点の記録

点だけ打って線を引けない男が、点と点を結ぼうとするブログです。

書けないなら仕方がない

ブログの編集画面を開いて、見出しを書いて、本文を書く。本文を書いている最中に、ぷっつんと電源OFF状態になり、編集中のタブの☓印を押す。これを繰り返して、もうすぐ1ヶ月が経とうとしている。モチベーションが死んでる。

以前同じような事を書いた気がする。多分この先も同じようなことを書く。こんな下らんことを書くなら、もうブログやめちゃえば?という意見する人もいるかもしれない。有り難い。確かにそのとおりだ。でもなんだか勿体無い気がして、このブログのデータを丸々削除することは、たとえ、客観的にみて、社会的価値のない文章の肥溜めであったとしても、ひどく惜しい。

更新頻度を高めようと色々やってみた。ロバート・チャルディーニの影響力の武器では、皆に公言することによって、目標は達成されやすいということが書いてあったので、「今度はこうします」系の、本人以外にとってはどうでもいい内容の記事を垂れ流したりした。しかしこの方法は、「自分には一貫性がある。一度公言したことは絶対に守るぞ!」と思っている人に限定されるのではないか。

残念ながら僕にはプライドが無いので、「失敗しちゃいました。てへぺろ」と堂々と言えてしまう。ダイエットにしろ節約にしろ、そうなのだ。他人が自分の失敗をみて、嘲笑、あるいは失望の眼差しを向けてくることに対して鈍感であるがために、この方法は使えない。

そもそもなぜ文章を書く気力がなくなったのか。これも別の記事で書いた気がするけれど、必要がなくなったからだ。文章鍛錬と読書仲間を増やすためにブログを始めたことは以前にも書いた。前者は、もはや文章を書くという能力を求められる環境では無くなったが為にする必要がなくなり、後者は、もうこれ以上読書仲間増やさなくてもいいやと思いはじめた事によって必要性が無くなった。

では新しい目標なり、必要性を見つけようぜ!という風に考えるのが普通だろうが、困ったことがある。そもそも、目標や必要性を見つけないと、ブログなんてやれないという状態であったということだ。

趣味というのは、他人からとやかく言われようとも、自然に、やりたい時にやっているものだ。山崎のブログはどうだ。自然にやっているか?書きたいと思った時に書いているか?答えは半分是であり、半分否だ。普段は書かないとな、と思っているが、例えば今、この文章は、「こういうことについて書きたいぞ」という心持ちで書いているからだ。

ということは、書かなくてはならないという義務感が働いているときは書けない。無理して書いた文章はどこか慌ただしい。誤字脱字……はいつものことだったわ。ごめん。いやでも、多分無理やりこさえた文章の方が絶対に多い。作業中は無理やり結論先にひねり出したりして、結局何が言いたいのか分からないというものもかなりある。

では、それと比較して、今こうやって書いている文章はどうなんだ?クオリティ高いのかどうかは知らないけれど、少なくとも文章を書いている時に「苦しい」とか「早く終わらせなきゃ」とかそういうことは考えていない。無理しているときに感じる動悸だったり、変なところから汗をかいたりすることは無い。脇は汗かくけど。

書けないならもう仕方ないと思ったほうがいいな。

諦めよう。仕方がない。書きたくないもの。

計画的な更新というものは、計画通りに実行すること自体が好きな人間でなければできない。僕がよくやってしまうのは、自分の力量を過信して、無茶なスケジュールでブログの更新やら趣味の予定やらを乱立させ、物の見事にガーターを決めて落ち込むというものだ。

そうではなくて、書きたいなと思ったらピンを立て、至近距離で玉を転がすくらいの気持ちで向き合ったらいいなと思えるようになった。

いくらなんでも行き当たりばったり過ぎやしないか?と思うところもあるけど、趣味なんて計画立ててやるもんじゃない。計画立てるくらいなら、今すぐにやっちまったほうが早い。タイムラグによって、過去の自分が設けた宿題をせっせとやるのでは、夏休み終了間際、すべての宿題を残していた小学5年生の時に感じた「もうダメかも」という焦りを、毎日感じることになる。それは精神衛生上、非常によろしくない。

この記事が最後かもしれないし、まだまだウンコを生み続けるかもしれない。それじゃあまたいつか、とも言わないようにして、出勤の時間が来たのでここで終わり。

冷気の壁

今週のお題「晴れたらやりたいこと」

 

僕はとにかく暑がりで汗っかきだ。どれくらい汗かきかと言えば、酢が入っているものなどを食べると脇汗や顔汗がひどくなるときがある。これは味覚性発汗と呼ばれる生理現象で、特に異常なことではない。しかし、ちょっとした運動、気温の上昇、精神的な不安によって、ドバドバ汗をかく。見た人が引くどころか、心配になるレベルで汗をかく。

