点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

『世界の名著』シリーズを集めはじめました

降って湧いたアマギフで、かねてから欲しいと思っていた『世界の名著』シリーズの購入をスタートさせた。まずは1巻から15巻まで。

全品ヤフオク一括購入という手段もあったけれど、まとまったお金も無いし、一度に届いたとしても置いておくスペースも無いので、地道に少しずつ集めることにした。1巻から15巻までのラインナップはこうだ。

世界の名著〈第3〉孔子,孟子 (1966年)

世界の名著〈第3〉孔子,孟子 (1966年)

 
世界の名著〈第6〉プラトン (1966年)

世界の名著〈第6〉プラトン (1966年)

 
世界の名著〈7〉プラトン2 (1969年)

世界の名著〈7〉プラトン2 (1969年)

 
世界の名著〈9〉ギリシアの科学 (1972年)

世界の名著〈9〉ギリシアの科学 (1972年)

 
世界の名著〈第10〉諸子百家 (1966年)

世界の名著〈第10〉諸子百家 (1966年)

 
世界の名著 11 司馬遷

世界の名著 11 司馬遷

 
世界の名著 12 聖書

世界の名著 12 聖書

 
世界の名著 14 アウグスティヌス

世界の名著 14 アウグスティヌス

 

売っぱらってしまった『聖書』と『コーラン』をもう一度手元に取り戻せる。抄訳のシリーズとはいえ大ボリューム。当分は幸せです。届くのが楽しみ。。。

謹賀新年

多くの寄り道をして、現在に至ります。

寄り道はしないのも問題ですが、しすぎるのも問題です。度重なる寄り道で出来上がったのが、僕にとっての2017年でした。寄り道し過ぎた結果、現状維持となりました。

度重なる黒歴史とおさらばするため、一度このブログに見切りをつけようかと思っていた時期もありました。しかし、生み出した黒歴史から逃げないというのは、インターネット時代に必要なメンタリティです。自分の発言に責任を持つ。この言葉の重みを、誰にも分からないところで噛みしめました。

これから数多くの黒歴史を生み出していくつもりなのに、過去のひよっこな自分が生み出した、矮小なる黒歴史なんぞに気をとられるとは、僕もまだまだです。ブロガーという公開オナニストとしての自覚が足りないのかもしれない。

いずれにせよ、この社会の一定層の方々に受け入れられるような、しょーもない情報を発信していきたいと思っているところです。

これからも、点の記録による黒歴史配布をよろしくお願い致します。

『日常に侵入する自己啓発』──自己啓発ブームを社会学で見る

 

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

 

自己啓発にハマり狂っていた頃があったということを、このブログでも何度か記事にしている。高邁なゴールを設定し、念じれば思考は現実化するというトンデモナイ世界に足を踏み入れ、周囲の方々を大いに困らせた。現在は、そんな状態だった僕を見捨てずに付き合ってくれた彼女様に往復ビンタを、また多くの友人からタコ殴りにされたお陰で、高邁な理想世界から平凡な俗世へと帰還を果たすことができた。

僕が自己啓発に片足を突っ込んでしまったきっかけは「読書」である。この世には「速読」なるものがあるらしく、脳を開発・訓練すれば、立ちどころに多くの情報を処理できるのだという幻想を抱いて門を叩いた。読書という日常的に行われている習慣を、もっと良くしたいという素朴な感情に、自己啓発は侵入してきたのである。

胡散臭い、希薄な根拠を引っさげてもなお人々に受け入れられる自己啓発。出版業界縮小の時代でも、書店のベストセラーやランキングの棚には自己啓発書が占める割合が非常に高い。

こうした自己啓発ブームに、社会学のメスによって客観的に観察したのが、『日常に侵入する自己啓発』である。第1章だけでも読めば、自己啓発に対して距離を置いて眺めることができるようになる。著者の牧野智和氏は早稲田大学大学院で、教育学の博士号を取得しており、この本よりも以前に、『自己啓発の時代』という著作を出している。こちらはまだ読めていない。

自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究

自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究

 

著者の関心は、自己啓発書からあぶり出される社会の関心と現状把握だ。自己啓発書はある種の世界観を我々に提示する。この世界観について分析すれば、どのような価値観が現代の人々の間で馴染みあるものとして流通され、望ましいとされているのかが見えてくるだろうというところからスタートする。

自己啓発書という、近年台頭した、最大公約数的な価値観・願望・不安を取り扱うメディアの分析から、私達の社会が一体いまどこにいるのかを推し量ろうとすること。それが本書の主旨である。

