点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

若本規夫に"感染"する――『若本規夫のすべらない話』

 

僕は中学生から高校生にかけて、声を褒められたことがきっかけで、声優になってみたいと思ったことがある。色々調べて、絶対に無理だとわかったので、淡い青春の夢想に終わった。その時期に、一番格好良くって大好きだった声優さんの1人が、若本規夫さんだった。サザエさんのアナゴさんの声、とか言わなくてもいいくらいの大御所声優。

初めて若本さんの声を、「若本規夫」という名前で認識したのはいつだったんだろう。多分、『ドラゴンボールZ』のセルとかかな。

この人やばいなと思ったのは、高校生になってから見かけた、『HELLSING』のアレクサンド・アンデルセン神父。まだ無法地帯だったニコニコ動画。今で言う「切り抜き動画」的なもので見つけた。「格好いい。こんな声になりたい」と思った記憶がある。

そこから過去作品を掘って行って、大学生の頃に『カウボーイ・ビバップ』のビシャス、『DETONATORオーガン』のラング、『トップをねらえ!』のオオタコーチあたりに出会い、心底いい声だ……とため息を漏らしては、下手くそなものまねを、好きあらば友人に披露したりしていた。多分、男なら、誰だって一度は若本さんをモノマネしている。

本書は、若本規夫さんの自伝エッセイと、声優という職業における哲学をまとめた、ファン垂涎の一冊だ。コアなファンであれば、もしかしたら書かれている内容を一度はどこかで見聞きしたことがあるのかもしれないが、最近の若本さんを追いかけてなかった僕は、猛烈に楽しく読むことができた。出版されたのは2022年4月なので、とっくに読んだという人もいるのだろうけれど、今更ながら読んだ。

めっちゃ面白い。まだ読んでいない若本ファンは絶対に間違いなく読んだほうが良い。

虚弱児として生まれ、小学校時代は担任教師からいじめを受け、落ちこぼれの烙印を押されるも、転校を機に学校生活が好転。

高校は理系に進んだがめっきり伸び悩み、高3で文転するやいなや一気に学力を伸ばして早稲田大学法学部へ。

少林寺拳法の鍛錬に明け暮れ就活に遅れを取り、時期的に間に合った大卒警察官にエントリーし採用される。

交番勤務だったが、特別機動予備隊員に参加したことも。しかし1年で退職。

後に、偶然目にした声優養成学校のオーディションに応募し、合格。キャリアをスタートさせる……

と、もう前半から盛りだくさん。かなりドラマティック。だが、本書の読みどころは後半だ。

若本規夫、50歳近くにして「レギュラー番組しか仕事が無い時期」が到来。このままでは、まずい……と思って、キャリア約25年目にして、自らの声をさらに磨き上げ、「ハガネのようにしなる声」を獲得するため、様々な"先生"の元へ赴き、教えを請う。

この「武者修行」パートは読み応えたっぷりだ。

まず、あの若本さんがそんな状態であったことなんて知らなかったし、そこまで積み上げたすべてを捨てる覚悟で挑むという思い切りの良さというかストイックさというか、カッコいい以外の言葉が出てこない。

修行先はおそらく本書に記していない部分も多くあろうが、掲載されているだけでもかなりのものだ。そもそも「西野流呼吸法」「肥田式強健術」は修行編に入る前には、すでにやっていたらしい。そこから、歌手スーザン・オズボーンの2日間6万円のレッスン、万象館修行道場における古神道祝詞、香具師、声楽、虚無僧尺八、「ゆる体操」、クンダリーニヨガ、ボイストレーニングの「YUBAメソッド」、実際に教わってはいないが、浪曲からも影響を受け……といった具合。

修行への意識を変えたのは、イタリアのトランペット奏者であるファブリツィオ・ボッソ氏のインタビュー記事に「1日9時間練習している」と書かれていたことだという。これほどの一流が1日9時間もやってるのかという衝撃……を、当時50歳ごろの若本さんが受けていたということになるんだけど、そこからこれだけのアンテナを広げるのが凄まじい。情報源は書店で目にした書籍や、新聞記事のインタビューなどであるという。

修行に出る前から、声優という仕事は「呼吸」がものすごく重要であるということを、それまでのキャリアで見出していた若本さん。この書籍でも繰り返し、発声そして演技、さらには人生全般において、呼吸の重要さについて述べている。

