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点の記録

点だけ打って線を引けない男が、点と点を結ぼうとするブログです。

『絵はすぐに上手くならない』──上達の道は険しいという当たり前を説く

 

絵はすぐに上手くならない

絵はすぐに上手くならない

 

技術習得の際、効率の良い方法は無いものか?と方法論を知ることに躍起になる人がいる。

効率の良い練習方法を知ることは何も悪いことではない。むしろ、誤った努力をすることによって、せっかくの才能が無駄になってしまうパターンも考えられる。

しかし、知識偏重タイプの我々まよえる子羊は、方法論を知ることにとらわれがちである。この方法はどうだ?大変そう……あの方法はどうだ?これも自分に合わない……と、何か練習法に自分にとっての正解があるのだ!と右往左往する。すぐに上手くなる方法が、どこかに転がっていないものかと血眼になるのだ。

TwitterFacebookなどのSNSや、イラスト投稿サイトとして大成功しているPixivなどの登場と普及によって、個人の作品を世に知らしめるインフラが整った。僕がフォローしている人の中にも、絵を描くことが好きで、自分が描いたイラストをTwitterにアップロードしている人が何人かいる。

しかし、そのような今はまだ名も無き絵描きたちは、現実と理想とのギャップに苦しみもがき、「どうなったら絵が上手くなるのかわから~~ん!」という魂の叫びを日々不特定多数のフォロアーに向けて発信している。気持ちはわかる。

小学校の頃入っていた漫画クラブ、中学高校の美術の時間などの数少ない美術体験のさなかで、美術的センスの無さに愕然とした僕などは、「確かに絵がうまくなったらどんなに良いだろう。楽に、自分の思い通りに絵が描けるというのは、どんなに心地よいだろう」と妄想してしまう。その境地に到達したら、どんなに心地よいだろう。早く絵が上手くなりたい!そうすればこの地獄から開放されるのだ。

しかし、本当はそんなこと無い。

「上手にできる=苦労が少ない」というのは、卓越した名人芸を傍観する凡人が、思い描きがちなことである。

例えば野球などの好プレーを見るときなどはどうか。いとも簡単にやってのけているように見えているが、果たしてそうだろうか。彼らはピッチャーからボールが放たれる瞬間、バッターがボールを打つ瞬間、打たれたときのボールの行方などに猛烈な集中力を発揮して、自分のチームが優位に立つよう、瞬時に行動をしなければならない。テレビ画面で見ると楽そうに見えるが、実際はそんなこと無いはずだ。

ハイパフォーマンスをいつも引き出せるわけではない。楽にできないからこそ、日々練習するのだし、コンディションを整え、1試合1試合真剣に取り組むのである。

『絵はすぐに上手くならない』という著作は、こうした当たり前のことを、「絵を描く」という行為においても当てはまるのだ、と書いてくれている。

上手な人でも必至に形をとり、遠くから何度も眺めて形を直し、一心不乱に描き込み、ようやく絵が完成するのです。むしろ画家の大先生や有名なアーチストのほうが、命を削らんばかりに凄い形相で画面に向かっていることでしょう。ですから、誰しもが「最初から楽に描ける」わけはなく、「うまくなったら楽に描ける」こともないと思ってください。 

漠然と絵がうまくなりたい、と思っている人は、絵が上手くなるための練習期間や製作期間の苦しみに目を向けようとしない。

当たり前だけど、絵が上手い人というのは、少なくとも人並み以上に絵を描いているし、サヴァン症候群などの病気でなければ、「目で見たものをとっさに絵に描く」という芸当は、できるはずがないのだ。心のなかで「自分は天才だ!」と思うのはモチベーション維持の観点からすると大変宜しいが、そうは言ってもいきなり技術レベルが大天才になる方法は存在しない。

本書はこうした精神論的な主張や、迷える絵描きが一度は思う「あるある」に対して、著者なりの意見をしっかりと主張してくれている。

「絵が上手くなるのにデッサンは必要か?」
「絵が描けないのは身体のどこに問題があるのか?」
「どういったトレーニング方法が自分には合っているのか?」

ということなどにも、「こうしてみましょう」と優しく教えてくれる。

漠然と絵がうまくなりたいと思っている人、絵をはじめようにもなかなか気力が沸かない人などは、本書を読むことによって「絵を描くとはどういうことなのか」という奥深いテーマの一端を知ることができる。

