点の記録

点と点が結ばれるのをじっと待つブログ。主に書籍について。サブで音楽やら映画やら。

趣味をプロレベルにまでしたいならどういう生活をすればいいか

 自分が趣味だと思っているものを、仮にプロレベルにまでスキルとして熟練させるにはどうすれば良いか、ということを考えてみる。

 まずこの記事を読むにあたって受け入れて頂きたい前提がある。
 それは「時間をかければかけるほど熟練する」ということだ。

 スキル習得において、効率の良いやり方とか、個人の性格、向き不向きなど、不確定要素を一切考慮せず、時間をかければかけるほど良いという前提で考えてみたい。もちろん、この前提にも反論はあるだろう。効率の良いスキル習得方法があれば、1日30分でも3年立てばプロ並みになれるかもしれない。だがそんなもんが誰にでも効くなら、もっと独立開業している人口が増えても良いはずだ。大事なのは量ではなく質であるという主張もあるだろうが、質を高めた上で時間をかければ更に上達するわけで、この意味では、なにか物事を熟練させるには、時間をかけない手は無いと考えている。

 ではまず、一つのことを仕事として熟練するにはどれほどの時間がいるだろうか。

 ジャーナリストのマルコム・グラッドウェルが書いた『天才!成功する人々の法則(原題:Outliers)』という著作がある。この本でグラッドウェルは、「かつて天才だと言われていた人々は、最低でも1万時間くらい練習とか仕事に費やしてたよ」というシンプルな主張を提示した。

 あまりにも身も蓋もない。さらに言えば残酷である。なぜならこの主張は言い換えれば「天才でも最低1万時間は必要である」と見ることもできる。我々凡人はどうすればいいのだろうか……と途方に暮れるしか無い。

 だから、チートを好む成功法則界隈では不人気な印象がある。それにしても、そりゃそうだよなと頷ける妥当な主張だ。こういう当たり前のことを言ってくれる本は最近の啓発本では見なくなったので貴重である。

天才!  成功する人々の法則

天才! 成功する人々の法則

 

 仕事にどれだけ人生を費やしているかという計算してみる。山崎の場合、拘束時間はさておき実労働時間でみてみると約9.5時間ほどだ。出勤日を1ヶ月20日とすると、約190時間仕事に費やしている。1年で2280時間。山崎は今の仕事についてから3年も経過していない。1万時間を一つの基準にするならば、5年目である程度熟練した人材になる予定である。向き不向きもあるだろうが、職場の凄く仕事できる人を見ていても、5年かそれ以上勤めている人が多い気がする。

 ちなみに、2280時間というのは1年の26%を仕事に時間を使っている計算になる。日本人の平均就業時間が9.1時間だから、だいたい日本人は30%くらい仕事に人生を使っていることになる。もし働きたくもない職場にいるのなら即刻やめたほうが良い理由はここにあるかもなと思った。1年の3割を辛いことで占めるのは自然な状態ではない。

 話がそれた。

 さて、趣味を仕事レベルにまで到達させるために必要な時間も1万時間ほどであると仮定したとして、どの程度の年数で達成可能か。

 毎日3時間、365日続けたとしても10年かかる。

 もし仕事と同じレベル、つまり5年ほどでプロ並みの腕前をこさえたいのであれば、仕事と同じ量(山崎の場合は9.5時間)をかけてやる必要がある。

 9.5時間既に仕事に取られているので、もし9.5時間別のことだけやろうとすると、睡眠を含めたその他の生活を5時間で処理しなければならない。身体を壊す。確実に壊す。

 では休日を勤務時間分ほど利用し、足りない分を平日に回すという考えはどうか。休日が10日あると仮定するなら95時間稼げる。1ヶ月の労働時間は約190時間だから、残りは190-95=95時間。これを20で割ると、4.75時間。

 つまり……もし山崎のように、1日9.5時間働き、10日もお休みが貰えるという条件で勤労されている方が、仕事時間と同じ時間だけ趣味を確保し、5年間で熟練しようとするならば、毎日同じことを、出勤日に4時間45分、休日に9時間30分続けると、約5年で1万時間に到達し、プロ級になれるかもしれない。

 

 きっつ!!!