修行先に虚無僧尺八が出てきたときにはどうして!?と面食らったが、「呼吸」と関連している。あらゆる技術を、自分の仕事に活かすためという目的意識を持ち、それを輸入できたと思ったらまた次の先生へ……といった具合。ここらへん、評論家の故・小室直樹を彷彿とさせる。

この生き様、多少声優を知っていたり、自身になにがしかの生きがいをもっている人間ならば、感服せざるを得ない。何かをスキルアップすることに遅すぎることはないというメッセージも、今日31歳を迎え、ああ俺はこの年まで何をしてきたんだろうかと考え込むような生活を送っている人間にとっては、この上ないエールに思えた。

文章が話し言葉で書かれていることは、とても良い。読みやすいだけでなく、黙読すれば自ずと、あの若本規夫の声で再生されるのだから、読んでいて楽しくないはずがない。芸能人のエッセイ本を読んでこなかったけれど、心機一転、素直に元気がほしいときには、こういう本もいい。

インフルにかかっている場合ではない。この生き様を読めば、あなたも若本規夫に感染する。

 呼吸だけを整えていればいい。
 それが、声優という仕事を通して、僕が教わった、いちばん大切なことなんだ。

(P.189)

 

2023/12/06現在、Kindle Unlimitedでも読むことができます。

30歳最後の日に近況報告

長らく更新していなかったこのブログを、ちろっと気まぐれに更新してみようと思ったので書いてみる。

 

文章書くという営みは、ブログという形では無いにしろ続けていた。

もちろん、まともな文章ではない。

TRPGのキャラクターシートという、同好の士以外の人には絶対に見られたくない文章を、恥部として量産する日々を、この2023年は送っていた。

恥部と自虐したが、キャラクターシートの作成は、まるで中学2年生の頃に戻った心地で、大変に楽しい。

TRPGをうっすら知っている外野の人たちからしたら、実に痛々しい行為に映るかもしれない。いい年こいた大人が、おままごとの延長線上にある遊びに熱を入れているのだから。

しかし、TRPGは、僕にとっては人生を生きるために必要な営みであったように思う。

というか、大げさに聞こえるかも知れないが、TRPGのセッションは本当に、生きる理由になったし、今もなっている。マジだ。これはマジ。

セッションの予定をすっぽかすと、3~5人、シナリオによっては10数名に及ぶ人間に影響が出てくるので、よほど限界的な状況でない限りは参加することになる。生きがいを失ったゾンビの如き、鬱の深い谷底にいる時期には無い「積極性」を、TRPGには持てるという発見があった。

これにより、自分は「何もかもがつまらなく感じてしまう」あの地獄のような日々からは、半ば脱却できているのだと実感する。好きなものであっても全く身体も精神も動かない……そういう事態には、もうしばらく陥っていない。抑うつがあったとしても極めて規模が小さいか、ドカン!と底に叩きつけられたと思ったとしても、案外ケロッと回復するということが増えた。絶対に良い傾向である。

本も以前より読むようになった。

このブログで書評をしていた時よりも読んでいるかもしれない。「チューリングテストをクリアした人工知能が存在する近未来SFの世界観で活躍する刑事」のバックボーンを構築するにあたっては、あまり興味がなかった「AIは意識を獲得するのか」という類の書籍を読む動機になったし、1930年代のアメリカ豪華寝台列車が舞台のシナリオをGMとして仕切るときには、アメリカの近現代文化史について調べるために書籍を活用した。

良いことはまだある。

TRPGをはじめたことで、趣味の作曲方面でとても良い体験をした。

セッションに使うBGMを作って発表したことで、それを聴いてくれた人から、「音楽制作の依頼」が来た。はじめて自分が作った音楽で、お金をもらうという体験ができた。金額を提示したら、「この値段で良いんですか!?」と驚かれた。これは人生の中でもかなり大きなビッグイベントになったと思う。

10年間、Achelouの名義で作った音楽は所詮、劣化コピーあるいは縮小再生産カバーであり、見向きもされないものであると思っていたのだけれど、オリジナルの音楽で、なおかつその作品に対価を支払ってくださる方々が、ぽつぽつと現れはじめている。好きなことをやめずによかったと、心の底から思える出来事だった。

