点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

停滞の2018年

平沢進さんのホログラムを登る男という曲の中に、

死よりなお悪辣と 
ああクライマー クライマー 
停滞を撃つ

という一節がある。僕は今年、停滞を撃ち、前進することは叶わなかった。

2018年を振り返ると、自分が解決しなければならない問題は何一つ解決していない。痩せていないし、金は貯められないし、趣味のブログは記事が消え、仕事では体調不良によって完全に信用を失った。停滞どころかマイナスに振れている気さえしてくるが、過去の解釈をこのようにしている限り、停滞し続けることになるだろう。

学習性無力感という考えが心理学にはあるらしい。抑圧的な状況下や、失敗に対する認識の仕方によって、自己効力感が失われ、何をするにしても「俺なんてどうせ」と考えてしまう恐ろしい状態だ。うつ病のリスクが跳ね上がる。

では無力感とは逆向きのポジティブ・シンキングをすることによって、この問題が解決できるのかというと、そうでもないらしい。人間って難しい。実は(無理のある)ポジティブ・シンキングというのは人間の生物的な仕組みにそぐわない。ネガティブ思考、悲観思考のある人間が、無理やりにポジティブな自己対話を試みると、自尊心や自己効力感が低下するのではないか?という学説もある。下記記事参照。

yuchrszk.blogspot.com

『サピエンス全史』などによれば、我々の先祖は身の回りにある木の実を食べて満足していた種族である。勇猛果敢に猛獣に挑んだり、脳天気に暗い森の中に入っていった者たちは死んでいったのだ。すると失敗から学ぶように適応しはじめる。ネガティブな情報というのは生きるために必要な情報そのものであったのだ。

無理をすることは人の摂理に反する。自分の価値観を変えるのは容易なことではないから、それに身を任せるべきなのかもしれない。物心ついて約25年の間に培われたネガティブのミルフィーユを崩すことはできないだろう。一枚一枚剥がすことも難しい。

「それは思い込みである」という意見もある。大賛成だ。現代人が感じる不安や恐怖というのは所詮、死に直結するものではない「こうなったら嫌だな」程度のものだ。不安や恐怖は、ホログラムのように現実世界に映し出されているだけである。

重々承知だが、我々ネガティブ思考の人間は、この不安や恐怖が好きなのだ。ここに浸っている間、我々は何もしなくていいのだ。次の一歩を踏み出すことが嫌なのだ。

過去の失敗を言い訳に使うことによって、自分の停滞を人に認めてもらおうと必死になっている。自分のどこに問題点があるかなんて、とっくのとうに知っている。「成長がない人」はどこを治したらいいかなんて知識としては知っているし、それについて考えることだってある。

ようは停滞が好きなだけ。怠け者なだけ。

さて、怠け者は無理をすると、更に怠け者になっていく。自分の「面倒くさい」に打ち勝つ手段は、「面倒くさい」と言ってられない状況に陥るか、「面倒くさい」というモヤモヤした感情が、自分から自然に去っていって、やる気が出てくるのを待つしか無い。やりたいことを、やりたいときにするしかない。前進するのではなく、勝手に前進するのを待つしか無い。

あれがやりたい、こうしたいっていうものをわざわざ設定しなくても、何やりたいかなんてその日単位とか月単位で浮かんでくるでしょう。一瞬一瞬浮かんでくるんだから別に良い。ゴール設定だの目標設定だの、正直もう疲れた。

僕ら怠け者に残された生存戦略は、感情に身を任せ、他人の成功を自分の人生と比べることなく、劣等感を感じないようにしながら、目の前の小さな幸せを味わって、できることを無理のない範囲でしていくことしかない。社会的弱者になることは間違いないが、いいじゃないか。社会には僕らよりも優秀な人がたくさんいるんだから、難しいことは彼らに任せよう。その結果社会がクソになって、僕らの生活が破滅しても仕方がない。遅かれ早かれ人類は滅亡するし、この地球だっていつかは太陽の膨張によって無くなるらしいじゃない。自分の取りたい態度を我慢する理由ってあまりない。

重要なことは社会的な強者に任せてよう。僕らは搾取されようが蔑まれようがどうでもいい。自分から好んで強者に隷属するのだ。強者に立ち向かうのってもう面倒くさいじゃない。負け組と言われても良いのだ。他者の評価なんて、自分がどのように考えるかなんだし。最低限の生活ができれば、もういいのだ。

それが僕の幸せだ。

2018年は疲れた。多くの価値観に縛られた年だった。

もう一貫性とかそういうのも気にせず、好きに生きることにするよ。

とことん怠け者になってやる。

 

ホログラムを登る男

ホログラムを登る男