点の記録

点だけ打って線を引けない男が、点と点を結ぼうとするブログです。

有意義か無駄かを考えるとなんだか落ち着かない

有意義な一日を過ごそうなんて思っていると大抵上手く行かないもんです。中にはうまく人もいるんだろうけど、山崎の場合はとことんうまくいかない。気張っちゃうからでしょうか。

仕事が休みだったもんで、今日はあれやってこれやって……と頭のなかでプランを組み立てました。プランは恥ずかしいので公開しません。

実際にはこんな1日でした。

同居人と一緒にカラオケに行き、買い物をして、飯を作って食った。同居人が友達と飲み会に行くって言うんで、家にひとりぼっちになることに。久しぶりにニコニコ動画でも漁るかと思いきや、ネットの点検だかなんだかが入って、2時間くらいネットが使えない。ええい、なんだか空回りするなぁ。一人篭っても仕方がないし、図書館を目指そうとしたところで、とてつもない睡魔に襲われまして。気がついたら今です。

やっちゃいました。惰眠を貪り尽くしました。

一日のはじめに、「今日はあれをやってこれをやってそれをやって……」と頭の中で思い浮かべても、なかなかうまく行かない。やろうと思ったことが達成されないと、なんだか自分が無能な人間であるかのように思われて、やるせない気分になる。山崎の休日とはそんなもんです。幾度となくこれに陥っております。

今日を良い日にするぞ!と気張ることには、メリットもあればデメリットもあります。メリットはその日のスタートをいい気分で過ごせることであり、デメリットは達成できなかった場合、その日のゴールを憂鬱な気分で過ごすかもしれないということです。諸刃の剣で365日を過ごすなら、行き当たりばったりで過ごしたほうが幾分か楽だよな、と思いなおして、もう無理しないことにしました。

どれだけ無理をしないか、というと、何も決めない。どこで本を読むか、どういうふうに過ごすのか、どういう一日にするのか、ということを決めない。結果それが、無駄な時間や、無駄な行動を生じてしまったとしても、それはそれで仕方がない。と考えるようにしたのです。勝手に自分で背負っていた肩の荷が下りた心地がしました。

厚かましい自己啓発本やLifehackerの記事は、少しでも有意義で無駄のない生活をしろ!といいますが、そんなものは無理。幻想です。ビジネス本は、無駄のない生活こそが素晴らしい!という価値観を植え付けます。それは洗脳で、できない自分をより意識に上げ、セミナーや他の本に手を伸ばすための作戦です。自己啓発洗脳にかかると不幸だぞ。ちょっと前の僕がそれだったけど。

一見無駄のない思考ができるのは、コンピューターや人工知能です。コンピューターや人工知能は人間が考える現状の範囲の中で最適と思われる答えを出してくれるわけです。しかし、それでも完全に無駄を省くことはできません。

コンピューターは言い方を変えると計算機です。いい入力、つまりいい計算方法、プログラミングを計算機にやらせなければ、いい出力が出せません。入力の段階で無駄があれば、コンピューターの動きも無駄の多いものになります。最悪変な挙動をしたりします。そう考えると、世の中に一切の無駄のないものなんて存在しません。無駄のない一日、無駄のない生き方を求めるのは、コンピューターを超える情報処理能力を持つ存在になろうとすることです。アホらしい!

自分にとって何が有意義か?ということを考えることは重要です。いつまでたっても、「これは自分にとって有意義だ」と評価しなければ、本当の意味での有意義なんて存在しないんです。客観的な尺度で、無駄か無駄じゃないかという判断はできないのよ。有意義か無駄かというのは、最終的に自分でしか決められないんだもの。

「だったら全部有意義でいいじゃん!」とするのも、なんか違う気がするんです。

いや、理想はそうなんですよ。でも明らかに自分が納得の行かない一日を納得しろというのは酷です。

じゃあどうするか。

一番は、有意義だったな!と思った日は大いに誇らしく思い、駄目駄目だったな、と思った日には大いに落ち込むという、当たり前のことをしたらいいんじゃないかな。知らず知らずのうちに、喜び過ぎちゃいけないとか、落ち込み過ぎちゃいけないとか、本音に蓋をしてしまう人が多い気がする。まじめな人が自己啓発難民になっちゃう要因の一つがここにある気がします。

