点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

「脳の可塑性」のその先へ──『脳の地図を書き換える:神経科学の驚くべき冒険』

 

ある日突然、病気や事故で目が全く見えなくなったり、耳が聴こえなくなったらどうしよう……という妄想にかられ、不安で夜も眠れないという時期があった。僕の場合なんだけれど、いままで自分ができていた当たり前の事が、ある日突然できなくなるという恐怖は、脳にこびりついて離れにくい。それに、荒唐無稽な話でもあるまい。将来、恐ろしく低い確率かもしれないが、ありえるかもしれないのだ……と色々考えてしまう。

だが、本書を読むと、そうした不安を抱いている場合ではないことに気がつく。脳は、我々の想像を超えるほどに柔軟なものであり、もし事故や病気で視力や聴力が失われても、訓練を通してあっという間にニューロンは配線を変え、その置かれた状況に適応しようとするらしい。聞いたことがある人もいるかもしれない。脳には「可塑性」がある。

脳を半分失った少年、腕の先を失った軍人、全盲、全聾の人たちなど、本書には様々な人物が登場する。だがそうした人たちの脳は、自分の主人の置かれた状況に応じて脳を改造していく。視覚を司っていた部位を、他の刺激を処理する部位に変化させ、環境に適応しようとする。失われた機能を取り戻すために、脳全体の配線が日々変化する。それも、死ぬまで。

個人的に本書で最も面白いと思ったのは、「第4章 感覚入力を受け入れる」だった。

ここでは、視覚や聴覚に障がいを持つ人に対して、視覚や聴覚以外に刺激をあたえ、聞こえるように、あるいは見えるようにするための技術と、その研究について書かれている。これを「感覚代行」と言うらしい。

何を言っているかピンと来ないと思うので実例を紹介しよう。

医師のポール・バリキタは1958年、家族が不幸に見舞われる。自分の父が重い脳卒中で倒れた。車椅子生活を余儀なくされたたものの、ポールとのマンツーマンのリハビリにより、驚くべき回復力で仕事に復帰するまでになり、高度3000メートルの山をハイキングしている途中で心臓発作を起こして他界するまで元気に生きた。

このことがきっかけとなり、「脳は自らを訓練し直すことができ、しかも脳の一部が永遠に失われてもほかの部分がその機能を肩代わりできる(p.92)」ことに興味を覚えたポールは、リハビリテーション医療の実習生に職を変える。

1960年代の終わり、「感覚代行」の世界に大きな一歩が刻まれようとしていた。

歯科用の椅子を改造し、目の見えないボランティアを座らせる。椅子の背もたれにはテフロン製の突起20×20=400個が格子状に埋め込まれ、それぞれの突起は機械で出したり引っ込めたりできる仕組みだ。被験者の頭の上に、三脚とカメラが取り付けられている。カメラが捉えた映像データはパターンに変換され、そのパターン通りに突起がボランティアの背中を刺激する、というものだ。何が目的か、おわかりだろう。背中の感覚を使って、物体を認識、識別できるようになるのか?

「訓練開始から数日のうちには、背中の刺激だけで物体が何かをかなり性格に推測できるようになっていた。誰かの背中に指で絵や文字を描いて、それが何かを当てさせるゲームに似ている。それを視覚と呼ぶのは憚られるものの、少なくとも一歩を踏み出した。(p.93)」

しかもその後の研究の改良と被験者の訓練によって、横・縦・ななめの線の識別、単純な形の物体、人の顔まで識別できるようになったという。

装置の研究が進み、今や感覚代行は、全聾の人間に音声で単語を識別させ、義足の人間をより歩きやすくさせ、色覚障がいの持ち主に周波数で色を識別させることに成功している。テクノロジーの力を使って、受け取れない信号を皮膚感覚や音などに変換して代行させれば、たとえ障がいを持っていたとしても、一緒に生活の課題を乗り越えられる。現在流通している補聴器などに取って代わるかどうかはわからないが、そういう時代が来るかもしれない。

ここまで書くと、可塑性が本書のテーマのように思われるかもしれない。

しかし、著者それよりも一歩進んだ概念を提唱している。それが、「ライブワイヤード」だ。厳密に言えば「可塑性」とは、脳が外部の出来事によって変化させられ、その新しい形を維持できるシステムのことだ。

上に挙げた例もそうだ。外部装置によってトレーニングを積んだ脳は、その能力を維持できるようになる。ただしこれだけだと、脳が持つ能力の一部分にしか注目ができない。

脳は変化し続ける。死ぬまで環境に合わせて配線を変えていく。まるで生きているかのように。そのため、ライブワイヤードという概念を用いる。脳はライブワイヤードな器官である。また、ライブワイヤードな脳機能を、「ライブワイヤリング」と呼んでおり、それが本書の核である。可塑的であり、常に入力された情報に合わせてニューロンの配線が変化し続ける器官が脳だ。それを巧みな筆致で、たっぷりと語ってくれる。

脳は世界を反映し、入力情報を受け入れ、体に備わっているどんな装置でも動かし、大事なことを保存し、安定した情報を閉じ込める。生存本能によって可塑性が生まれ、予測の間違いを自ら修正するために情報を求める。(P.350参考)

あなたの脳も僕の脳も、常に地図をわずかに書き換え続けている。刺激的な神経科学の世界へ冒険に出るにはうってつけの一冊。

 

今作が面白すぎたので著者の前2冊を買っちゃった。