点の記録

点と点が結ばれるのをじっと待つブログ。主に書籍について。サブで音楽やら映画やら。

体調崩し気味で赤字社員だと罪悪感が募るけど、社会は関係なく廻っていくので諦めてより良く社会で生きる方法を探すことにする

仕事を休むことが多い。理由は体調の不良である。

10代は胃腸の不調に苦しめられ、20代にさしかかっては扁桃炎に苦しめられている。

扁桃炎は手術をしなければ根本的な解決にはならない。しかも、手術と入院費には大体10~15万円かかって10~15日間は入院を余儀なくされ、なおかつ、術後も発熱を繰り返さないという保証は無いと言う。1~3ヶ月は喉の痛みと違和感との戦いである。客と対面してしゃべる職業に付いているので、なかなか決心がつかない。

普通のサラリーマンをしていると、体調不良によって自分以外のメンバーに迷惑をかけてしまう。少なくとも現状の仕事たと、どうしても迷惑をかける。僕はこういう体質なので、他人が体調不良で仕事を休むとなっても「仕方がない」と思える。しかし、僕が健康の権化のような人間で、風邪なんて10年に1度しかひきませんという羨ましい身体の持ち主だったなら、1ヶ月おきに体調を崩して、最悪仕事を休むようなヤツが居たとしたら、「さては仮病だな」と疑うだろう。

体調を崩し気味だと、社会からの信頼や信用を失いやすいのは、仕方がないと分かっていても切なくなるのは、僕がまだガキだからだろうか。1~2ヶ月おきに1~2日体調を崩すとしても信頼してくれるような仕事というのは、一般的な職業には殆ど存在しない。営利を目的としたすべての仕事には、価値を出して金をもらい、自社の事業を拡大して、儲けの最適化を図るという原理原則がある。体調を崩すヤツは、このルールからして、はっきりいってお荷物である。

資本主義が存在しない地域であっても、人間心理には返報性というものが存在する。お返しの心である。それによって人類は物質的にも情操的にも発展してきたが、体調が悪い人間は自由に動ける時間が他の人よりも少ないから、他人と比較したとき、この部分において負けてしまう。

チームで何かをやろうとする場合、担当が振り分けられるが、欠員がでると回らない状況があって、それでも体調を優先して休みをいれた場合、業態にもよるけれど、取り返すのに時間がかかる。その分働けば良いという意見もある。迷惑をかけた分、実績を伴って挽回すれば良い。

そうは言っても、僕が寝込むときというのは、人より大きい喉を腫らして、喉痛い~熱しんどい~と唸っているだけである。発熱で脳の回路が開かれて云々して、仕事ができる人格がいつの間にか形成されれば良いのにと、くだらない妄想をすることしかできないため、仕事で成果を巻き返すということ、では休み明けからやるのだと意気込んでも、どうにもならない部分は絶対にある。

つらいつらいと言っていても仕方がないので次の一手を考える。体調を今すぐに改善するのは難しいが、やれることはすべてやる必要がある。食事と運動に気を使い、22:30にはベッドに潜って23時には眠りにつくようにしてやる。扁桃腺炎防止によいとされることについて調べまくって実践する。僕は蓄膿症も持っているので、これの改善をすることも扁桃炎に大きくプラスの影響があるのではないかと睨んでいる。

やれることはやろう。この記事を読んでくださった皆様からの情報もお待ちしております。

あとは、万が一治らなかった場合についても想定しておく必要がある。

はっきり言って体調不良気味のヤツ=欠勤気味であり、僕が上司だったら出世させたくないし、もっと言うと辞めてほしいと思う。それはお互いの為である。生活保護でもなんでも申請して、無理なく生きていってほしいと思う。