速読とおさらばできる速読の本

今回は当ブログでも度々話題にしてしまった、「速読」について書く。

この記事をもって、「速読」というキーワードで文章を書くことを最後にしようと思う。

理由は複数ある。まずひとつは、速読という文言をTwitterでつぶやいたら、よくわからない野良速読野郎と名付けてもよかろう知らん人からフォローされたから。それだけで「意識高い系」という病を捨てきれていない感じがして、そういう自分の現状が嫌になっちゃった。

もう一つは、僕が速読をどういう風に考えるようになったかということによる。以前僕は「速読っしょ!冊数読んでる人が勝ちっしょ!」みたいな感じで文章書いていたりしたことがある。このブログは僕の意識高めだった時期の被害に遭っているので、多分過去ログを探せばそういう文章がいくつも出てくると思う。興味ある人は自分で探してください。恥ずかしいからアドレスは貼らない。

今は速読主義!みたいな立場をあらためている。読書スピードだったり理解度だったりは、その人それぞれ。読み方もその人それぞれ。早く読もうが遅く読もうが、そんなに関係ないよ、という考えに至っている。

この考え方になぜ至ったのか?それは速読本とかで紹介されているテクニックを実践してみて、「速読って慣れなんだな」ということが分かったからだ。慣れ親しんだものはすんなり文章として入ってくるし、理解できるようになる。そのことは、僕が読んだ速読本にも書いてあったけど、そのことを書いてくれている速読の本は少ない。

速読の本なのにも関わらず、「速読は慣れである」という身も蓋もないことが書いてある2冊を、「速読とおさらばできる速読の本」として紹介したい。

どんな本でも大量に読める「速読」の本 (だいわ文庫)

どんな本でも大量に読める「速読」の本 (だいわ文庫)

 

 何回もサブリミナル的に紹介リンクを貼っているのが、『どんな本でも大量に酔える「速読」の本』だ。

この本はその名もズバリ速読技術のノウハウ本だが、そこら辺に転がっている「右脳を鍛えて速読!」とか「ページを写真のように切り取る!」などを方法論として紹介している超人系とは真逆だ。「読書慣れ」は「速読技術」に勝るという見出しがあるように、「現実を見ろ」と言わんばかりの既存の速読術をボロクソに批判しているのが痛快。え!?じゃあ速読って無いの?いやいや、ありまっせ~という内容なんだけど、テクニックの部分はさておき、一歩距離をおいているところに好感が持てる。

 いくら速読技術を身に着けたところで、その本の内容に関して何も知らなければ、難しい本は難しい本であることに変わりはありません。あなたが普段から本を読み慣れていなければなおさらです。仮に速読技術があっても、何のストック(経験や知識のこと)もない状態では、読める本は限られてしまいます。

速読技術を身につけると、本を理解するスピードも速くなる、と勘違いする人が多い。そうではない。そもそもしっかり知らない、馴染みのない分野の本なんて、早く読もうが遅く読もうが理解できないことには変わりない(だったら早く読んじゃおうという!というのが本書の立場でもあるので気になるなら読んでみると良い)そんな当たり前のことを、「当たり前だろ!」と言ってくれる速読本はなかなか少ない。

ほんとうに頭がよくなる「速読脳」のつくり方 (PHP文庫)

ほんとうに頭がよくなる「速読脳」のつくり方 (PHP文庫)

 

胡散臭い脳機能科学者として注目されている苫米地氏。トレーニング方法は超人系のそれに近いが、彼の速読に対する眼差しは非常に現実的だ。これも前述の宇都出さんの『どんな本でも大量に読める「速読」の本』と同じで、事前知識が無いと速読は困難だとしている。

クリス・アンダーソンの『FREE』をなぜ速読できたか?について)350ページもの本を5分で読みきるには、読者側がもともともっている知識量がなにより大切なのです。 

(中略)

 読者側がもともともっている知識の量。これが速読を可能にする最大の条件なのです。

(中略)

 まずは速読など使わなくていいから、本を読んで下さい。
 そうすれば自ずと知識量は増えていきます。すると、その知識は速読をする際にも有利に働くわけですから、そあらに多くの本が読めるようになります。