本音に向き合って今日一日どうだったかなという振り返りを繰り返していくうちに、自分の価値観やものの見方の尺度がはっきりしてくるんじゃないかな。してきたらいいな。

世界十五大哲学──歴史を知ることは遠回りではない

世界十五大哲学 (PHP文庫)

世界十五大哲学 (PHP文庫)

 

 本書は哲学史の本である。本書を読めば、哲学史の基本の部分が分かるように設計されている。僕自身が入門本をめちゃくちゃ読んでいるわけではないので、僕がおすすめだ!と言うのでは説得力が無いかもしれない。一応、博覧強記の佐藤優氏も推薦文を出している。彼を信頼している人は、読んでみるといいかもしれない。ちなみに僕がこの本を知ったきっかけは、なんとアンチ佐藤氏な友人からのおすすめだった。

教養を身につけるべし!という世の中になってきてる。なかでも哲学は教養の代名詞のような扱いを受けている。そもそもなぜ哲学を勉強する必要性が出てきている!と騒がれているのか。もちろん本を売るために危機を煽っているからという理由もあるかもしれないけれど、どーせならそれ以外で考えたい。

哲学を志す人の最終的な目的は、自分の哲学を展開するところにある。要するに、「自分で新しいことを考える」ことである。

しかし、新しいアイディアや哲学をすべて自分の体験や経験から展開しようとしたりすると、なかなか難しい。では「自分で新しいことを考える」ためにはどうすればいいのか。色々経験だ!という意見もあるかもしれないが、学問においては文献研究が王道だ。過去の研究者の意見を自分の血肉にしておいたほうが、自分で生み出す考えが深まる、というのは本書の序文でも語られている。

どのような人間も、そしてどのような問題につても、過去の事柄を無視しては、新しい創造にむかうことはできない。(中略)過去の専門的な哲学の業績をふまえることをしないで、自己の中に哲学を求めることは、蚕が桑を食むことなくして糸を吐こうと努力するほどに、むなしい営みである。

序ー13頁

本書は二部構成だ。

第1部では、まず哲学思想史をざっくりと、古代から現代まで解説する。

第2部では、思想史に大きな影響を与えてきた哲学者15人の考えを基礎的な部分に限定して説明してくれている。

この本を出発点とすれば、現代哲学や思想を理解する上で必要な基本的な知識をさらえるようになっている。

個人的におすすめしたいポイントは、哲学の歴史全体をざっくり理解することで、第2部がよりしっかりと理解できる点だ。

どういう時代背景から、どういう考え方が生まれていったのか、あるいは、どういう議論から、どういう世界観が作られていったのか……という知識がないまま、「この人はこういうことをいってたよ」と書かれても、「で?」となるだけ。哲学者一人ひとりを懇切丁寧に解説している入門本もあるけれど、まずは全体をざっくりと理解するというところでは、歴史に目を向けてみると良いという気づきも得られる。

人間の思想というものは、その人間がどういう時代にうまれ、どういう環境に育ち、生活し、どういう意見から影響を受けたかによって大きく左右される。それらを抜きにして一人の哲学者の学説を理解しようとするのは、まさしく本書の言葉を借りるのであれば「蚕が桑を食むことなくして糸を吐こうと努力するほどに、むなしい営み」になってしまう。

これは、あなた自身が、新しい哲学やアイディアを生み出すときにも重要だけど、過去の哲学者という一人の人間を理解しようとする上でも、重要なことだと僕は思う。歴史に名を残した哲学者の生み出したアイディアは「むなしい営み」とはならなかったから今に語り継がれている。

「なぜその考えに至ったのか」を知ることは、遠回りではない。昔の偉い人たちだって、過去の情報を参照し、それを自分の知識や経験と統合して生み出しているのであれば、その源泉を知っておくことは、素早い理解への近道だ。むしろ周辺知識として理解を助け、記憶にも刻まれやすい。いそがば回れで原著よりも先に、ざっくりと本書の知識を入れておくだけで、哲学という学問分野の捉え方が違ってくると思う。

Kindle版もあります。

世界十五大哲学 (PHP文庫)

世界十五大哲学 (PHP文庫)

 

 

 