とはいえ、体調や気分変調の浮き沈みは相変わらずであり、双極症というのは「良いことがあったから治る」というものではない病気なのだと痛感する1年でもあった。少しでも安定的に、自分の好きなことを継続して行える体力とメンタルを確保したい。

食生活は相変わらずであり、「沼」、あるいは蕎麦ばかり食べている。現在は運動をやめてしまったので体重の減少は止まってしまったけれど、以前のように急激な体重増は発生していない。数年前まで100Kgを超える体重であったが、現在は85kg~90Kgの間を行ったり来たりしている状況だ。また運動を始めて、ゆるやかな減量を再開したいところだ。凍える季節になり、ウォーキングの習慣がほぼ完全に廃れたので、まずはその再開を目指すところからはじめようと思っている。

 

2023年は、「自分のほんとに好きなこと」を再確認する良い年になった。

まだ満足に日常を健全に送れる状態にはなっていないが、幸いにして時間はある。

「自分がやりたいことって、なにかを創作していくことだったんだなぁ」と思えたのは、ターニングポイントだと思う。

確実に人生が楽しくなりはじめている。この高揚は躁状態の時の、苛烈なものではなく、身体全体に緩やかに広がる熱のような、落ち着きのあるものだ。

少なくとも僕の主観ではだけど。

目を背けることができない課題はたくさんある。まだ人に会うのが怖い。電車がきつい。パニック発作もたまに起こす。

その課題に向き合うための意志力を回復させるだけのパワーを、いままでは持ち合わせていなかった。だけど、それとは全く関係なさそうなTRPGという趣味を見つけて、だいぶ心を回復させることに成功したように思う。

2024年は、より健康な状態で楽しいことができるように、心身ともに調整できれば良いと思う。

また余裕があれば更新する。

何の変哲もない、近況報告でしかない文章だけれど、読んでくれてありがとう。

おはようとおやすみの間の時間帯より。 

Achelou

時間管理・タスク管理は無理ゲーである―オリバー・バークマン『限りある時間の使い方』

久々にビジネス書っぽいビジネス書を読んだんだけど、これはアタリだった。

こういう感じの本は、「身も蓋もない当たり前のこと」を正直に書いているもののほうが面白い。「人生が好転する思考術」とか、「悪用禁止の闇心理学」とか、「キャリアをブーストさせるコミュニケーションテクニック」とか、抽象的でよくわからない、具体性にかけるアドバイスばかり書いているいい加減な本よりも、「現実を見よ」という論旨の書籍に出会えたほうが、読み手にとって気づきを得られる可能性があると考えている。

本書の論旨は、「時間管理・タスク管理など、"効率の良い時間術"と喧伝される時間術は、やるだけほぼ無意味である」という内容だ。

これらの時間術は、そもそも前提からして無理がある。それは、「時間術さえこなしていれば、人生のあらゆる問題を解決できる」という前提だ。

効率の良い時間の使い方を、学習、あるいは体得することで、目の前の仕事は早く仕上がり、そればかりでなく仕事の質も向上させる。そして、余白の時間を使って自分の好きなことに時間を当てることができる。別の言葉で言い表すならば、これは「生産性の向上は正しいという前提」である。

果たしてその前提は妥当なのか?ということを、イントロダクションからフルスロットルで反論していく。

 生産性とは、罠なのだ。

 

 効率を上げれば上げるほど、ますます忙しくなる。タスクをすばやく片付ければ片付けるほど、ますます多くのタスクが積み上がる。

 人類の歴史上、いわゆる「ワークライフバランス」を実現した人なんか誰もいない。「うまくいく人が朝7時までにやっている6つのこと」を真似したって無駄だ。

 メールの洪水が収まり、やることリストの増殖が止まり、仕事でも家庭でもみんなの期待に応え、締め切りに追われたり怒られたりせず、完ぺきに効率化された自分が、ついに人生で本当にやるべきことをやりはじめる――。

 そろそろ認めよう。そんな日は、いつまで待っても、やってこない。

流行に対する「逆張り本」は眉唾で読むにこしたことは無い。極論が用意されている可能性が高い。だが本書の極論は面白いので、ブログで紹介したくなった。

なぜこのような論旨になるのか。著者は、人生の有限性を見つめよ、と説く。著者はハイデガーを引きながら、「人間の有限性こそが、人間というものを成立させる絶対的な条件(p.75)」であると主張する。人間という存在のなかに、既に時間の有限性が埋め込まれている。あまりにも自明であるために、我々はこのことを忘れてしまうのだ。