僕が「速読は慣れ」という根拠はここだ。宇都出流速読の重要概念である「"ストック"が重要である」ということと、本質的に同じことを言っている。本を読む→知識が増える→その知識を使えば本は速く読める……の繰り返し。これが速読のカラクリですということは、この2冊の共通している重要な主張だ。

苫米地氏の速読本で気持ちが良いのは、あとがきのこの一文である。

 自分がいかに速く読めるか、1分間に2000文字読める眼球になったなどと、自慢する人もいますが、それが何の役に立つのでしょうか。
 何度も言いますが、速読なんかできなくていいから、「じっくり1冊の本を読む」ということです。あなたにとって本当に役立つことは、そちらのはずです。

速読本なのに、「速読をするな」と書いてあるのは本当に面白い。紹介されている速読テクニックについてはこの記事では触れないけど、どっちもざっくり説明しちゃうと、「本を速く読もうと思って速く読んでりゃ、勝手に速くなるよ」という内容で一貫しているので、安心して「速読」という自己啓発の一端を担う呪縛から開放されてほしい。

そもそも、全く本なんて読んだこと無い、久しく本なんて読まなかった人が、いきなりすんごいスピードで読めなくたって、何も悪いことじゃない。速く読みたいなら実際にページを速く動かして試してみればいい。これだ!と思ったら続ければいいし、なんかちげぇなと思ったらやめればいい。

こういう本を読むにつけ、「効率の良い正しい読書・勉強方法」ってのは、自分が「これはすごい!正しい!」と思って実践して、結果が出たものが、自分にとっての正解になるだけなんじゃないかな。画一的に「この方法がホモ・サピエンスが学習する手段として一番優秀だ!」なんて、言えるわけが無い。そんなことを、勉強法の本から学んだという記事でした。

さよなら速読!

僕は自分の好きなようにに本を読むことにします。

 

achelou.hatenablog.com

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このブログの目的の一つは「趣味関係の友達を増やす」です

思ったこと 読書

長らく声が出ない状態が続いていた。幾分か声も出せるようになり、本日仕事をお休み頂き、必死で解熱剤を飲んだので熱は下がった。ここ数日はぼーっとした頭で記事を書いておりやした。

なんとか明後日の出勤には体調を戻すことができそうで安心している。

 

本題に入る。

最近、書評として読書に関する記事をアップできていない。

自分の批評家気取りな態度ムンムンの文章に嫌気がさし、「こんな薄っぺらな知識でよくもまあ書けたものだな!」という自己嫌悪が原因だ。書くぞー!と決めてカテゴリ分けしたものの、全然書いていない映画と漫画と音楽についても同じだ。レビュー記事における自分の態度が気に食わなくて、とるにたらない、日常のふとした拍子に思ったことなどを書き散らすというブログになっている。

この状態は嫌だ。ブログ開設当初の予定とだいぶ違う!

ブログを始める前に、本についての感想やらなんやらを公開していた場所がある。「読書メーター」という読んだ本の記録ができるサイトだ。メモ機能を使って、読んだ本の感想を書いていた。それをSNSに共有するなどして、「僕の書いた意見見てみてーー><」みたいな感じでシェアしていた。

最初の方はいいね!とか押されていたけど、飽きたか、あるいは「こいつ急に本とか凄い読み出して、なんだか怪しいぞ。におうぞにおうぞ、意識高い系のにおいだ!」という具合に避けられていたか、単に僕の感想が面白くなかったか、そのいずれもが原因で、シェア先でのコミュニケーションに溝ができたように感じられた。

ならば場所を変えようと思いたち、自分の好きなことについて大いに語り、自分の趣味の範囲で友達をじゃんじゃん作ろうということで、ブログを立ち上げた。これが目的だった。『点の記録』とは、後付で考えた看板だ。もちろん点と点を先で結べるような、過去の記事を大伏線としたオモローな文章を書くことができればそれは良いことだと思うけれど、ぶっちゃけて言えば徹頭徹尾「趣味語りブログ」にするはずだった。

最初のうちは特に何も考えずにいろいろ書いていたのだけれど、書けば書くほど自分の認識の甘さや、視点のズレ具合、文章の下手くそっぷりが目について、自分が好きな分野であったはずのものを、自分で汚している感覚がしてきたり、何日もブログ記事にsるようなことが無いと、「あれ?俺ってこれ本当に好きなものなのか?」とか余計なことを思ってしまう。