書けないなら仕方がない

ブログの編集画面を開いて、見出しを書いて、本文を書く。本文を書いている最中に、ぷっつんと電源OFF状態になり、編集中のタブの☓印を押す。これを繰り返して、もうすぐ1ヶ月が経とうとしている。モチベーションが死んでる。

以前同じような事を書いた気がする。多分この先も同じようなことを書く。こんな下らんことを書くなら、もうブログやめちゃえば?という意見する人もいるかもしれない。有り難い。確かにそのとおりだ。でもなんだか勿体無い気がして、このブログのデータを丸々削除することは、たとえ、客観的にみて、社会的価値のない文章の肥溜めであったとしても、ひどく惜しい。

更新頻度を高めようと色々やってみた。ロバート・チャルディーニの影響力の武器では、皆に公言することによって、目標は達成されやすいということが書いてあったので、「今度はこうします」系の、本人以外にとってはどうでもいい内容の記事を垂れ流したりした。しかしこの方法は、「自分には一貫性がある。一度公言したことは絶対に守るぞ!」と思っている人に限定されるのではないか。

残念ながら僕にはプライドが無いので、「失敗しちゃいました。てへぺろ」と堂々と言えてしまう。ダイエットにしろ節約にしろ、そうなのだ。他人が自分の失敗をみて、嘲笑、あるいは失望の眼差しを向けてくることに対して鈍感であるがために、この方法は使えない。

そもそもなぜ文章を書く気力がなくなったのか。これも別の記事で書いた気がするけれど、必要がなくなったからだ。文章鍛錬と読書仲間を増やすためにブログを始めたことは以前にも書いた。前者は、もはや文章を書くという能力を求められる環境では無くなったが為にする必要がなくなり、後者は、もうこれ以上読書仲間増やさなくてもいいやと思いはじめた事によって必要性が無くなった。

では新しい目標なり、必要性を見つけようぜ!という風に考えるのが普通だろうが、困ったことがある。そもそも、目標や必要性を見つけないと、ブログなんてやれないという状態であったということだ。

趣味というのは、他人からとやかく言われようとも、自然に、やりたい時にやっているものだ。山崎のブログはどうだ。自然にやっているか?書きたいと思った時に書いているか?答えは半分是であり、半分否だ。普段は書かないとな、と思っているが、例えば今、この文章は、「こういうことについて書きたいぞ」という心持ちで書いているからだ。

ということは、書かなくてはならないという義務感が働いているときは書けない。無理して書いた文章はどこか慌ただしい。誤字脱字……はいつものことだったわ。ごめん。いやでも、多分無理やりこさえた文章の方が絶対に多い。作業中は無理やり結論先にひねり出したりして、結局何が言いたいのか分からないというものもかなりある。

では、それと比較して、今こうやって書いている文章はどうなんだ?クオリティ高いのかどうかは知らないけれど、少なくとも文章を書いている時に「苦しい」とか「早く終わらせなきゃ」とかそういうことは考えていない。無理しているときに感じる動悸だったり、変なところから汗をかいたりすることは無い。脇は汗かくけど。

書けないならもう仕方ないと思ったほうがいいな。

諦めよう。仕方がない。書きたくないもの。

計画的な更新というものは、計画通りに実行すること自体が好きな人間でなければできない。僕がよくやってしまうのは、自分の力量を過信して、無茶なスケジュールでブログの更新やら趣味の予定やらを乱立させ、物の見事にガーターを決めて落ち込むというものだ。

そうではなくて、書きたいなと思ったらピンを立て、至近距離で玉を転がすくらいの気持ちで向き合ったらいいなと思えるようになった。

いくらなんでも行き当たりばったり過ぎやしないか?と思うところもあるけど、趣味なんて計画立ててやるもんじゃない。計画立てるくらいなら、今すぐにやっちまったほうが早い。タイムラグによって、過去の自分が設けた宿題をせっせとやるのでは、夏休み終了間際、すべての宿題を残していた小学5年生の時に感じた「もうダメかも」という焦りを、毎日感じることになる。それは精神衛生上、非常によろしくない。

この記事が最後かもしれないし、まだまだウンコを生み続けるかもしれない。それじゃあまたいつか、とも言わないようにして、出勤の時間が来たのでここで終わり。

冷気の壁

今週のお題「晴れたらやりたいこと」

 

