点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

音楽の中の思想まで愛する必要はない

最近、僕の敬愛するアーティストたちが、ラディカルな思想の持ち主であることをあからさまに主張するようになり、ファン層がそれに振り回されるという事象が観測され始めている。

この問題はネットが生まれるよりも前から存在しているが、ネット、特にSNSが普及して以降、ファン層がより直面する機会が増えた。具体的なケースは、名誉毀損に該当する可能性があるため控える。

かくいう僕も、自分の推しの発言に一喜一憂したり、自分のお気持ち表明しなければ思考や感情を整理できなかったりするという事態に追い込まれていたのだが、少し冷静になってみると、そんなに騒ぐことではなかったと反省している。

「音楽を楽しむときに、音楽の中の思想まで愛する必要はない」という、当たり前なことに目を向ければなんてことは無い。音楽という芸術は、歌詞表現以外の部分を楽しむことができる。言語化不可能な部分、すなわちリズム、メロディ、ハーモニーの調和や美しさや意外さなどだが、この部分が音楽を音楽足らしめている。

歌詞も重要な表現部分であるが、それが音楽という形態で発表されているならば、歌詞よりも音楽的な要素が重視されることがあっても良いはずだ。

こういう反論が想定できる。音楽と思想は不可分であり、作者の意図を汲み取らなければ「聴いた」ことにはならない、というものだ。

これは音楽を「理解できるもの」であるという前提に立っているように感じる。それは随分と大変な楽しみ方ではないか?

理解できるもの、あるいは理解しようとするものという前提で音楽を楽しむ場合、意味がわからないまま洋楽を聴いたり、オペラを聴いたり、民族音楽を聴いたりすることが難しくなる。

日本語や英語以外の難しい言語で歌われた曲の中にも、我々日本人の心を打つ素晴らしい楽曲があるだろう。だが、思想や音楽の歌詞の意味をいちいち気にしていると、そうした種類の音楽を楽しめなくなる可能性は高くなる。

また、明確に説明可能な感性や思想を持っているならば、作り手側も誤解のないような言語で表現するだろう。歌詞に用いる言葉は、誤解が最小限に抑えられるような具体的な表現で説明的に書くこともできる。しかし、そうしないアーティストの場合、いや具体的な言葉で歌詞を書くアーティストであっても、聴く人間が所有する人生経験や、その音楽を聴くシーンや文脈によって、同じ音楽でも別の姿になって現れる。ときには作り手の意図から離れて評価される。そうした自由さが音楽にはある。

以上のことから、作者の思想と音楽を結びつけなければ気がすまないという視点は、音楽の楽しみ方を萎縮させる視点であると考える。思想をまるごと飲み込まなければ聴いたことにならないという批判には、そのように反論したい。

むしろ、表現者が音楽という形態で表現するなら、歌詞以外の部分、つまり音楽家が持っている思想以外の感性から漏れ出した、リズム、メロディー、ハーモニーの部分をメインコンテンツとして捉えたほうが、頭でっかちに考えても整合性が取れるようにも思える。音楽は、最悪歌詞がなくても楽しめるのだから……というのは、いささか暴論か。

 

<<蛇足>>

14枚目の平沢ソロ・アルバムめっちゃ楽しみ。

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