おかげで、特に読書によって出世したわけでもない(むしろ職を失った)ヤツによるありがたみも何もない読書論で溢れかえることになってしまった。しまいには「ブログは自慰行為だ!」ということを高らかに主張するという自慰行為をやってのけた。久しぶりに合う友人の何割かは、このブログに関しては特に言わんどこ……というようないらん気を使わせてしまっている。

いまこそブログ開設当時の初心に戻るべきだ。どうせ自慰行為なら、開設当初の目的、自分に課したミッションをこなさねば、全く友達も増えずにテクノブレイク状態でフェードアウト必至である。

かといって、ブログの運営方針をここで公にして、それを達成できるかどうかということも怪しい。僕の性格上、書いたことは忘れるし、発表した目標は達成されないことが多い。予定表に書いた予定は、たいてい無意味な文字列で終わる。これは小学校1年生の夏休みから変わっていない。意志薄弱なのである。

だがあえて今後の方針を書いてみる。

読書をするにあたってもプラスになるので、ライト書評、並びに普通に一本書評を書くということは増やそうと考えている。「この本おもろいで!」という情報を発信したほうが、山崎の人となりがつまびらかとなり、「俺もおもろいと思っとったんや~~」と声をかけやすくなるかな、とか考えている。

書評を書く、アウトプットするというのは、読書で得た著者の視点を、論理的な文章で纏め、この本面白いぞ!!という事が言えるか?が求められる。ハードルは高いが、ブログ開設当初の志に戻って、いろんな本を取り上げ、当ブログを読んでくださっている数少ない読者さまが、「山崎の書く書評はおもろいな。どれひとつ友達になってみるか」という風になってくれたら、万々歳でございます。

今後とも、なにとぞ『点の記録』をよろしくお願い致します。

 

achelou.hatenablog.com

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読書ノートについて

読書

読書ノートってどうしてるの?ということを聞かれたので、ちょっと書いときます。あまり参考にならないと思うけど、単なる読書好きの戯言として聞いていただければと思います。

山崎の読書ノートに対する認識

基本的に山崎は読書ノートを作ろうとしません。何故かと言うと、単純に、面倒くさいからです。ただし例外があって、これはぜひ血肉にしておきたい、というものに限っては読書で読んだものをノートにメモしたりします。読む本読む本すべてをノート化したり、全てに対してレビューをしていってしては、正直時間がいくつあっても足りません。それは老後の楽しみに取っておくとして、今はとにかく色んな本に目を通してみて、これは抑えておいたほうが良い知識、情報かもしれないというときや、この本はいい本かもしれないというときは、「なんでもノート」という大学ノートにきたな~くメモしたりしています。

 

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

 

 

引用するのがメイン

自分でまとめようとすると時間がかかるので、取る内容は殆ど引用です。見返したときに分からん……ということがありそう、あるいはもうちょっと纏めておきたいな、という場合に限って、コメントやメモに対する線引きで要約をします。本には昔書き込んだりしていましたが、読み返したときに、「何でこんなところにボールペンで線ひいてんの?」と不快感を覚えて以来は、なるべく本には書かないようにしています。

ただこれもなんとなくで、どうしてもここは重要そうだぞ?というところは、シャーペンでカギカッコをつけます。それを後で引用したり、しなかったりします。あと、どうしても反論したいぞ?というところには、シャーペンでコメントを付け加えたりします。

読書ノートの付け方に関しては色々参考にしていますが、元外交官である佐藤優さんの『読書の技法』という書籍を特に参考にしています。ずぼらな僕は彼のようなストイックさで読書ノートが作れません。しかし、なんでも一冊のノートに纏める、というテクニックは拝借させて頂きました。この点はズボラな自分の性にあってます。

 

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

 

 

でも忘れるもんは忘れる

ただ、そうやって読書ノートとして残したメモが記憶に定着したか?といえばそうではありません。読書で僕が最低限気をつけていることは、著者はなぜこの考えに至ったのか?著者の視点ってなんだ?ということです。この結論に至るまで、どのような考えに至ったのか?ということを、少なくとも大筋くらいは言えるようにしておこうよ、ということです。だから細かい所は忘れてしまいますし、乗り気じゃないけど重要だと書いてあるからそこをメモしたものなど、自分で選んでいないものに関しては、やっぱり忘れています。