 

 お手軽自己啓発に頼りたくなるわけだよな。

 ところで、あまり趣味に一生懸命になっていない人が多い気がする。ネットを見渡せばたくさんいる。それで中には「プロになりたいな~」と思ったり、それで終わってしまっている人もいる。創作活動なり、スポーツなり、ブログという公開オナニーなり、仕事をもらうためにやるわけでは無いけれど、どうせ趣味として始めたことがあるなら、人よりも上手になっておきたい気がするのは僕だけでしょうか。

 逆に言えば、10年頑張ってから、ようやく「自分には向いていなかった」と言えるのかもしれない。損切りをするにしても、2~3年は続けてみないことには分からない。「才能がない」と諦めるよりも、毎日3時間続けたいと思うものか?と自問すれば、才能なんぞに悩まされないで済む。なかなか上達しないのは、時間をかけてないからだ。

 努力不足は嘆いても仕方がない。

SNSの通知を全部オフにしたことでわかったこと

 ハウツー系の記事ってなんかちょっと恥ずかしいからあまり書かないようにしていたんだけど、実践して効果があったので、このテーマで書いておく。

 実はちょっと前に同じようなタイトルで記事をアップしたんだけど、なんか恥ずかしくなってやめた。しょーもない文章はこのブログに掃いて捨てるほど存在しているけれど、読み返した時にとても恥ずかしくなってしまった。

 ではなぜ同じような内容で、もう一度こんなエントリを書いているかと言うと、SNSの通知オフマジでおすすめだから一回やってみて欲しいということをどうしても伝えたかったから。

 通知をオフにしたことによって、

 1.趣味に費やす時間が増える

 2.通知に行動を支配されなくなる

 3.無理なくSNSから遠ざかることができる

 という一石三鳥を味わった。順を追って説明する。

1.趣味に費やす時間が増える

 SNS自体が趣味ですという人は読み飛ばして欲しい。そうではなくSNS以外にも趣味があるんだけれど、なぜか最近全然それを楽しめていないという人は読んでほしい。 

 山崎も、最近なんだか好きなことをする時間が無いなぁ~と漠然思っていたが、特に見直したりせずに2年くらい過ぎた。ただ、これではいか~ん!と思いなおし、自分の生活にどれだけ無駄な時間があるかを測ってみることにした。

 自分にとって無駄なもの、というより離れることができればいいなと思うもので最初に思い浮かばれたのはSNS。理想としては当ブログに新しい投稿をしたときの通知のみにしたいけれど、なかなか離れられない。じゃあ、どれだけSNSに時間を使ってしまっていたかというのを計算してみるところからはじめてみた。

 厳密に時間を測るなんて細かいことはできないからざっくりと計算してみることにした。山崎には1回SNSのチェックをはじめると15分くらい使ってしまうという体感があった。例えば職場の休憩中、基本的には本を読んでいるんだけど、電子音とバイブレーションによって中断される。中には仕事関係のメールなどもあるから一応確認すると、Twitterやらfacebookの通知だ。まあ休憩中だしいいか、と思って確認すると、基本的にはどうでもいいことなのでスルーし、そのまま他の人のつぶやきやらを確認して……なんてやっていると15分はあっという間だ。

 その他電車の中や、マジで危険だからやめるべきだけど歩行中などにもチェックしてしまっていた。というわけでこれもいい加減だけど、1日最低でも5回ほどはチェックする。そうすると、概算で15分×5回=75分を使っていることになる。ちなみに大手広告代理店の博報堂が2015年に1000人を対象としたアンケートの結果も、SNS利用時間は1日平均78分らしい。参考にしてみてほしい。

marketing-base.jp

 75分!それだけあったら簡単なビジネス書一冊を読み終えることができるし、ブログの記事のひとつふたつくらいはこさえることも可能だ。その時間を、さして重要な情報も無いSNSのチェックに使っているとは、なんだかひどく勿体無い気がしてきた。

 皆さんも自分が、どれくらいSNSに時間を使っているかを、自分なりの計算方法で算出してみて、その時間を他の趣味とかに充てられたら、と考えてみてほしい。

2.通知に行動を支配されなくなる

 SNSの入り口は通知である。自分からSNSを開こうという人もいるだろうけれど、大概は通知からSNSアプリを起動するはずだ。最近は、自分の発信した情報に対する反応の他に、フォローしているアカウントが、こういう発言に反応しました!という全然いらない情報までも通知してくるようになった。これが恐ろしい。SNSの滞留時間を増やし、広告をなるだけ目に留めてやろうという魂胆だ。その意味ではテレビと同じ手法って感じがしてなんか嫌だよね。