「はじめに」より 

この本は自己啓発本ではない。自己啓発本ばかり読むのはけしからん、という類の自己啓発本があるが、そういうことではない。あくまでも目的は、社会学の視座でもって自己啓発というムーブメントを研究しているものだ。

ところで、タイトルの「日常に侵入する」とはどういう意味だろうか。

本書における自己啓発書の定義は、我々が漠然と抱える自己啓発書のイメージと相違ない。「自分自身を買えたり、高めたりすることを直接の目的とする書籍群すべて(P.2)」である。 こうした書物に特徴的なのは、焦点の一つに、「日常」をどう過ごすかという内容が入っていることだ。

 自己啓発書が扱うテーマ、目指す目標はさまざまである。だがそれらがどうあれ、啓発書ではしばしば、日常生活をどのように過ごすかという一見して些細な事柄が、やがて「微差、僅差の積み重ねが大差」(鍵山 1994:22)となり、「日常のほんの少しの差が、何十倍の実力の差に変わっていき」(本田 2010a: 110)、より大きな結果へと結実するのだと語られる。 

このような自己啓発書の基本的な思考を、筆者はブルデュー社会学と、そこから派生した諸流派の研究に結びつけ、自己啓発書は著者が提示する「感情的ハビトゥス」の習得を促すものであると捉える。

ハビトゥスについて、ここでは習慣とか態度とかの意味として捉えてほしい。脳科学・心理学系自己啓発的に言うと、「ブリーフシステム」に近い概念だ。詳しくはこちら。

kotobank.jp

自己啓発ハビトゥスとして捉えると、自己啓発の著者と我々との差異を考える時に便利だ。ブルデュー社会学には「誤認」という考え方がある。自己啓発にもこうした「誤認」状態があると著者は説く。ブルデューの言う「誤認」とは、貧富の差、学歴の差などの社会階層的な背景を無視して、本人の振る舞いは本人の個性や感性によるものであると認識してしまう象徴だとか、印象の操作のことだ。

自己啓発の著者を見よ。見事な経歴がズラリと掲載され、現在はモテモテの億万長者だ。彼らは所謂「成功者」であるが、その成功はすべて、「基本に忠実」とか、「常にポジティブ」というような「感情的ハビトゥス」によるものであるとすることが多い。

ブルデュー的に考えるならば、文化資本(超ざっくりなwikipediaの解説だと、上品で正統とされる文化や教養や習慣等)は相続され、再生産される。裕福な子は、金銭的な資本だけでなく、文化資本においても高い水準になる。

だが、自己啓発でそんなことは言えない。私が成功したのは、お金や文化資本がたくさんある家に生まれ育ったからです!ということは言ったら自慢になって終了するだけである。

私は高学歴で高給取りだから、才能があると見えるかもしれません。でも、実は皆さんも、このたったひとつの習慣を身につければ、誰だって僕のようになれます!

とか

全然ダメダメの冴えない男だったのに、こういう態度で人と接しただけて人生バラ色になりました!

など、全てが「感情的ハビトゥス」の習得に帰結していく。

その人がどういうハビトゥスを持つかというのは、幼少期からの家庭を中心とした環境に左右されるのは当たり前だ。「そういうのは関係ない」という、ある種の幻想を見せてあげなければならない。しかも、日常の、ほんの少しの意識の向け方で、あなたの人生はバラ色になるのだと思わせなければ売れないのだ。

ここにブルデュー的「誤認」を見ることができる。つまり自己啓発本を書いている成功者がなぜ成功したのか、これから読者が、どんな風に成功していくのかということについて、誤認的現象をみることができる。成功者の社会階層的な背景は排除され、彼らの成功は、彼らの自助努力、態度や行動の変革という個人的な感性の問題によるものであると説く。

こうした自己啓発の捉え方を軸に、男女別「年代本」、「手帳術もの」、「片付けもの」というようにジャンルを絞って、さらに詳しく分析している。自己啓発本読者のインタビューには頷くことが多くて面白いし、途中に出てくる自己啓発本の引用は、前後の解説文と合わせて読むと、途端チンケな意見に見えてくるから不思議だ。

あなたがもし、自己啓発本にハマっちゃって、なかなか著者が提示する感情的ハビトゥスを習得できないとお悩みならば、本書を読んでみるといい。自己啓発本著者、編集者、出版社、読者層、啓発本の主張内容を俯瞰して見ることができるチャンスである。