点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

「改善しない」ということは人間には不可能かもしれない

「改善」という態度について、ここのところ、くそ詰まらない記事を書いている。

ことの発端は、後ろ向きかつ自己批判的性格の僕は、現状を正しく分析し、課題を見つけ、その課題を解決するという一連の営み、すなわち「改善」をすることに向いていないと感じて、それを文章にまとめたことからだ。

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なぜ改善が自己批判的パーソナリティに向いていないのか。僕はこう考えた。

自己批判気質は、現状分析をネガティブな情報と結びつけながら行い、課題をたくさん生み出す。しかし、解決への行動を行うにあたっての、自己効力感(とある仕事を達成できるだろうという認識)が低い。その結果、解決しなければならない課題が解決されることなく積み重なり、ストレスの許容範囲を超えるのではないか。という具合だ。

この考えは間違いであった。

それから10日、つとめて改善を怠った結果見えてきたことは、「人間は無意識に改善をしてしまう」ということだった。

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ちょっと考えれば分かることだが、我々は改善のプロセスからは逃れられない。人間はただ生きいるだけで、課題が生じる。想像つきやすいのが、飢餓の課題だ。飢餓状態になれば飯を探す。飯を食うにはこの社会では金がいるので、金を稼ぐ。仕事に失敗すると金をもらえなくなる可能性があるので、仕事の質を上げる……。

というような課題が瞬時に出てくる。こうした課題に対して向き合う、まさに改善という行為が、少なくとも日本で生きる上では必要だ。日本ではない場合も同様だ。金で食料が買えない場合は、自分で飯をこさえるための行動が必要だ。農業を営んだり、狩猟したりする。人間以外の生物にしてもそうだ。生命である以上、生命維持という課題を解決する能力が、否が応でも備わってしまう。

飯を食うという課題の解決、改善を、自力以外で達成するには、非現実的な「宝くじを当てる」以外に思いつかない。パラサイト生活を送るにしても、「その状態を維持する」という課題が生じる。「生活費の出資者に気に入られる」とか、犯罪であるが「ゆすりのネタを持っている」というような創意工夫が必要だ。

いや、よく考えると、宝くじも怪しい。一生遊んで暮らせるだけの金を、宝くじを当てたとしても、別の課題が出現する。「現在自由につかえる金銭の総量を増やす」という課題がクリアされても、今度は、健康状態維持、浪費防止、人間関係のもつれ防止という課題に意識が集中するはずだ。これを改善、解決しなければ、充実して生きていくことは不可能であるように思える。

「それもすべて金があれば解決できるので、やっぱり宝くじを当てたい?」それは一理あるかもしれない。では、当てれば良い。しかし宝くじを買う金は必要だ。1等を当てるためにどれくらいの金がいるのか。有名な「宝くじシュミレーター」(http://kaz.in.coocan.jp/takarakuji/sim-nenmatsu.html)を100万円まで回して得られたのは、約29万円だった。そのまま100万円を貯金したほうが良さそうだ。この世に救いは無い。

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「現実を現実的に生きる」ということをしていくにあたっては、やはり改善のプロセスが必要不可欠であるらしい。というか、さっきも書いたが、勝手に改善の為の行動を取っている、取ってしまうだろう。

僕に起きたことを整理すると、「改善しない!」という態度をとったおかげで、「課題を改善しないためにはどうすればいいか」という課題が生まれ、それの解決のために、自分にやさしくなってしまった、ということになる。

まさしく課題だった自己批判的気質も、この数日で、かなり落ち着いたと思う。

無成長という課題を掲げていた10日間で、超えるべき障壁のハードルを下げ、課題にすべき事象を選別する感覚をつかめた。なんとボトルネックであった、自己批判気質の改善が始まってしまったのだ。

金が無くても、健康じゃなくても、精神がおかしくても、自分が思っているほど社会の役に立てなくても、将来に不安があっても、全部OK。これらは些細なことであって、課題ですらない。課題として認識したときには、自然と解決するように身体が動くだろう。それまでは「気にしない」ということができそうだ。