 で、山崎が行ったのは、通知の全OFF。自分へのメッセージに関するものも、一旦すべてOFFにした。よほど緊急性の高い連絡は電話でやってくるだろうから何も心配しなくて良いということを言い聞かせてOFFにした。実際困っていない。ネットでそんなに友達がいないからかもしれないけれど。

 文字情報のやり取りは、そこにビジネスが噛んでいない限りでは多少のラグが発生しても責められる言われはない。「SNSは見たい時に見る」という本来の態度を取り戻すべく、TwitterFacebookもすべて通知はオフ。すると殆どスマホを手にすることが無くなってしまった。

 外出先でも基本的に暇をつぶすときは本を読むし、誰かとでかけて場合はずーっと話をしているという感じなので、趣味や性格も関係しているだろうけど、通知OFFにしただけで、今は殆どSNSを見ていない生活を送れている。SNSと距離を置きたい人はえいや!と気合をいれながらやってみてほしい。失われた時間が戻ってくること間違いなし。

3.無理なくSNSから遠ざかることができる

 1番驚いたのは、あれだけ「やめなければ」と思っていたSNSを殆ど見なくなったことだ。どれだけ通知に自分の思考や行動が支配されていたのか。完全に山崎の経験則で科学的な根拠は一切無いけれど、体験知としては通知があるからSNSがやめられないと言っても過言ではない。

 自分がフォローするアーティストの活動だったり、支持する言論人の発言だったり、そうしたものが好きなら別にやめる必要を感じないかもしれないが、それは他の手段で入手可能である。

 例えばアーティストの活動に関する情報をいち早く確認したいなら、公式HPを毎日確認すればいい。1分ほどで新しいライブ情報があるかないかを確認できるし、最近はつぶやいた内容などをブログなどで公開している人もいるから、どちらも確認できる。フェイスブックページしか無いような人なら、ブラウザのブックマークに入れてブラウザから確認すればいい。支持する言論人についても、その人の書籍なり思想のバックボーンをネットで検索するなりすれば、ニュースにどんなコメントをしているかというのはある程度予測がつく。だから毎回毎回確認する必要は殆ど無い。

 ところで山崎の場合、稼げる時間は1日75分。読書量1冊増えるだけか……と思ったが、1ヶ月で30冊、1年間で365冊。恐ろしい。75分を無駄にするということは、チリも積もれば1年で365冊もの新しい読書体験との縁を切ることになる。皆さんの趣味ではどうだろう。ちょっと考えてみてほしい。通知からSNSに振り回されることが嫌なら、ぜひともアプリの通知を切っていただきたい。

体調崩し気味で赤字社員だと罪悪感が募るけど、社会は関係なく廻っていくので諦めてより良く社会で生きる方法を探すことにする

仕事を休むことが多い。理由は体調の不良である。

10代は胃腸の不調に苦しめられ、20代にさしかかっては扁桃炎に苦しめられている。

扁桃炎は手術をしなければ根本的な解決にはならない。しかも、手術と入院費には大体10~15万円かかって10~15日間は入院を余儀なくされ、なおかつ、術後も発熱を繰り返さないという保証は無いと言う。1~3ヶ月は喉の痛みと違和感との戦いである。客と対面してしゃべる職業に付いているので、なかなか決心がつかない。

普通のサラリーマンをしていると、体調不良によって自分以外のメンバーに迷惑をかけてしまう。少なくとも現状の仕事たと、どうしても迷惑をかける。僕はこういう体質なので、他人が体調不良で仕事を休むとなっても「仕方がない」と思える。しかし、僕が健康の権化のような人間で、風邪なんて10年に1度しかひきませんという羨ましい身体の持ち主だったなら、1ヶ月おきに体調を崩して、最悪仕事を休むようなヤツが居たとしたら、「さては仮病だな」と疑うだろう。

体調を崩し気味だと、社会からの信頼や信用を失いやすいのは、仕方がないと分かっていても切なくなるのは、僕がまだガキだからだろうか。1~2ヶ月おきに1~2日体調を崩すとしても信頼してくれるような仕事というのは、一般的な職業には殆ど存在しない。営利を目的としたすべての仕事には、価値を出して金をもらい、自社の事業を拡大して、儲けの最適化を図るという原理原則がある。体調を崩すヤツは、このルールからして、はっきりいってお荷物である。