そんな僕は、もちろんのこと夏という時期が大嫌いだ。毎年夏になると憂鬱を通り越して希死念慮さえ出てくる。うそ。むしろ夏の方がどっか行けと言い出してしまいそうになる。一年中湿度40%、20~22℃であればいいのにと心の底から願っている。はてなブログのお題は「晴れたらやりたいこと」だけれど、この時期に晴れた場合は家に引きこもって読書かゲームか映画を観るのいずれかだ。

しかし、山崎は夏にまったく魅力を感じない哀れな男と思われるのもなんだか寂しいので、夏嫌いな僕の、夏最大の楽しみをここに公表する。しかもしっかり、晴れた日でないとできないことだ。

それは「冷気の壁」を感じることだ。

冷気の壁とは何か?

ムワリと暑く、人を殺しかねない日差しで自分の身体が蒸発してしまいそうな、午後1時の東京の猛暑日を想像して頂きたい。少し休もうとあたりを見渡すとスターバックスが目に入る。おそらく冷房が効いている。すでに殺人直射日光から逃げおおせた人で賑わっているが、関係ない。一刻の猶予もない。立て掛け式の黒板に、手書きでうまそうなフラペチーノのイラストが書かれていて、そういえば喉もカラカラだったと気が付く。

フラフラと自動ドアの前まで歩く。自動ドアが開く。重いガラスのドアが滑るレールの上をまたいだ瞬間、まとわりついていた湿気と熱気が一気に剥がれ落ち、代わりにひんやりとした空気が全身を包む。まるで自動ドアのレーンにそって冷気の壁があり、それを暑くなった身体で突き抜けるような感覚だ。

これが僕が夏の時期にとても大切にしていることだ。

冷気の壁は喫茶店の場合ハズレが多い。オープンテラスの席などがある店は冷房のインダストリアルな涼しさではなく、自然に吹く風を店内に取り入れるなど、シャレオツなことをする。シャレオツだが、涼しくない可能性が高い。それではだめだ。

一番冷気の壁を感じやすいのは、地域密着型のスーパーだ。

地球温暖化なんて我々の辞書にはありません。魚が腐ったらどうするんだ!」

という具合に、風邪を引きそうなレベルでガンガン冷房を効かせる。これがいい。この取って付けたような容赦のない涼しさの押し売りが、僕にはちょうどいい。

「ん゛あ゛~゛~゛~゛ずずじい゛~゛~゛~゛」と呻くように声を出してしまうが、びっくりしないでほしい。

これが僕の夏の楽しみ方なのだ。

 

クソ読書・リターンズ

クソ読書再考

クソ読書とは、読書を大真面目に取り組んでいる人からすれば、クソみたいな態度で読書をする態度のことを言う。僕が作った造語だ。クソ読書については、昔書いた記事で粗方書いてあるので一読してくれたら嬉しいけど、そんな暇な人はいないと思うので、リンクだけ貼っておいて、こちらの記事でも説明しておく。

achelou.hatenablog.com

 僕がクソ読書とみなしているのは、以下の3つだった。

  1.  寝るための読書(寝落ちクソ読書)
  2.  本を選別するための読書(役立つクソ読書)
  3.  トイレでする読書(正真正銘クソ読書)

しかし、山崎はこれ以外真面目に読んでいるのかと言えば、全然そんなこと無い。読書に「真面目」に取り組めば取り組むほど、どツボにハマってしまうからだ。せっかく趣味で楽しく読書しているのに、本末転倒。趣味にさえ今まで言われてきた「真面目さ」を取り入れて何になる。クソづまりを起こしてしまいかねない。

クソ読書以外の読書

山崎は本を読む時、どれくらい真面目ではないか?

  1.  わからないところは基本的に飛ばす
  2.  知らない単語も飛ばす
  3.  わからない所は気が向いたら調べる
  4.  つまらなかったら途中で読むのをやめる→寝落ちクソ読書に使う

こんな読み方で知識なんて身につくはずがない、と思われるかもしれないが、そもそも知識を身につけるためだけに本を読んでいるわけではない。

読書は、人の話を「ふんふん、なるほど、へぇ!そうなんだ!」と聞くことに似ている。自分の未知の情報を知ったり、最近自分が考えたことを、ギリシア時代の哲人がすでに考えていたことを知ったりして、常日頃「なんて俺は馬鹿だったんだ」と感じることに、ある種の悦びを感じることが好きだからやっている。

読書は「こんなことも知らないんすか」と言われることが楽しくて仕方がない変態におあつらえ向きな行為だ。博士くらいになれば、逆に「うんうん、そうだね。間違ってるけどね」とか余裕が出てくるものだけど、その過程にある人は基本的にドMでなければ、小説は別として、ノンフィクションなんて読む気がしない。

