それでも「気合い」は必要だ
心理学インフルエンサーたちにより、「意志力」を消耗せず日々の暮らしを充実させる術が流通している。このようにすれば、やる気が起きるとか、そういうアレだ。
しかし、最終的には「やる・やらない」という判断を個々人がすることになる、という視点があまり語られないことに、疑問がある。
そこで、昨今の意志力省エネの潮流の中で軽視されてきた、「気合い」の重要性について再検討する。
目標を物凄く細かくすることによって、一歩でも前進するという方法がある。読書猿さんの『独学大全』や、スティーヴン・ガイズの『小さな習慣』で取り上げられているテクニックであり、自分の好きな分野には、僕にも一定の効果があった。
だが、毎回失敗するのが、「1日1回腕立て伏せをする」という目標で、3日と持たない。それからさらに小さくして、「1日1回筋トレの動画を観る」とか「1日1回筋トレについて考える」というような目標も未達に終わっている。じゃあやらなくていいじゃん、となる。
ただ、僕はこのままだと糖尿病になりそうな勢いで体重が増えている。それでも、未来の闘病生活と、現在の運動・食生活の改善を天秤にかけたとき、どうしても現在の生活維持の方に針が触れる。どうしたらいいんだろう………
さて、これ読んで、どう思いましたか?
「やりたくないならやらないで、病気になれば?それは自分の責任でしょ」という意見が出てきませんか?
そこで僕が、
「それでも病気になりたくないんだ!ただ、自炊も続かないし、献立を立てるのも難しい、良質な栄養のある食べ物を買うお金もないんだ!うわーん!誰か助けて!」
と言い出したら、なんと声をかけますか?
「コイツはだめだ」と声をかけずに去るのが一番正しい気もするが、それでも何か一言求められたら、「甘えるな」「気合いが足りない」と言いたくはならないか。
なぜ行くところまで行かない分からない人間がいるのかというと、「先延ばし」に対する過小評価が原因だ。古代ギリシア哲学、聖書やクルアーン、仏典、儒教のテキストに至るまで、人類の智慧とされる書物には「先延ばしは悪」と書かれている。狩猟生活から農耕に移行し、いついつまでにこれくらいの作物を作る、という「締切」が誕生してから、人類は先延ばしの問題と格闘することになる。
集団的な先延ばし、つまり怠けは、社会の崩壊を招く。これはそのまま社会主義批判の論理の一つになりうるし、旧ソ連は崩壊している。
では、先延ばしに対する過小評価の原因は何か。これは以前にも記事で書いたとおり、衝動性と関係しているらしいことが心理学の実験から明らかになっている(後述の書籍を参照して頂きたい)。
衝動性が高い人間は、現在眼の前にぶら下がる楽な道を選ぶ。即座に快楽を得られる選択肢に弱い。多くの場合、その先には浪費や暴飲暴食、もっと大げさに言うと、薬物依存や性犯罪といった破滅の道が待ち構えている。
これを無くすために、心理学者は膨大な時間を研究に費やしてきた。
楽観視の後に現在の障壁を思い起こさせ、未来への前向きな想像力と現実を見ることのバランスを保つ「心理対比」、先述した極小の課題を達成することによって自己効力感を上げるテクニックや、極小の目標を達成しないことを目標にしてしまい、達成してしまうことを行動のスタートブーストにする「逆説計画」など。
これらのテクニックは、ある程度の高い衝動性しか持っていないならば効果的かもしれない。しかし、先延ばしグセが猛烈に強い人間につける薬は存在しない。
強い衝動性をもつ人間に、テクニックは無意味である。なぜなら、テクニックを実践することそのものを先延ばしにするからだ。
先延ばしと衝動性について書いている『ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか』を参照しても、重症者に対する処方箋は以下の通りだ。
●理由をつけて計画の実行を後回しにして、困った事態を招いた経験がこれまで何度あったかを思い返す。日記をつけて、自分の先延ばし行動を記録にとどめる。
●自分の最大の弱点が意志の弱さだと認識する。意志の弱さゆえに、「今度だけ」と言い訳して先延ばしをする可能性が高いと理解しておく。
●一度でも先延ばしをすれば、その後もずるずると自分に先延ばしを許すことになると認識する。はじめに先延ばしをすれば、いつまでも最初の一歩を踏み出さないまま終わる可能性が大幅に高まるのだ。
要点をまとめると、
1.先延ばしグセを、可視化して自覚する
2.一度でも先延ばしをするとまたするので、もうしないと決意する
という事なりそうだ。これはまさしく、「気合い」の論理である。
追い詰められた状態と分かっていながら「気合い」が持てない、あるいは衝動に抗えないとなると、何らかの精神疾患や精神・発達障害などが疑われ、投薬などの医療行為が必要になる場合があるかもしれない。
また、そうした治療の過程にあっても、服薬習慣を先延ばしにする危険性がある場合は、第三者の介入が必要となる。今度はその人物に従うか、否かという問題が出てくる。きりがない。どこかで「気合い」を出さなければ、課題は解決しない。
程度の問題もあるかもしれないが、精神的な病気にあっても「気合い」は必要だ。
「気合い」が出せず、医療の支援が受けられない場合、先延ばし人間は破滅のループに陥る。僕の例を見てみよう。ここからはさらに、主観的な話になる。
運動したくないし、食事も改善しようとおもってもできない、でも運動や食事改善をしないと病気になる、でも病気にはなりたくない……と普通ならここで、運動や食生活の改善が選ばれる。どんなに小さなことからでもいいから黙って改善しようとする。
しかし先延ばし人間は先程も書いたとおり、考えをループさせる。1番初めの、運動や食事改善をしたくないに戻る。
どんなに小さな改善策があったとしても、不思議なことに、やる気になれない。やれば改善の道が開かれるのだから、やれ!やらないと死ぬぞ!と頭の中で声がするのだが、身体はベットに沈んだままだ。
こうしたループに陥るので、自罰的な人間であるほど、このストレスは大きい。
「理屈の上では分かっているのに身体や心が動かず、それを動かそうという努力をしている、あるいはしているつもりになっているが、変化できないので自己叱責をする」という繰り返しをする。
先延ばしをすると抱える問題もどんどん大きくなるので、それに合わせて自己叱責のレベルも大きくなっていく。
精神科医の名越康文氏は、うつ病を「自律神経系の異常により、緊張もリラックスもできない状態」と説明している。物事の改善のためには、えいや!と緊張を生み出す必要がある。それができないのであれば、諦めるというリラックスの道がある。しかしそのどちらも選択できず、思考の中でループしている。
傍から見るとアホでしかないのかもしれないが、こういう思考が、急な下痢のように止まらない。
ただ、そんな状態を言い訳がましく嘆いたところで現状はどんどん悪くなる。結局、あらゆる行動には、最終的には「気合い」が必要なのだ。それを出すために、今日もSNRIを飲む。
知識を得て、視野が広くなろうが、最終的には「やるか、やらないか」という問題が依然として残る。
何か行動をする場合、間違いなく「気合い」は必要だ。
<それでもテクニックをあきらめたくない人へ>