資本主義が存在しない地域であっても、人間心理には返報性というものが存在する。お返しの心である。それによって人類は物質的にも情操的にも発展してきたが、体調が悪い人間は自由に動ける時間が他の人よりも少ないから、他人と比較したとき、この部分において負けてしまう。

チームで何かをやろうとする場合、担当が振り分けられるが、欠員がでると回らない状況があって、それでも体調を優先して休みをいれた場合、業態にもよるけれど、取り返すのに時間がかかる。その分働けば良いという意見もある。迷惑をかけた分、実績を伴って挽回すれば良い。

そうは言っても、僕が寝込むときというのは、人より大きい喉を腫らして、喉痛い~熱しんどい~と唸っているだけである。発熱で脳の回路が開かれて云々して、仕事ができる人格がいつの間にか形成されれば良いのにと、くだらない妄想をすることしかできないため、仕事で成果を巻き返すということ、では休み明けからやるのだと意気込んでも、どうにもならない部分は絶対にある。

つらいつらいと言っていても仕方がないので次の一手を考える。体調を今すぐに改善するのは難しいが、やれることはすべてやる必要がある。食事と運動に気を使い、22:30にはベッドに潜って23時には眠りにつくようにしてやる。扁桃腺炎防止によいとされることについて調べまくって実践する。僕は蓄膿症も持っているので、これの改善をすることも扁桃炎に大きくプラスの影響があるのではないかと睨んでいる。

やれることはやろう。この記事を読んでくださった皆様からの情報もお待ちしております。

あとは、万が一治らなかった場合についても想定しておく必要がある。

はっきり言って体調不良気味のヤツ=欠勤気味であり、僕が上司だったら出世させたくないし、もっと言うと辞めてほしいと思う。それはお互いの為である。生活保護でもなんでも申請して、無理なく生きていってほしいと思う。

だから、健康優良児前提の職場にそういう人が来てしまったのなら、クビにしてやったほうがお互いのためだ。発熱しているやつを無理やり出勤させて、ミスされたりするほうが会社にとっては損失だ。僕はただでさえ今の職場ではミスが多いため、これで38~39度の熱を出してミスをするとしたら、根拠はないが、どんなに大きなことになるか分からない。被害妄想甚だしいのは分かっているが、そういう風に考えたい時期なのかな。5月近いし。

いつクビを切られても良いように準備をしておくことを、体調管理とセットでやっていく必要がある。何が正しい世の中であるかわからなくなってしまっているので、安易に資格の勉強するとかすると、参考書代が無駄になる。

クビを切られてもいい用意ってのは、今取れる手段としては、その後の就活のための貯金くらいしか思いつかないので、ひとまず頑張って金を貯めます。

面白いレビューを書きたい

山崎は「面白いレビュー」を書きたい。

何故か。

我々オタク共が手っ取り早く自分の好きなことで社会に役立ちたいのなら、作品に金を出すか、作品を他者に語るかをすることに絞られてくるからだ。

オタクにとって、見た、あるいは観た、聞いたものを自分の中にしまい込んでおくのは勿体なさすぎる。インターネット上の口コミが未だに説得力を持つ時代である。ならば、クリエイターを食わせ、より良い作品を作ってもらうためにも、「魅力的な表現で作品を語り、語った人に実際に触れてもらう」という技能は必要だ。クリエイターや制作サイドに金が入り込めば、より良い作品が我々に供給される。オタクが自分の煩悩を満たし、かつ不特定多数の他人の役に立つには、この方法が手っ取り早いのである。

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則

 

ところで「レビュー」とは何か

レビューは英語でReviewと書く。英語2の山崎でも意味するところは字面で分かる。Re-再び view-見る である。見直し、とか、再検討とかの意味が含まれているものだ。

この世で最も全知に近い存在であるGoogle様に聞き及んだところ、「評論」を意味するのが一般的だ。しかし「評論」とはなんとも堅苦しいイメージが付随する。だから素人が何かについて語る時にはあまり使われない。