だから、健康優良児前提の職場にそういう人が来てしまったのなら、クビにしてやったほうがお互いのためだ。発熱しているやつを無理やり出勤させて、ミスされたりするほうが会社にとっては損失だ。僕はただでさえ今の職場ではミスが多いため、これで38~39度の熱を出してミスをするとしたら、根拠はないが、どんなに大きなことになるか分からない。被害妄想甚だしいのは分かっているが、そういう風に考えたい時期なのかな。5月近いし。

いつクビを切られても良いように準備をしておくことを、体調管理とセットでやっていく必要がある。何が正しい世の中であるかわからなくなってしまっているので、安易に資格の勉強するとかすると、参考書代が無駄になる。

クビを切られてもいい用意ってのは、今取れる手段としては、その後の就活のための貯金くらいしか思いつかないので、ひとまず頑張って金を貯めます。

面白いレビューを書きたい

山崎は「面白いレビュー」を書きたい。

何故か。

我々オタク共が手っ取り早く自分の好きなことで社会に役立ちたいのなら、作品に金を出すか、作品を他者に語るかをすることに絞られてくるからだ。

オタクにとって、見た、あるいは観た、聞いたものを自分の中にしまい込んでおくのは勿体なさすぎる。インターネット上の口コミが未だに説得力を持つ時代である。ならば、クリエイターを食わせ、より良い作品を作ってもらうためにも、「魅力的な表現で作品を語り、語った人に実際に触れてもらう」という技能は必要だ。クリエイターや制作サイドに金が入り込めば、より良い作品が我々に供給される。オタクが自分の煩悩を満たし、かつ不特定多数の他人の役に立つには、この方法が手っ取り早いのである。

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則

 

ところで「レビュー」とは何か

レビューは英語でReviewと書く。英語2の山崎でも意味するところは字面で分かる。Re-再び view-見る である。見直し、とか、再検討とかの意味が含まれているものだ。

この世で最も全知に近い存在であるGoogle様に聞き及んだところ、「評論」を意味するのが一般的だ。しかし「評論」とはなんとも堅苦しいイメージが付随する。だから素人が何かについて語る時にはあまり使われない。

我々は中学から高校までの間に、現代国語の授業において、「評論文」に手ひどくやられているから、エントリーのタイトルで「スター・ウォーズ エピソード7 評論」とか書かれても、正直見る気がしない。読み手も読みたがらないし、書き手にしても評論なんて言葉は使いたがらない。書き手が学術関係者ではない場合、そんな大それたことを言うつもりも書いたつもりもないという精神的なブロックがかかる。そこで英語表現のレビューのほうが砕けた印象があるため、こちらが好まれて使われるようになったのではなかろうか、とこのサイトに書いてある。

[三省堂辞書サイト]10分でわかる「レビュー」

レビュー=評論として話を進める。

大辞林によると「評論」は

物事の善悪・価値などについて批評し,論じること。また,それを記した文。

となる。エッセイ、随筆と比べると、論理、ロジックを用いることに重きをおいた表現方法と言える。

書籍や映画、音楽について語るとき、エッセイであってはいけないと言うつもりはない。むしろ、小説や映画などのフィクションは、論理という世界観で語れない部分を伝えようとすることで、ググッと魅力的な文章になる場合もあるから、物によってはエッセイとして思ったことを書いた方が良いものもあるかもしれない。

では何故、山崎はエッセイではなくレビューを書きたいのかというと、それはエッセイを書くに耐えうる教養や修辞、人間的魅力や技量を持ち合わせていないからだ。

評論は論じるというルールがある。論じるというのは、根拠となるデータを、主張との裏付けをしつつ展開する文章形式だ。つまりルールを守っていれば、文章としての質は「筋が通っている」としてある程度保障されることになる。

書評で例えるなら、「この本は面白い」という主張をしたい場合、それが面白いという根拠となるデータ(本文からの引用など)を見つけ、なぜ主張を裏付けるデータと言えるかを記せば、言っていることに筋が通っている、妥当性があるとして、一定の評価ができる。