僕はとにかく暑がりで汗っかきだ。どれくらい汗かきかと言えば、酢が入っているものなどを食べると脇汗や顔汗がひどくなるときがある。これは味覚性発汗と呼ばれる生理現象で、特に異常なことではない。しかし、ちょっとした運動、気温の上昇、精神的な不安によって、ドバドバ汗をかく。見た人が引くどころか、心配になるレベルで汗をかく。

そんな僕は、もちろんのこと夏という時期が大嫌いだ。毎年夏になると憂鬱を通り越して希死念慮さえ出てくる。うそ。むしろ夏の方がどっか行けと言い出してしまいそうになる。一年中湿度40%、20~22℃であればいいのにと心の底から願っている。はてなブログのお題は「晴れたらやりたいこと」だけれど、この時期に晴れた場合は家に引きこもって読書かゲームか映画を観るのいずれかだ。

しかし、山崎は夏にまったく魅力を感じない哀れな男と思われるのもなんだか寂しいので、夏嫌いな僕の、夏最大の楽しみをここに公表する。しかもしっかり、晴れた日でないとできないことだ。

それは「冷気の壁」を感じることだ。

冷気の壁とは何か?

ムワリと暑く、人を殺しかねない日差しで自分の身体が蒸発してしまいそうな、午後1時の東京の猛暑日を想像して頂きたい。少し休もうとあたりを見渡すとスターバックスが目に入る。おそらく冷房が効いている。すでに殺人直射日光から逃げおおせた人で賑わっているが、関係ない。一刻の猶予もない。立て掛け式の黒板に、手書きでうまそうなフラペチーノのイラストが書かれていて、そういえば喉もカラカラだったと気が付く。

フラフラと自動ドアの前まで歩く。自動ドアが開く。重いガラスのドアが滑るレールの上をまたいだ瞬間、まとわりついていた湿気と熱気が一気に剥がれ落ち、代わりにひんやりとした空気が全身を包む。まるで自動ドアのレーンにそって冷気の壁があり、それを暑くなった身体で突き抜けるような感覚だ。

これが僕が夏の時期にとても大切にしていることだ。

冷気の壁は喫茶店の場合ハズレが多い。オープンテラスの席などがある店は冷房のインダストリアルな涼しさではなく、自然に吹く風を店内に取り入れるなど、シャレオツなことをする。シャレオツだが、涼しくない可能性が高い。それではだめだ。

一番冷気の壁を感じやすいのは、地域密着型のスーパーだ。

地球温暖化なんて我々の辞書にはありません。魚が腐ったらどうするんだ!」

という具合に、風邪を引きそうなレベルでガンガン冷房を効かせる。これがいい。この取って付けたような容赦のない涼しさの押し売りが、僕にはちょうどいい。

「ん゛あ゛~゛~゛~゛ずずじい゛~゛~゛~゛」と呻くように声を出してしまうが、びっくりしないでほしい。

これが僕の夏の楽しみ方なのだ。

 

クソ読書・リターンズ

クソ読書再考

クソ読書とは、読書を大真面目に取り組んでいる人からすれば、クソみたいな態度で読書をする態度のことを言う。僕が作った造語だ。クソ読書については、昔書いた記事で粗方書いてあるので一読してくれたら嬉しいけど、そんな暇な人はいないと思うので、リンクだけ貼っておいて、こちらの記事でも説明しておく。

achelou.hatenablog.com

 僕がクソ読書とみなしているのは、以下の3つだった。

  1.  寝るための読書(寝落ちクソ読書)
  2.  本を選別するための読書(役立つクソ読書)
  3.  トイレでする読書(正真正銘クソ読書)

しかし、山崎はこれ以外真面目に読んでいるのかと言えば、全然そんなこと無い。読書に「真面目」に取り組めば取り組むほど、どツボにハマってしまうからだ。せっかく趣味で楽しく読書しているのに、本末転倒。趣味にさえ今まで言われてきた「真面目さ」を取り入れて何になる。クソづまりを起こしてしまいかねない。

クソ読書以外の読書

山崎は本を読む時、どれくらい真面目ではないか?