我々は中学から高校までの間に、現代国語の授業において、「評論文」に手ひどくやられているから、エントリーのタイトルで「スター・ウォーズ エピソード7 評論」とか書かれても、正直見る気がしない。読み手も読みたがらないし、書き手にしても評論なんて言葉は使いたがらない。書き手が学術関係者ではない場合、そんな大それたことを言うつもりも書いたつもりもないという精神的なブロックがかかる。そこで英語表現のレビューのほうが砕けた印象があるため、こちらが好まれて使われるようになったのではなかろうか、とこのサイトに書いてある。

[三省堂辞書サイト]10分でわかる「レビュー」

レビュー=評論として話を進める。

大辞林によると「評論」は

物事の善悪・価値などについて批評し,論じること。また,それを記した文。

となる。エッセイ、随筆と比べると、論理、ロジックを用いることに重きをおいた表現方法と言える。

書籍や映画、音楽について語るとき、エッセイであってはいけないと言うつもりはない。むしろ、小説や映画などのフィクションは、論理という世界観で語れない部分を伝えようとすることで、ググッと魅力的な文章になる場合もあるから、物によってはエッセイとして思ったことを書いた方が良いものもあるかもしれない。

では何故、山崎はエッセイではなくレビューを書きたいのかというと、それはエッセイを書くに耐えうる教養や修辞、人間的魅力や技量を持ち合わせていないからだ。

評論は論じるというルールがある。論じるというのは、根拠となるデータを、主張との裏付けをしつつ展開する文章形式だ。つまりルールを守っていれば、文章としての質は「筋が通っている」としてある程度保障されることになる。

書評で例えるなら、「この本は面白い」という主張をしたい場合、それが面白いという根拠となるデータ(本文からの引用など)を見つけ、なぜ主張を裏付けるデータと言えるかを記せば、言っていることに筋が通っている、妥当性があるとして、一定の評価ができる。

しかしエッセイとなると話が異なってくる。これは論理を使っても良いし、自分の心情や感情を文章に乗せることも、後ろめたさを感じずに堂々とやって良い。そのため、よほど文章の心得がなければ、しっちゃかめっちゃかな文体となって激ダサになる。これは文章の極意を掴んだ作家、あるいはその才能を持つ人がやるべきことであって、エッセイで人の役に立つというのは、山崎のような凡夫には到底不可能な境地だ。

ところで、しっちゃかめっちゃかな文章でも需要のある場合がある。

それが先程あげた、人間的魅力である!人間的魅力があれば、よほど日本語としての体裁が崩れていなければ、ある程度整合性の取れていない文章であったとしても、「○○さんらしい」ということでケリが付く。

あぁ!エッセイストへの道は潰えた!……目指してないけど。

結局のところ、どこぞの馬の骨が書いたエッセイなんぞは見向きもされない。山崎が歴史に残る名文を生み出せたとしても、現状、地下アイドルがプロモーションで使っているTwitterの電波キャラめいたつぶやきにすら勝てないのだ。

「もっと読みたい」と思わせる文章を書く

「もっと読みたい」と思わせる文章を書く

 

話を戻す。

ネットにある書評サイトでエッセイ的な文章と書評の違いを体感したいなら、松岡正剛氏の『千夜千冊』と、Dain氏の『わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』に掲載されている書評の数々を比べて頂ければ分かる。

松岡正剛氏はエッセイ的で、テーマとなる本に関する話が無尽蔵に飛び出してくる。まさしく散文的だし、ボリューミーだし、専門用語が出てきたら初学者以下の分際では太刀打ちできなかったりするのだけど、面白い。まるでさらわれるかのような心地がする。書評というよりも書をテーマに自身の主観を織り交ぜた作品を読まされている気分になる。こんなふうに、深い教養に裏打ちされた、遊びのある文章が書けるようになりたいものだと、もれなく書評家が憧れるひとつの型だ。

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松岡正剛の千夜千冊

 

対してDain氏は書籍の紹介に努め、どこがどのように面白かったのかということをファクトベースで書いているように感じる。Dain氏の書評の特徴は、相当な読書量から繰り出される要約力の妙である。一文字目から最後の文字まで読むと、本の概略を掴んでしまえるほどに分かりやすい。もちろんネタバレや核心には触れられないから、読みたくなる。Dain氏から圧倒的な焦らしを受けている心地がするのがたまらない。

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わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