記憶のメカニズムをわかりやすく解説してくれている著作に、池谷裕二さんの『記憶力を強くする』というロングセラーがあります。基本的に記憶は失敗の経験が無ければ覚えにくいということが言われています。

 

記憶力を強くする―最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方 (ブルーバックス)
 

記憶の3箇条

1.何度も失敗を繰り返して覚えるべし

2.きちんと手順を踏んで覚えるべし

3.まずは大きく捉えるべし

(p.139)

生物は失敗から学び取ります。根拠として上げているのはエドワード・ソーンダイクやバラス・スキナーらが提唱した「オペラント学習」です。心理学本や記憶術本を読んでいる人ならお馴染みで、またかよ~という感じがしますかね。でも、結局これです。失敗を何度もすることによって、物事の因果関係を把握し、課題を解決するというマウスを使った実験が有名です。

そして「エビングハウス忘却曲線」も忘れてはなりません。失敗を繰り返すタイミングを、この忘却曲線が減少しきらないところで、もう一度復習する。すると何度か繰り返すことによって、時間が経過することで忘却する記憶の量が減ってくるというテクニックが紹介されています。(エビングハウス忘却曲線自体が、色々ツッコミどころも多いらしいので参考程度に。)

つまり読書ノートをつけていようが、つけていまいが、失敗を繰り返すこと、復習をすることを怠れば、忘れてしまうリスクが高まるということです。だから、読書ノートという方法は実は恐ろしい。書き写したところで、復習をしなかったり、見返して何か物事を考えたりしなければ、せっかく努力して作った読書ノートなのに、何も身につかなかった、というようなことに陥りやすいシステムなのです。

自分の性格と相談する

読書ノートを取るとき、自分のパーソナリティを見極めることが重要ではないかと考えます。だって記憶のメカニズムを真とするならば、復習しなければ意味が無いのだから。読書ノートを取ることが好き、むしろ、こういう方法でないと読書した気になれない!という方の場合は、大いに読書ノートを取るべきだと思います。

本の内容を覚えておきたいけど、ノートで復習するのなんて面倒くさい!という人は、読書ノートをとらずに何回も本を読んで、その都度「ほほーうなるほどな~」と感動できるようにしておくと良いかもしれません。大人になると、丸暗記よりもエピソード記憶として物事を記憶する能力が高くなるからです。面白い本が自然と記憶できるのも、そのためです。

また、エビングハウス忘却曲線によれば1時間で記憶したことの50%は無くなります。本なんて記憶しよう記憶しようと気張りながら読んでいませんから、1回で記憶できる量なんてせいぜい全体の1%くらいってところでしょうか。ちなみに僕は、何度も何度も再読をとにかくやる、というやり方のほうが性に合ってますので、メインはそうやって読書してます。自分で言うのもあれですが、一読目から読書ノートを取ってやめちゃう人よりは、記憶の3箇条の「3.まずは大きく捉えるべし」という要素を取り入れられているのかな、とも思っています。

なんにせよ、個人的な感覚としては、「こりゃあおもしれー!」と思ったことなら大概記憶できるし、忘れたとしてもすぐに調べたくなって、調べればまたすぐに長期記憶化される感覚というものがあるので、読書はやっぱり楽しいな、ということを大前提でやってます。

読書自体の楽しさのためにも、記憶への定着のためにも、何事にも感動できる大人でありたいものです。

 

achelou.hatenablog.com

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主張から先に考えられる癖を持ちたい

ブログというものは主張ありきだ。

主張が無いブログとはどういうものかというと、それは拙ブログ『点の記録』を読んでいただければ分かることである。盛り上がりに欠け、読み手が納得の行く流れで文章が組み合わさっていないせいで、何が書いてあるのか?何が言いたいのか?ということがわからなくなっている。

これはわざとである、新しい文章表現方法なのである、なんて言えるはずもない。全ては私の想像力と文章能力の無さがなせる業だ。しかし、反省しても反省しても、「書きながら主張を考える」という癖が抜けない。

ブログのための、という前置きがつくまでもなく、多くの文章術の本の中で語られていることは「主張は明確にすべし」ということだ。

何のために文章を書くのか?もちろん、何か伝えたいことがあるからである。では、その伝えたい事にモヤがかかっていてはどうしようもない。しかし人によっては、そういう文章を量産してしまう恐れがあるのだ。僕だ。

