点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

「焦らない」ための、牛

うつ病になってから、一番実践が難しいと感じるのは、「焦らない」ということだと思う。

回復、寛解を焦るあまりに、不必要な努力をしてしまい、精神を消耗し、さらにうつの度合いをひどくしてしまうというのは、うつ病アルアルだ。

うつ病になってから、仕事を逆に休まないようにしようとして、度々体調を崩していることを医師に相談した。すると「キミに足りないのは開き直りだ」とアドバイスをされた。

「仕事を休んでしまうと思うのではなく、うつ病なのに行けるときに行ってあげているとか、それくらいに思ったほうが丁度いいかもしれない。ゆっくり行こう」ということである。ようは「焦るな」ということだ。

アホな僕は言葉どおり実践しようとしたが、あからさまに極端な開き直りは、逆に自分の欠点を増強させそうで恐怖を覚えたので、ちょうどよろしい開き直りができるような、参考となるモデルを探すことにした。

自分自身の経験に根ざすメンタルコントロール法には、もうあまり信頼ができなくなっているので、取っ掛かりとして私淑対象を探そうとういことだ。

まず、「冷静沈着だがやるときはやる系の偉人」を探したが、やることをやるだけの下地が出来上がっており、比べなくても良いのに、自分の下地や素材や才能なんかと照らし合わせては、勝てもしない勝負へと自動的に持ち込んでしまうという「絶対敗北の比較」が発動するので、十数名調べたあたりで人間から離れようと思った。

また、自己啓発難民の時代と同じような、精神依存関係を引き起こさせるカリスマを引き当てた場合、今度こそ目がくらんで脱出不可能な気もしている。

そこで、思いついたのは牛だ。

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ウシは哺乳綱鯨偶蹄目ウシ科ウシ亜科の動物。学名Bos taurus。

牛は「牛歩」という言葉があるくらい、歩くのが遅い。しばしば、慌ただしい人やラディカルな人、血気盛んな人などに対して、「牛のようになりなさい」とか声がかけられる。

夏目漱石が、若き芥川龍之介久米正雄に宛てたとされる手紙などが代表的だ。代表的というか、現代に至る「牛のようになれ」論はここが元ネタだと思われる。

 牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老獪なものでも、只今牛と馬とつがつて孕める事ある相の子位な程度のものです。
 あせつては不可(いけま)せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與(あた)へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。(中略)牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
 是から湯に入ります。

出典:『漱石全集 第15巻』續書簡集(岩波書店、昭和42年2月18日発行)
引用元:http://sybrma.sakura.ne.jp/202sousekinotegami.html

我々はとかく馬になりたがる、というのは衝動性の高い僕のような人間にとっては耳が痛い。問題の解決を焦るあまり、自分の能力を過信し、あるいはまた過度に不信しながら、とにかく行動してしまえと焦る。これにより、あらゆるトラブルを起こしてきた。

焦っても良いことはない。今までの人生から嫌というほど学んでいるはずなのに、どうしても馬のように走れないかと夢想するのは、学べていないからか。しかし漱石先生であったとしても「いや、牛になることは必要とか言ったけどさ、私も牛と馬のあいのこのようなもんだから……」と自虐しているので、なかなか難しいことなんだろう。

というか漱石はノイローゼを患ってぶり返しまくっていたので、周囲の人間から「焦るな」とか色々言われていたはず。そんな中で、牛を見習うという視点はさすがだなあと思うわけです。もしかしたら、牛を見習うという彼の視点にも、ルーツがあるかもしれないけれども。

漱石書簡集 (岩波文庫)

漱石書簡集 (岩波文庫)

  • 作者:夏目 漱石
  • 発売日: 1990/04/16
  • メディア: 文庫
 

 さて、しかし牛は本当に遅いのか。

闘牛を見よ。人間を遥かに凌ぐスピードで迫る牛を交わすからこそ見世物として成立している。牛追いまつりなども、人間に引けを取らない牛を追いかけるという課題が設定されているから燃える。

気になったので調べた。実際に牛の歩くスピードはどのくらいなのか。

速歩きで4.5Km/hらしい。*1人間の歩行がゆっくりめで3.2km/h、普通で4.0km/h、速歩きで5.6km/hであるらしい*2ので、誤差の範囲間もあるが、確かに人間よりも少し遅い。

走る速度は牛の種類による。放牧されている牛は20km/hほどで、ヌーは60km/hほどだとか。ところで、日本人が思い浮かべる牛はヌーではない。漱石も、「牛は超然と人間を押す」と言っているから、歩くにしても走るにしても、家畜化された牛を想定しているはずだ。なので参考にすべきは前牛である。歩くにしても、走るにしても、牛はまあ、誤差の範囲だが人間よりも遅い。

いや、漱石が言っているのは実際の速度ではなく、あの風格のことであるということくらい理解している。だが実際どんなくらいなのかな?と知ることで、牛を参考にする下地を作っている。これは一種の儀式だ。

「超然として押す」という表現も好きだ。超然とは一般的に、物事にこだわらず、平然とし、世俗に流されない状態のことだ。些細なことに気を取られないが、しかし着実に歩を進める(ように見える)、できることをやっていくというイメージは持ちやすい。個人の社会的生活における一挙手一投足の良し悪しの判断なんて、環境が決めることだし、別に拘る必要はない。

「焦らないこと」を教えてくれる師匠は、牛に決まりそうだ。

余談だが、私淑対象を人以外にすることはメリットがある。比較しても意味がないことだ。牛に負ける部分も勝っている部分も同じくらいたくさんあるが、生物学的な違いだとか、そもそもそうした勝ち負けの価値観は人間のみの解釈であるとか、そうした理由から、「だったらなんだというのだ」と言える。

「同じようなことが人間でも言えるじゃないか。生まれも育ちも違うし、持って生まれた能力も違うし、価値観なんて完全に同一な人間などこの世にいないことを認めれば、比較しても意味がないのではないか」と言われるかもしれない。それはそのとおりなんだけれども、ナイーブな僕の脳みそは、どうにも納得してくれない。諦めていただきたい。

では是から牛にならふと思ひます。

くっちゃねくっちゃね…………(牛先生、そして漱石先生、ごめんなさい)

*1:ウシの歩行・走行速度の負荷強度と心拍数および血中乳酸値の関係より、乳酸がたまり始める心拍数と走行速度を調べた所、分速75m/hから、乳酸濃度の高まりが認められることから

*2:明治安田新宿健診センターの解説