この2つの書評サイトの「面白さ」は、全く別の面白さである。

取り上げられている本を読みたくなるのは、松岡正剛氏よりもDain氏の方だ。こりゃあよほど面白い本だったに違いないと猛烈に刺さる。読まねばならんと思うほどで、紹介されている本をもれなく図書館から借りたり買ったりしてしまっていた。

松岡正剛氏の方は間違いなく本について語っているんだけど、全然関係ない分野の話が飛び出してきたり、横断的な視野を獲得できる読み物のようなものに近い。だから、エッセイ的とはいったものの、読み通せば道筋をたどってひとつの視点を得ることができる。得られるのは松岡正剛氏の視点だ。

作品について語るときに、「触れてもらいたいから語る」のと、「自分の考えを伝えたいから語る」のとでは種類が違う。山崎が今後身につけていきたいのは前者の態度だ。自分が読んだ本、観た映画のどこが面白かったかを、筋道通して語りたい。ついつい山崎は「あの映画のあそこでね、登場人物がぶぁーっとなって、敵がボォーンつって、最後におばあさんがぐちゃぐちゃになります面白いです」みたいなことを言いがちだが、そういうのもうやめたい。

あと文章を凝ろうとして、日常使わないような言葉を使ったりするから、もう、ひやーー!痛いよぉー!と読み返した後に死にたくなる。ちょっと中二病をこじらせたのが山崎の持ち味であると開き直るのには、まだ時間がいる。

作品に対する情熱を、理性と論理を意識しながら、うまく文章に流し込むには鍛錬がいるだろうけれど、少しでも「お前のブログで取り上げてた本、映画、面白かったよ~」と声を書けてくれる人が増えればいいなと思います。

スパムと承認欲求

スパムコメントが多くなったので、コメントを承認制にさせていただきました。

僕の心に深く根をはるのは、承認欲求という怪物です。これを退けることは、並大抵の努力ではかないません。人生のどこかで、主に子ども時代、認められることに飢えていた時期がある人は、大人になってもこれと完全におさらばとはならないのです。

そこで、一度巣食ったこの感情を取り除くよりも、付き合ってやるかーくらいの心意気で接してやるのが、精神衛生上よろしいのではないかと考えたのが、大学5年生の頃でした。

気がつけば、過疎ブログを運営し、赴くままに駄文を量産する黒歴史オナニーに興じておりました。なんとも業が深いことをやらかしております。コメントや星がつくたびに嬉しいと思い、大げさですが人生にハリと潤いが出てきたような、そんな気がしていたのです。

しかし、承認されることを望む人にとって、インターネットというのは地獄であります。自分のアクションによって、人の手が通った反応が、どんどん欲しくなるのです。

スパムコメントに中身はありません。アンチですらない、どうでもよろしい内容の情報を機械的にばら撒きます。その都度「コメントがあります」という通知を出されるのは、なんとも面白くありません。承認欲求と上手に付き合っていこうという山崎のプランの中に、スパムコメントの存在は、全く入っていなかったのです。

ついこのあいだまで山崎は、はてなブログアプリのアイコンに通知のマークがピョコンと着くと、

「いやったああぁーーーー!はてなスター or コメントだぁーーーー!!」

と、今年26歳になることを忘れ、無邪気にも飛びあがって泣いて喜ぶようになってしまったのです。どこで道を踏み誤ってしまったのでしょうか。タイムマシンを作るえらい科学者になるのだと豪語していた、小学2年生の山崎が見たら泣くでしょう。とにかく、そのような地獄のような状態になっていたわけです。

なぜスパムコメントに腹が立ち、なぜこんなにも腹がたつのかと冷静になったその瞬間、ふと我に返ったのです。うまく付き合うどころか、最近は承認欲求に食われているという現状にふと気がつきました。人ならざる反応が来たことによって、人による反応にどれだけ飢えていたのかを知ることができました。

ありがとうスパムコメント。山崎は無事、妖怪「承認欲求足りないマン」にならずに済みそうよ。

ただ、見栄えが悪くなるのと、本物の人からのコメントを頂いた時に、それらが埋もれてしまうこともありましょうから、コメントは承認制とさせていただきます。スパムのほとぼりが冷めたら、またコメントの承認制は取り去ります。

黒歴史を作り出すことを自制しろという声が聞こえて来そうですが、それは!それだけは!できない相談です。