  1.  わからないところは基本的に飛ばす
  2.  知らない単語も飛ばす
  3.  わからない所は気が向いたら調べる
  4.  つまらなかったら途中で読むのをやめる→寝落ちクソ読書に使う

こんな読み方で知識なんて身につくはずがない、と思われるかもしれないが、そもそも知識を身につけるためだけに本を読んでいるわけではない。

読書は、人の話を「ふんふん、なるほど、へぇ!そうなんだ!」と聞くことに似ている。自分の未知の情報を知ったり、最近自分が考えたことを、ギリシア時代の哲人がすでに考えていたことを知ったりして、常日頃「なんて俺は馬鹿だったんだ」と感じることに、ある種の悦びを感じることが好きだからやっている。

読書は「こんなことも知らないんすか」と言われることが楽しくて仕方がない変態におあつらえ向きな行為だ。博士くらいになれば、逆に「うんうん、そうだね。間違ってるけどね」とか余裕が出てくるものだけど、その過程にある人は基本的にドMでなければ、小説は別として、ノンフィクションなんて読む気がしない。

「真面目に」知識を身に着けたい人へ

ところで、やっぱり、それでは知識が身につかないんじゃないかなと言われることがある。確かに、上のようなクソみたいな読み方では、一冊の本を一回読んだ時、血肉になる情報は少ない。だから、一言一句正確に、わからないところは読み飛ばさず、行間を意識し、著者と対話し、知り得た知識をアウトプットして……と色々な生真面目テクニックが思い浮かばれる。が、ちょっと考えてみてほしい。

正確な情報をわざわざ持っておく必要がどこにある。アメリカの人口の正確な数値を知りたかったらGoogleで検索すれば一発になってしまった時代だ。覚えていればクイズ王になれたり、「すごーい!物知り~~!」とモテたりする可能性はあるかもしれないが、それだけだ。確かに読書はそうした「データ」を収集することもできるが、だったら内閣府が出している○○白書を調べたほうが手っ取り早い。

読書をしたとき、覚えておくと今後の読書が楽しくなるのは、「結論と思考過程」だと思う。

些末な情報は後から調べればいいじゃん。読み返せばいいじゃん。著者が言いたいこと(クレーム)はこれ。根拠(データ)や、なぜその根拠が言いたいことと結びつくのか(ワラント)をざっくり理解するだけで、全然違う。データのほうを覚えたかったら覚えればいいけど、特にこの中で大事なものってクレームとワラントじゃないかなと思う。根拠がクレームとなぜ結びつくのか?というところがボロボロだったら、データを覚える必要は無いからね。

一旦「クソ読書」してみよう

お気づきの人もいるかもしれないが、山崎は平素の読書からクソだ。知識なんて身につかなくてもいい、とにかく本から情報を得ることが好きなだけなんです。今までは3つだったが、4つ目の項目として、「山崎みたいに読書する」を追加しよう。

僕が読書にハマる理由は、SNSにハマる人、まとめサイト泣ける2ちゃんねるを見る人、ニュースサイトで恋愛コラムばっかり読んじゃう人とかと同じような心理状態だ。情報を得るメディアが違うだけで、高いハードルも貴賎も何もない。

結局、こういうのは好奇心の赴くままにやっていくのが一番だと思う。好奇心に素直になったほうがいい。そうでなく、課題や義務感から獲得した情報とは、なかなか覚えにくいし忘れる。受験勉強の時に記憶した武将の名前を5年10年先も覚えている人は凄い。よっぽど好きだったんじゃないかと思う。

とにかく、肩の力を抜いて、読書なんて大した事ないと思って、リラックスした状態で本を読む。それだとありきたりだから、「クソ読書」と名付けた。

読書をするからには、頭良くなくちゃいけないとか、余計なハードルを作らないでほしい。読書をしていても、僕みたいにパッパラパーなやつがいて、ブログで変な書評を書いて、自分の読書論なんぞを大げさに論じちゃって、人生楽しんでいる人がいるから。

好奇心はあるけれど、読書を真面目で退屈な作業だと思っている人は、クソ読書的な態度で本を読んでみてほしい。できれば、僕が掲げた基準なんかクソだから無視して、あなたなりの不まじめな態度で本を読んでみてほしい。持ち前の好奇心に対して、読書という習慣は鬼に金棒だ。きっと本を読むのが楽しくなる。

 

クソ読書参考図書

どんな本でも大量に読める「速読」の本 (だいわ文庫)

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読書力 (岩波新書)

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乱読のセレンディピティ

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