そこで、文章筆記の大前提テクニックとして、「主題、主張を先に決める」というテクニックが有効であるというのは誰でも知っていることだ。

主題、主張、つまり言いたいことを先に決めておくというのは、「仮説を立てる」ことに似ている。

仮説を立てるということは、その仮説を立証する証拠集めと、なぜその証拠が仮説を裏付けるのか?ということが必要になってくる。他人に自分の仮説を納得させるには、それがいかに客観性と再現性にあふれているかということを、これでもかと説き伏せなければならない。学術論文や学術本は、自分の主張を膨大な証拠と根拠付けを行っているのである。自分の主張を認めてもらうには、本来は本くらいの分量で立証しなければならないのかもしれない。

文章による主張をより多くの人に「なるほど」と思わせるには、こういった作業が必要だ。主張を裏付けるデータと、なぜそのデータが主張を裏付けることになるのかという根拠を証明できれば、良質な記事の出来上がり、というわけである。取り上げる主張やテーマにもよるだろうけど。

この記事の主張は「面倒くさくっても、主張を分かりやすくするために、データを明示したり根拠を論じたりするのってやっぱ大切だよね」である。そのためには冒頭の文章術について記述したところで、いかに世の文章術が「主張をはっきりさせて方がよろしい」ということを言っているのか?という客観的なデータがほしいところである。文章術の中でも名著とされているのが、木下是雄著『理科系の作文技術』である。この本の2章「準備作業(立案)」は、主題選定→目標規定文の策定→材料集めという流れで文章作成の準備方法を解説している。

主題はもちろんテーマのことである。これは言わずもがな。先程述べた仮説を立てることと、ほとんど同義であると言っても良い。目標規定文とは聞き慣れない言葉だが、それもそのはず、これは著者の造語である。

 

理科系の作文技術(リフロー版) (中公新書)

理科系の作文技術(リフロー版) (中公新書)

 

 これは私の造語だが、英語のシーセス(thesis)がこれに近い.

 たとえば ,学生が「日本の春は寒くなりつつあるか?」という課題でレポートを求められたとしよう.彼はまず,過去60年間の気象データを調査して,ここ10年間の春の気象のデータをそれ以前のものと比較する.(中略)

統計的な検定をこころみてもやはり,「平均的にみると,ここ10年間は,春先に暖かくなり始める時期がおそく,また春の平均気温も低い」という結論に到達したとする.そこでレポートをまとめるわけだが,そのときに,本文を書きはじめるより前に,自分がそこで主張するつもりのことを,まず,例えば次のような目標規定文にまとめてみるべきだ──というのが私の考えなのである.

このレポートでは、ランダムな変動を考慮に入れても,1970年代に入ってからは春がくるのがおくれ,また春が寒くなりつつあることを示す.

太字にさせていただいたところが、目標規定文だ。

木下氏の文章準備術は、「主題からデータを集め考察し、結論(主張)を導き出し、得られた主張を本文よりも前に記述するべし」である。なぜこうした目標規定文が必要か?ということにも触れている。

私は,少なくとも初心者にとっては,まずこういうかたちに目標規定文を書き,それからその目標に収束するように文章ぜんたいの構想を寝ることが必要だと考える.目標規定分は,執筆の途中で材料の取捨選択に迷ったときにも判断をたすけてくれるだろう.

ブログを初めて1年ちょっと立つが、初心者の域を出ていないことは自覚している。何のためにこの文章を書いているか?視点が欠如していたので、今後の参考にしたい。書きながら気がついたけど、今までに一度たりとも「この記事はこういうことが言いたいために書きました」という文章を冒頭につけたことが無い。

読みやすい文章を書く人の記事は、「この記事はこのテーマについて書いています」ということが分かるタイトルと冒頭の書き出しであることが多いと思う。エンターテイメント的要素を優先して、ついつい結論は最後までとっておきたくなるけど、実力を鑑みて、結論を先にドンと書いてしまうというテクニックも、「主張は明確にすべし」という基本的な教えと複合的に使っていこうと思います。

それにしても凄くいい本なので、理科系の作文技術、ブロガーならぜひ読んでみて。Kindle版も出てるから!(主張のみ)

 

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