点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

※ネタバレ有り タラレバファンタジーに元気づけられた話――『ミッドナイト・ライブラリー』

現在、おおよそ人生の最底辺付近にいる。

付近とわざわざ付け加えているのは、最底辺は通過したと思えるからだ。うつを発症し、何もできずにただ希死念慮を頭の中で反芻する粗大ごみ以下の存在としてベッドの上に突っ伏していた2019年の2月より、今は遥かにマシだ。

双極症Ⅱ型に病名が変化したりしたけれど、薬があっているのか最近は気分の浮き沈みも安定してきている。一番恐れていた、理由なき電車への飛び込み欲求なども最近はめっきり少なくなった(これは本当に恐ろしいもので、未だに僕は電車を待つ時にはホームの一番内側の何かにしがみついている)。

最底辺にいるとき、「なぜ自分の人生はこうなってしまったのか」と過去の自分の行動や選択を呪うことばかりをしていた。「あの時の選択を間違えたから、今の俺の人生の全てが狂った!」という分かりやすいものから、「この選択を間違えたのも、結局は自分を大切に思えていなかった自業自得なのだ」という面倒くさいものまで、一通りの後悔をこさえた。

しかし病気になる前や、現在でも冷静なときはこうも思っていた。

「仮想の自分の想像をするとき、必ず現在の自分に勝つのはおかしい。その選択をしたことによって、より大きな災難が降りかかっていた可能性もあるだろう」と。

例えば、僕が勉強を頑張って東大に入ったとしよう。今より良い人生か?足りない頭を振り絞って東大に入ったに違いないから、浪人か、あるいは部活動をやめたりして東大に入っただろう。しかしアッパークラスの秀才たちに果たしてついていけるのか。肩身の狭い思いをしながら、今まで自信があった学力すらも、環境によって圧殺され、メンタルに不調をきたす……のようなストーリーを、なかなか拵えない。

だからいくらシコシコとタラレバ思考を繰り広げても意味がないのだ、と。理屈では考えることができていた。

しかし一度不安の谷底に落ちれば脳は一瞬にして考えを変化させる。

「いや、あのとき、もっと頑張っていれば、今よりは遥かにマシな人生だったに違いない!!」と本気で信じ込んでしまう。理屈でいくらタラレバが無意味だと分かっていても、その日の体調や気分によっては、自己嫌悪の甘い誘惑(=嫌悪している間は動かなくても良いという誘惑)に負けて、しばしの間浸ってしまうということもあった。

のだが。いい本読めたおかげで、少しはこのタラレバの引力に吸い込まれにくくなった。なんなら、タラレバ妄想から卒業した気分でいる。

全世界にも大反響の小説『ミッドナイト・ライブラリー』は、過去の自分の選択やあり得たかも知れない人生に思いを馳せては憂鬱な気持ちになってしまうすべての人のための小説だ。

主人公のノーラは職場をクビになり、近所の好きだった野良猫が死ぬという、メンタルにダメージデカ目な出来事が立て続けに起きたことをきっかけに、己の人生と孤独を嘆く。衝動的に自死を選ぶが、目覚めると不思議な図書館に飛ばされていた。そこには、学生時代にお世話になった司書のエルム夫人がいた。

その司書、エルム夫人……らしきものが言うには、この図書館は生と死の間にあり、書架の本を開くことで、あり得たかもしれない人生を体験できるという。

今までの後悔がすべて記録されている『後悔の書』や、ノーラが思い描いていた理想の人生像を頼りに、次々とあり得たかもしれない人生(これは作中では、量子論をベースとして理解されている「並行世界」ではないかと説明される)をシュミレートしていくノーラ。

しかし、どの人生にも、どこかしら失望したり、こんな人生ではなかったという感覚を覚える。その度に図書館に舞い戻り、なかなか自分の理想の人生を見つけることができない……。

 

何らかのヴァーチャル・リアリティ技術が発展して、人生のシュミレートがもし可能な状態になったのだとしても、おそらく僕らはノーラのように、あらゆる人生に失望し、挫折し、理想的な人生を探すものの、最終的には「自分が獲得していない嘘の人生であることの虚しさ」「確かに生きているという実感欲しさ」「出来合いの愛情、人間関係への罪悪感」によって、現在の人生に戻らざるをえないのではないかと思う。

クライマックスでノーラは、「これぞ理想だ」という人生を見つけることになるのだが、しかしそれでも図書館に舞い戻ってきてしまう。なぜならば、「自分で獲得していない嘘の人生である」ということを知っているからだ。その人生ではノーラは哲学研究者であり、夫は外科医だし、なんと娘もいる。愛すべきワンちゃんもいる。

仕事は大変だがうまく付き合っていて、別の並行世界から来たノーラであっても順応できる要素しかなかった。しかし、そこにある愛情や人間の関係性というのは、残念ながらその世界のノーラが獲得したものであって自分が獲得したものではない。タラレバ妄想の盲点だと思う。人間の愛情が思い通りになったとしても、自分が本当に獲得したものでなければ、結局満足し得ないのだ。

最初は自死を望んていたノーラが、図書館で人生をシュミレートしていくにつれて、「様々な可能性を試したい」という欲求が生まれていく変化は、見ていて清々しい。そして同時に、「あらゆる並行世界で必ず失望し、図書館というリスポーン地点に戻っていく」という構成を何度も見せつけられることで、「ああ、全てが完璧な人生なんて無いのだ」と、情動レベルで体感できるようになっている。

本書から得られるタラレバへの諦めは、そんじょそこらの諦めではない。タラレバ思考からの卒業証書とも思しき、確固たる、前向きな諦念だ。楽しみも苦しみも全部ひっくるめて、ただただ生きていくことに対する覚悟を、ノーラと共に持つことができる。

この先の私の人生が、苦しみや絶望や悲しみや、あるいは傷ついたり辛かったり寂しかったり鬱々としたりといったことと、すっかり無縁になるなんてことが、はたしてありえるものかしら。答えはノーです。
それでも生きたいかって?
ええそうよ。こっちの答えはイエス。何回だってイエスと答えるわ。 (P.420~421)

この一文だけ切り取ると、よくあるビジネス書に書いてあるような文句に思えるが、ありとあらゆる人生をノーラと一緒にかいま見、後悔の書を焼き払い、ノーラと共に平行世界を旅してきた読者にとって、少なくとも、この本を読んでいる間は、「ほんとに、それな……」と言ってやりたくなるクライマックスなのだ。

すべてのアラサーは読め。もちろん、アラサーじゃない人も。