点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

肩書き 2020-09-18

誰の差し金だったのか、今となっては分からないが、謎の肩書を名乗る人間が増えてきている気がする(主観)。○○アーティスト、○○のプロ、○○クリエイター……この〇〇に入るものが、現実の世界や社会に存在しないもの(無形のものではなく、全く存在しないもの)であると、どうにも、その肩書を名乗ってしまうお陰で、損をしている気がすると、余計なお世話で心配になってしまう。

肩書きが威力を発揮するのは、その肩書きからイメージされる行為が、不特定多数の人間、つまりある程度の大きさ以上の集団、あるいは社会に、何らかの有益な機能を果たしている場合だ。それ以外の肩書きは、名乗るだけ名乗られた側に、「こいつ大丈夫か」という疑念を植え付けることになる。

きっと、承認欲求の不足という現代病が、まだ根深く、一部の凡人にある。僕にもある。

僕の肩書きは書店員だ。しかし、非正規雇用なので、フリーターでもある。フリーターという肩書きは、登場当初に付与されていた、肯定的な意味においての「夢追い人」という意味合いは、今日ほぼ壊滅している。チャランポランな人間であることの証として、正社員や優れた個人事業主からは見下されるし、フリーター同士であっても、お互いを貶し合う言葉として、しばしば使われる。

そこで、少しでも、形だけでも他のフリーターと手っ取り早く差別化を測ろう!という虚栄心があったのなら、謎の肩書きを作って、それを名乗るという選択肢がある。本来ならスキル(知識と経験)を積むべきであるが、そのタイムラグに我慢ならない場合は、もう名乗ってしまえば良い。

このような虚栄心や、ちょっと前向きに現在を肯定しようとか、少しでも自分の特殊技能を目立たせようとか、単なるフリーターではないと思いたいという自己欺瞞の結果などにより、「人より少しでも得意なことを肩書きにする」という発想が生まれるのかもしれない。

冒頭でも言ったけれども、これらの心の動きを一言で説明するなら、承認欲求の不足となりそう。

これは恐ろしく、人によっては全く自分にその肩書きを裏付ける能力・技能が無いにも関わらず、名乗ってしまう場合もある。泥棒のはじまりが嘘つきなら、承認の不足感が嘘つきのはじまりだ。

どんなものであれ、フリーター以外の肩書きを名乗ると、単なる蔑称としてのフリーターから、自分の手で抜け出ることができる(と錯覚する)。特殊な肩書きを名乗る人間は、夢追い人か、社会の正しいレールから溢れたという自己卑下の材料を逆手に取ったポジティブシンキングを駆使することができる。

理想論としては、そうした人には、善悪の評価をすることなく、特に温かい眼差しで見守る人間が多い社会であれば良い。しかし、そういう人を見かけると、心のどこかで馬鹿にする心理が働くように、人の心はできてはいまいか。僕だけかもしれないけれど。

実力に見合わない肩書きの場合は「調子こき」であるし、未知のものの場合は「胡散臭いやつ」となる。

兎にも角にもフリーター以外の肩書きを使いたい場合は、先程も申し上げたとおり、「その肩書きからイメージされる行為が、ある程度の大きさ以上の集団、あるいは社会に、何らかの有益な機能を果たしている」かどうかを確認したい。

僕にも、人よりも時間をかけてやってきたことはある。読書だったり、映画鑑賞だったり、多分音楽制作とかも入る。しかしこれらは、特定少数はともかくとして、不特定多数と呼べるほどの人間に対して、有益有効な機能を発揮していない。肩書きになり得ない。一番社会に対して有効な機能を果たしているものを肩書きとしたほうが誠実である。

つまり僕がフリーター以外を名乗るなら、ブロガーでも、作曲家でもなく、書店員となる。お客さんに対して、希望の書籍を案内するという地味な仕事かもしれないが、間違いなく僕のブログを読んだり、音楽を聴いて、役に立った!と思う人間よりも多い相手を接客している。

ただ、その人が心の中でどのように思っているのかということは、他人がとやかく言うべきではない。

例えば、仮に僕の場合だったら、書店員として名乗っているが、心の中では「自分は作曲家だ」と思っていても、社会的には何も問題は無い。しかし、これ系のモチベーション管理テクニックには欠点がある。行動が伴わないと辛くなるだけということだ。これは体験談である。近い将来に結果を出す自信や予定がない人や、自分は後ろ向きであると自認する人は、やめておいたほうが良い。

ブラック企業による自己啓発中毒洗脳を経て、うつ病を経て、今思うのは、人間は基本、意識低く、楽な(簡単であるとか、自分が楽しいとか、心地よいとか思う)道を進んだほうがいい、ということだ。これも1つの自己啓発ポエム的主張ではあるが。

この態度は、鼓舞しなければ己を律することができない将来像や目標は、本来自分がやりたくないことである可能性が高い、という価値観からくるものだ。暴飲暴食、喫煙など健康状態が悪化するものや、浪費や不貞行為など、明らかにその行為が原因で、破滅的な未来が待っていると予測できるもので無い限りは、正す必要もない。もちろん何がその人にとって破滅的であるかは、人によるので、一般論として主張することはできないけれど。

ちなみにこういうことを言うと、他者攻撃や殺人についてはどうなんだと変な事を思う人が出てくる。それは困る。法の裁きを受けてもなお、本質的に、取り返しがつかない行為は慎むべきである。議論の余地はないと思う。

なにが言いたいかっていうとね、本心に合致しないものは、目指す必要も無い(可能性が高い)のだから、楽に生きようという。

正社員になりたいというモチベーションは、こうして消失したのであった。