 時間をどう使おうか、と一瞬でも考える前に、僕たちはすでに時間のなかに投げ込まれている。この特定の時間、ほかでもない自分の人生の経緯。それが僕という人間を規定するのであり、そこから抜け出すことは決してできない。
 未来に目を向けると、そこでも同じように有限性が自分を縛り付けている。時間という大河の流れに、抗う術もなく運ばれていく自分。進んでいく先は、避けられない死だ。さらに厄介なことに、死はいつどの瞬間にやってくるかわからない。
 こんな状況のなかで、時間の使い方はすでに、徹底的に、制約されている。
 過去についていえば、自分がどこの誰なのかというのはすでに決まっていて、その限られた可能性の中で生きるしか無い。さらに未来についても、制約だらけだ。やることをひとつ選ぶだけで、ほかのあらゆる可能性を必然的に犠牲にしなくてはならない。(p.75)

ここで著者が言っているのは、1.有限の時間といものに人間は制約を受けていること、そして、2.決断は行動はその行動をすること以外の、あらゆる可能性を切り捨てるというトレードオフ関係にあるということである。

つまり、時間術や生産性アップライフハックというのは、所詮はその制約の範囲であれこれもがく行為でしかなく、喧伝されているほどのパワーを持っているわけではないことを認めよ、ということだ。

特に「重要なことはあれもこれも解決できる」と言われて時間術を実践中の人間の耳に痛いのは、あらゆる行動はトレードオフであるという部分だろう。「生産性をアップする時間術」と銘打った"ライフハック"を利用することで、「あれも、これも」とタスクリストやGoogle Calendarに記入してしまいがちだが、そのタスクを実行するということは、その他すべての行動を切り捨てることになる。

実際僕のカレンダーはそんな感じだ。最近趣味が増えてしまい、それの上達のための時間を確保しようとして、まっかっかである。まさに人生を"設計"しようとしているが、ちょっと冷静になれば、「無理じゃね?」となる。

今までの僕であれば、「やはり自分はスケジュール管理が下手の三日坊主……」と嘆き、バッドトリップ一直線だったのだが、本書を読んで考え方が少しだけ変わった。

「違う。そもそも考え方の前提が無理なのだし、その間違えた前提で立てたスケジュールなのだ。あれもこれも獲得しようとすることを、時間管理で解決させようという発想が、そもそも無理なのだ」と。

じゃあどうすれば良いのかという、本書なりの"処方箋"もしっかりと書いてある。巻末に10個ほど、本書のサマリーと共に具体的なテクニックが紹介されているのだが、その中から1つだけユニークだと思ったものを紹介する。

それが、失敗すべきことを決めるである。

ライフワークバランスを完ぺきにこなすことは不可能だ。仕事で稼ぎ、健康の維持し、人間関係を円滑にするなど、失敗すると大きめのしっぺ返しをくらってしまうような、なるべく失敗してはならないイベントがあることは確かだが、その他についてはどうだろう?

僕の場合、「趣味領域の上達」に関してとか、「日々掃除をする」こととか、やるべきことだと思っていても、失敗したとてそこまで人生に影響が出ない要素がある。それを先送りにしたり、タスクに置いていたとしても「失敗しても良いもの」として処理するのだ。

たとえば、今から2ヶ月は仕事を最低限にとどめて、子どもの世話に専念する。一時的にフィットネスの目標を中断して、選挙運動に専念する。その期間が終わったら、中断していた活動にエネルギーを振り向ければ良い。

「時間術を用いて、同時になんでもこなす」は幻想だ。忙しいシングルタスクや、愚昧なマルチタスクからは距離をおいて、一つずつ無理なくコツコツとやる。

それだけの、言ってしまえば当たり前のことを、果たして我々はどれだけ、日々意識しながら生きているだろうか。冷静に考えてみれば、「時間と戦っても勝ち目はない」ことに気がつく。愚直に、牛のように、ゆっくり歩みを進めるという方向性が、どうやら凡人たる僕の(あるいは僕のような悩みを持つ読者諸兄姉の)目指すべきものなのかもしれない。