しかしエッセイとなると話が異なってくる。これは論理を使っても良いし、自分の心情や感情を文章に乗せることも、後ろめたさを感じずに堂々とやって良い。そのため、よほど文章の心得がなければ、しっちゃかめっちゃかな文体となって激ダサになる。これは文章の極意を掴んだ作家、あるいはその才能を持つ人がやるべきことであって、エッセイで人の役に立つというのは、山崎のような凡夫には到底不可能な境地だ。

ところで、しっちゃかめっちゃかな文章でも需要のある場合がある。

それが先程あげた、人間的魅力である!人間的魅力があれば、よほど日本語としての体裁が崩れていなければ、ある程度整合性の取れていない文章であったとしても、「○○さんらしい」ということでケリが付く。

あぁ!エッセイストへの道は潰えた!……目指してないけど。

結局のところ、どこぞの馬の骨が書いたエッセイなんぞは見向きもされない。山崎が歴史に残る名文を生み出せたとしても、現状、地下アイドルがプロモーションで使っているTwitterの電波キャラめいたつぶやきにすら勝てないのだ。

「もっと読みたい」と思わせる文章を書く

「もっと読みたい」と思わせる文章を書く

 

話を戻す。

ネットにある書評サイトでエッセイ的な文章と書評の違いを体感したいなら、松岡正剛氏の『千夜千冊』と、Dain氏の『わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』に掲載されている書評の数々を比べて頂ければ分かる。

松岡正剛氏はエッセイ的で、テーマとなる本に関する話が無尽蔵に飛び出してくる。まさしく散文的だし、ボリューミーだし、専門用語が出てきたら初学者以下の分際では太刀打ちできなかったりするのだけど、面白い。まるでさらわれるかのような心地がする。書評というよりも書をテーマに自身の主観を織り交ぜた作品を読まされている気分になる。こんなふうに、深い教養に裏打ちされた、遊びのある文章が書けるようになりたいものだと、もれなく書評家が憧れるひとつの型だ。

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松岡正剛の千夜千冊

 

対してDain氏は書籍の紹介に努め、どこがどのように面白かったのかということをファクトベースで書いているように感じる。Dain氏の書評の特徴は、相当な読書量から繰り出される要約力の妙である。一文字目から最後の文字まで読むと、本の概略を掴んでしまえるほどに分かりやすい。もちろんネタバレや核心には触れられないから、読みたくなる。Dain氏から圧倒的な焦らしを受けている心地がするのがたまらない。

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わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

この2つの書評サイトの「面白さ」は、全く別の面白さである。

取り上げられている本を読みたくなるのは、松岡正剛氏よりもDain氏の方だ。こりゃあよほど面白い本だったに違いないと猛烈に刺さる。読まねばならんと思うほどで、紹介されている本をもれなく図書館から借りたり買ったりしてしまっていた。

松岡正剛氏の方は間違いなく本について語っているんだけど、全然関係ない分野の話が飛び出してきたり、横断的な視野を獲得できる読み物のようなものに近い。だから、エッセイ的とはいったものの、読み通せば道筋をたどってひとつの視点を得ることができる。得られるのは松岡正剛氏の視点だ。

作品について語るときに、「触れてもらいたいから語る」のと、「自分の考えを伝えたいから語る」のとでは種類が違う。山崎が今後身につけていきたいのは前者の態度だ。自分が読んだ本、観た映画のどこが面白かったかを、筋道通して語りたい。ついつい山崎は「あの映画のあそこでね、登場人物がぶぁーっとなって、敵がボォーンつって、最後におばあさんがぐちゃぐちゃになります面白いです」みたいなことを言いがちだが、そういうのもうやめたい。

あと文章を凝ろうとして、日常使わないような言葉を使ったりするから、もう、ひやーー!痛いよぉー!と読み返した後に死にたくなる。ちょっと中二病をこじらせたのが山崎の持ち味であると開き直るのには、まだ時間がいる。

