点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

あらゆる能動的な行動は評価されるまでは自己満足だ

 あらゆる能動的な行動は、評価の仕組みが現れる、あるいは仕組みに取り込まれるまでは、自己満足の領域を出ない。

 そう考えると、いろいろ気分がラクになった。表現することが趣味だからだ。誰かから依頼されたりした表現物はこの限りではないが、能動的な表現や発信は、常に自己満足的な部分が入る。

 「趣味の世界は自己満足で良い」という方向性を悟ったのは随分と前であるが、本当にそれで良いのか疑問だった。自己満足そのものができない状態が長く続いた。それは評価の仕組みを前提とした態度で表現するという態度を、拭い去ることができなかったからだ。

 評価の仕組みを前提とした態度とは簡単に言えば、他人と比べることだ。比べに比べた。結果は僕にとって悪いことばかりだった。

 何もできなくなることが増えた。常識という目線から、自分の表現したものを見つめたとき、燃えるような恥ずかしさや自己嫌悪などに襲われた。あれだけブログは公開自慰であり、自分が美しいと思うイキざまを見せることが重要であると、それこそ自慰的に表現しておきながら、それでもオクテになってしまう自分に嫌気がさして、しばらく何もする気にならなかった。

 こうした停滞の呪縛はブログ以外の趣味にも波及し、ここ数ヶ月は精神の持病もあって、かなり調子が悪かった。

 

 ブログをもう一度動かすきっかけになったのは、シン・エヴァを観た感想を書いたことだ。あれから少しずつブログのネタを探すようになってきた。何かを観て、その解釈や見方を文字にすることは、とても気持ちがいい事だと思えるようになってきた。きっと僕のことなので、体調や落ち込み具合により更新が停止することもあろうが、忘れていた大切な感情を再確認することができたのは嬉しかった。

 ブログを書いているときにやってくる恥ずかしさは、ブログをやっている間は克服することはできないだろう。それを克服してしまうと、もっとオモロイ文章をこさえようというモチベーションを削ぐことにも繋がるから、定期的に恥ずかしがったほうがいいのだ。だってみんなの前でシコシコやってるんだから。やっぱりそれは恥ずかしいことなのだ。

 じゃあ、なんでそれでもやっているのか。それは、何かしらをアウトプットしたものを公開するということに、ある種の悦びを感じるように育ってしまったからとしか説明ができない。これは死んでも治らない病気のようなものだと思う。

 この「表現したい病」の一番の毒は我慢することだ。

 我慢はどこから生まれるかというと、他人と比べることから生まれる。同じような事を書いている記事を読んでしまったり、自分よりも遥かにスゴい文章を書いているブログに遭遇したりすることによって、「俺が書いても仕方ねえや」という自己卑下を含んだ言い訳を生む。他の趣味でもそうだ。億劫になるときは、決まって他者と比べたときだ。

 そうなると、まず表現したい欲求がしぼむのではなく、表現物を公開するのにブレーキがかかる。すると次第に、表現したいという欲求さえ失われる。これが一番、表現するタイプの趣味においては毒だ。

 

 牛に弟子入りしてはや数ヶ月、どんなに小さくとも一歩一歩と歩みをすすめることこそが、自分なりの正しい基準になったとき、たとえ自慰的であったとしても、自己満足と揶揄されても、進まぬよりは良いのである、と思い直すことができた。

 冒頭に言った、「あらゆる能動的な行動は、評価の仕組みが現れる、あるいは仕組みに取り込まれるまでは、自己満足の領域を出ない」というのは、僕の中の牛を肯定するための言葉だ。誰かに指示された行為を除くと、その行動は利他的であれ利己的であれ、自己満足になるか否かは、評者の出現を待たねばならない。つまりそれが現れるまではずっと自己満足だ。

 この視点に立つと、すべての創作や表現を行う人間には、長いか短いかは人により異なるが、自己満足である期間が必ず存在する。趣味の場合、評価そのものが生活に影響を与えることは無い。自分の精神が潤うか否かでしかない。なのに、評価の反応を、もしくは評価のシステムに組みいられるのを待つことに精神をすり減らし、肝心な表現物をこさえることができない、あるいは表現したいことを重要視せず、中途半端な表現物をこさえることは、本末転倒甚だしい。

 

 優秀な人間に勝つためではなく、自分の欲求の解消や病の発作をやりすごすために公開自慰を行い続けるのだ。その覚悟ができた僕は今、結構、かなり、人生楽しく思えてきている。