまで3000文字とちょっと、この本に対して堂々と語りました。僕は基本的にクソ読書と呼ばれる態度で本を読んでいます。所謂流し読みです。なので、皆様が思っているような、理想的な読書態度で本と向き合っていません。

僕がこの本をどれだけ読んでいないか?ということは、記事を読んだあなたが、実際に本書を読んで判断してみてください。

読んでいない本について堂々と語る方法

読んでいない本について堂々と語る方法