作品に対する情熱を、理性と論理を意識しながら、うまく文章に流し込むには鍛錬がいるだろうけれど、少しでも「お前のブログで取り上げてた本、映画、面白かったよ~」と声を書けてくれる人が増えればいいなと思います。

スパムと承認欲求

スパムコメントが多くなったので、コメントを承認制にさせていただきました。

僕の心に深く根をはるのは、承認欲求という怪物です。これを退けることは、並大抵の努力ではかないません。人生のどこかで、主に子ども時代、認められることに飢えていた時期がある人は、大人になってもこれと完全におさらばとはならないのです。

そこで、一度巣食ったこの感情を取り除くよりも、付き合ってやるかーくらいの心意気で接してやるのが、精神衛生上よろしいのではないかと考えたのが、大学5年生の頃でした。

気がつけば、過疎ブログを運営し、赴くままに駄文を量産する黒歴史オナニーに興じておりました。なんとも業が深いことをやらかしております。コメントや星がつくたびに嬉しいと思い、大げさですが人生にハリと潤いが出てきたような、そんな気がしていたのです。

しかし、承認されることを望む人にとって、インターネットというのは地獄であります。自分のアクションによって、人の手が通った反応が、どんどん欲しくなるのです。

スパムコメントに中身はありません。アンチですらない、どうでもよろしい内容の情報を機械的にばら撒きます。その都度「コメントがあります」という通知を出されるのは、なんとも面白くありません。承認欲求と上手に付き合っていこうという山崎のプランの中に、スパムコメントの存在は、全く入っていなかったのです。

ついこのあいだまで山崎は、はてなブログアプリのアイコンに通知のマークがピョコンと着くと、

「いやったああぁーーーー!はてなスター or コメントだぁーーーー!!」

と、今年26歳になることを忘れ、無邪気にも飛びあがって泣いて喜ぶようになってしまったのです。どこで道を踏み誤ってしまったのでしょうか。タイムマシンを作るえらい科学者になるのだと豪語していた、小学2年生の山崎が見たら泣くでしょう。とにかく、そのような地獄のような状態になっていたわけです。

なぜスパムコメントに腹が立ち、なぜこんなにも腹がたつのかと冷静になったその瞬間、ふと我に返ったのです。うまく付き合うどころか、最近は承認欲求に食われているという現状にふと気がつきました。人ならざる反応が来たことによって、人による反応にどれだけ飢えていたのかを知ることができました。

ありがとうスパムコメント。山崎は無事、妖怪「承認欲求足りないマン」にならずに済みそうよ。

ただ、見栄えが悪くなるのと、本物の人からのコメントを頂いた時に、それらが埋もれてしまうこともありましょうから、コメントは承認制とさせていただきます。スパムのほとぼりが冷めたら、またコメントの承認制は取り去ります。

黒歴史を作り出すことを自制しろという声が聞こえて来そうですが、それは!それだけは!できない相談です。

ライト書評 『ボランティアという病』『術語集』『世界史とヨーロッパ』

ボランティアという病 (宝島社新書)

ボランティアという病 (宝島社新書)

 

押し付けがましい善意によって地獄を見る人がいる。ボランティアはかねてより、「善意の押しつけ」「自己満足」という負の部分が抜けないカルチャーだ。本書はボランティアによる「やらかし」の実態を書いている。被災地のニーズを性格に把握しきれず、あるいは踏みにじり、自分たちがやりたいことを、災害支援という大義名分によってやってしまう困った団体、困った人物がいるのも事実なのである。。

キャッチーなタイトルにキャッチーな文章、TwitterFacebookで見たことをそのまま書いている箇所があるなどの粗が目立つので、ボランティアに関する問題を調べようとしたときに賛否両論ある本書をあてにするのは、あまりよろしく無いかもしれない。ただ、こういう意見もあるんだなあと参考にはなる。防災プロに、本書についての意見を聞いてみたい。

術語集―気になることば (岩波新書)

術語集―気になることば (岩波新書)

 

さらりと読んで感想を書くものではない本というものがあって、本書はそういう類の本だ。少なくとも一回読んで語るべき本ではない。しかしピエール・バイヤールも言うとおり、「読めた」という状態というのは曖昧である。いつまでも読めない読めないでは一生読めない。そういう本こそえいや!と書いてしまうべきだ。

本書は現代思想のキーワードについての短評を纏めたものだ。人文書であり、エッセイでもある。のっぺりとした哲学書とは違い、解説文にも潤いがあって、難しい話をされているはずなのに、簡単に思えるのがフシギだ。こういう本を読んでしまうと、さも賢くなったかのように錯覚するが、そこは要注意である。

アランの『定義集』に着想を得て、本書のような「私家版用語集」を世に出した著者は、あとがきにて「自分の頭の<大掃除>をした思いがした」と述べている。なるほど、整理方法には、こうしたのもあるのかと、この心意気に惚れ、自分でも「気になることば」を集め、自分の言葉で短評を書くということをブログとかでやりたくなった。試しに本書の1番最初の単語、「アイデンティティ」で一筆書いてやろうかとメモ帳を開くと共に、頭が真っ白になった。自分の浅はかな世界の認識、つまりは言葉の認識の仕方に、絶望した。

世界史とヨーロッパ (講談社現代新書)

世界史とヨーロッパ (講談社現代新書)

 

 完全無欠の「客観性」というのは存在しない。それは歴史も同じ。書き手によって、事実の見え方は変わり、書き手の持つ思想や信条によって表現は異なってくる。歴史はつまらない、と考えている人は、この点に歴史=退屈という方程式を崩す糸口があるように思う。

本書を読めば、世界史がヨーロッパ文化の中でように書き換えられていったのか?ということを知ることができる。時代時代において、ヨーロッパの人々がどのような世界観からどのような歴史を綴ったかを知るのは、案外楽しかった。

最近の歴史の楽しみ方として、無味乾燥な文章による歴史知識の詰め込みよりも、遠回りでもいいので、本書のような歴史そのものの発生過程を知るとか、史実とされる知識にプラスアルファで書き手の主張が見えやすい本を選ぶのが良いのかもしれないと思い始めている。その理由は単純で、面白いからだ。

特に時間の捉え方の変化の仕方は、読んでいて楽しい。古代ギリシアの円環的な時間認識の世界から、中世ではキリスト教的世界観に移り変わり、時間は一定方向に進むベクトル的なものになる。そこから宗教改革がおこり、それまでのカトリック的な時間観念に対する反発や、大航海時代によって世界の認識の仕方がガラリと変わる。科学革命が起きれば、時間とはなにかという命題はさまざまな科学的視座に晒され、特にニュートンによる絶対的時間のアイディアに注目があつまった。

歴史は、そうした時間的認識の違いを抜きにして語れない部分がある。歴史学の古典を読むとき、その当時の時間というものへの考え方、歴史というものへの考え方を知っているのと知らないのとでは、いかに著者の視点に立てるかということが重要になる読書という営みにおいて、理解に大きく差が出るはずだ。西欧人の古典のお勉強に、必ずプラスになる。

行動的禁欲と地獄の設定

何かを成し遂げる人というのは、ミスター社会学マックス・ヴェーバーが言う「行動的禁欲」を自然と身に着けている人であるように思う。

行動的禁欲というのは、目的のために、その他一切の欲求を忘れ、ひたすらに目的の達成の為に行動する態度のことである。マックス・ヴェーバーは、この行動的禁欲という概念を、資本主義発生のメカニズムの解説に使った。資本主義の発生に大きく貢献したのが、職業人の倫理であり、それは禁欲的なキリスト教の一派であるプロテスタントの教えが由来であった、と分析している。

死後、天国に行くか地獄に行くかというのは、もうすべて神様がお決めになっているのだという「予定説」を信じていた人々は、神から与えられた天職を全うし、神の恩寵を受けようとした。ここで、労働の対価である金を目的とはせず、労働そのものが目的化するようになった。人々は働くこと自体に喜びを感じ、入ってくるお金は天職を最大化させるために利用されたり、蓄えられたりする。無駄遣いをせず、身を粉にして働いた結果、資本がたまり、資本家が誕生するというのが、ざっくりとした資本主義の発達過程だ。だいぶ端折ったけど。間違えてたら教えて下さい。

ところで日本では、このような態度を禁欲とする認識が薄い気がする。

日本人の文化を形成する宗教って、なーんだ?というテーマで良く耳にするのは、「神道」と、「儒教が混ざった仏教」である。もっといっぱいあるんだろうけど、ぶっちゃけそんな知らんし責任持てないので端折る。で、仮にこの2つが日本の文化に影響を与えているとして、これらのものから想起される禁欲のイメージは、ウェーバーが言うような禁欲とは違う気がする。

禁欲とは苦痛の伴うものであり、禁欲を超えた先の境地を目指すための必要な過程であり、欲求を無理やり抑えるというイメージがなかろうか。もしかしたら偏見か。

ここで冒頭の主張に戻るけど、何かを成し遂げたいと思っている場合に必要なのは、上に書いたような日本的な禁欲ではなく、ウェーバーの言う行動的禁欲のほうが望ましいように感じる。

例えばダイエットを例に説明してみる。日本的禁欲の態度でダイエットを見るならば、「運動したくないという邪念、三日坊主という怠惰、卑しい食欲を抑えてこそ、理想体型という境地にたどり着く」という見え方になってくる。

対して行動的禁欲の態度でダイエットを見るならば、「理想体型になるために、湧き上がる食欲とか運動が面倒くさいとか、そういう気持ちは忘れた!!」となる。さらに言えば「運動していること自体が嬉しくなっちゃってさ!」と本心から言っているような状態になるだろう。

「目標達成するためには、過程自体を楽しむべし」というのは自己啓発本において使い古された常套句である。我々意識低い系は、そんなありふれた一般論に頭を下げるというのは納得がいかない。そういう反骨精神だけは、いっちょ前に持っていたいのだが、悔しいかな、我慢することが嫌で嫌で仕方がない我々に残された道は、もはやこれしか無い。「楽しむべし」というのも生ぬるい。ここは「さもなくば地獄に堕ちる」くらいの気持ちが必要かもしれない。

現代人にとって難しいのはここだ。昔の人は、そこそこ地獄だったりとか、救済されなかった場合のイメージが共有されていたかもしれない。しかし現代を生きる我々はどうだ。何を地獄とするか?ですら、個々人の判断に委ねられる。気が付かないうちに地獄化している可能性があるのだ。

山崎が行動的禁欲を発揮できるものといえば、読書とか映画とかくらいだ。言ってて悲しい。

目的はもちろん神の恩寵を受ける為である、なんてことは無い。「面白いものを通じて人と繋がる」という矮小なものだ。でも、この目的のためならば、体調不良であっても読書レビューないしは映画の感想文を書くために、読んだり観たりすることに躊躇しない自信はある。技量の問題で、しっかりとした文章や感想が出来上がるかは微妙だし、ブログの更新をしなくても、手頃なところで人と繋がれることが分かったせいで、こっちでの本気度が伝わらないというのは言い訳にしかならないが、しっかり書いておく。

もしも本や映画も見れなくなっても、「面白いものを通じて人と繋がる」ということができるものがあれば、そちらに行くだろう。小さいころはそれがテレビゲームだったりした。だが、そういうものがいよいよ無くなってしまうのであれば、たちまち世界は色味を失い、張り合いがなくなり、人との会話も交わさず、ただ興味もない仕事で稼ぎ、ありがたみのない対価を得て買った惣菜パンやジャンクフードを貪り、冷えた便器でウンコを垂れ流す毎日を送るのである。

これは僕にとって、甚だ地獄に等しいものだ。