「真面目に」知識を身に着けたい人へ

ところで、やっぱり、それでは知識が身につかないんじゃないかなと言われることがある。確かに、上のようなクソみたいな読み方では、一冊の本を一回読んだ時、血肉になる情報は少ない。だから、一言一句正確に、わからないところは読み飛ばさず、行間を意識し、著者と対話し、知り得た知識をアウトプットして……と色々な生真面目テクニックが思い浮かばれる。が、ちょっと考えてみてほしい。

正確な情報をわざわざ持っておく必要がどこにある。アメリカの人口の正確な数値を知りたかったらGoogleで検索すれば一発になってしまった時代だ。覚えていればクイズ王になれたり、「すごーい!物知り~~!」とモテたりする可能性はあるかもしれないが、それだけだ。確かに読書はそうした「データ」を収集することもできるが、だったら内閣府が出している○○白書を調べたほうが手っ取り早い。

読書をしたとき、覚えておくと今後の読書が楽しくなるのは、「結論と思考過程」だと思う。

些末な情報は後から調べればいいじゃん。読み返せばいいじゃん。著者が言いたいこと(クレーム)はこれ。根拠(データ)や、なぜその根拠が言いたいことと結びつくのか(ワラント)をざっくり理解するだけで、全然違う。データのほうを覚えたかったら覚えればいいけど、特にこの中で大事なものってクレームとワラントじゃないかなと思う。根拠がクレームとなぜ結びつくのか?というところがボロボロだったら、データを覚える必要は無いからね。

一旦「クソ読書」してみよう

お気づきの人もいるかもしれないが、山崎は平素の読書からクソだ。知識なんて身につかなくてもいい、とにかく本から情報を得ることが好きなだけなんです。今までは3つだったが、4つ目の項目として、「山崎みたいに読書する」を追加しよう。

僕が読書にハマる理由は、SNSにハマる人、まとめサイト泣ける2ちゃんねるを見る人、ニュースサイトで恋愛コラムばっかり読んじゃう人とかと同じような心理状態だ。情報を得るメディアが違うだけで、高いハードルも貴賎も何もない。

結局、こういうのは好奇心の赴くままにやっていくのが一番だと思う。好奇心に素直になったほうがいい。そうでなく、課題や義務感から獲得した情報とは、なかなか覚えにくいし忘れる。受験勉強の時に記憶した武将の名前を5年10年先も覚えている人は凄い。よっぽど好きだったんじゃないかと思う。

とにかく、肩の力を抜いて、読書なんて大した事ないと思って、リラックスした状態で本を読む。それだとありきたりだから、「クソ読書」と名付けた。

読書をするからには、頭良くなくちゃいけないとか、余計なハードルを作らないでほしい。読書をしていても、僕みたいにパッパラパーなやつがいて、ブログで変な書評を書いて、自分の読書論なんぞを大げさに論じちゃって、人生楽しんでいる人がいるから。

好奇心はあるけれど、読書を真面目で退屈な作業だと思っている人は、クソ読書的な態度で本を読んでみてほしい。できれば、僕が掲げた基準なんかクソだから無視して、あなたなりの不まじめな態度で本を読んでみてほしい。持ち前の好奇心に対して、読書という習慣は鬼に金棒だ。きっと本を読むのが楽しくなる。

 

クソ読書参考図書

どんな本でも大量に読める「速読」の本 (だいわ文庫)

どんな本でも大量に読める「速読」の本 (だいわ文庫)

 
読書力 (岩波新書)

読書力 (岩波新書)

 
乱読のセレンディピティ

乱読のセレンディピティ

 

 

『インターネット』──ネットのことを学ぶのなら読んでおきたい基本書

 

インターネット (岩波新書)

インターネット (岩波新書)

 

本書は、日本のインターネットの父、計算機科学者の村井純さんによるインターネット解説本だ。我々が何気なく、当たり前のように使っているインターネットの仕組みについて、第一人者の視点から解説されている。随分前からこの本のことを知っていたのだけど、最近ようやく入手したので読んだ。たしか、プログラマー小飼弾さんも自著『空気を読むな、本を読め。』というビジネス書の中でオススメしていたのがキッカケだった気がする。

「インターネットなんてチンプンカンプンです」という人であったとしても理解できる内容だ。本書が発売されたのが1995年。22年前なので、ちょうどインターネットという存在が知れ渡りはじめた頃だ。当時の最先端技術についての解説本なので、非常に慎重に、重要な箇所をしっかりと分かりやすく説明してくれている印象がある。

当時、パソコンで何か通信をする方法といえば、その名の通り「パソコン通信」だった。インターネットはこのパソコン通信の仕組みが大規模化したものであるという風に捉えられていることが多い。しかし、根本的な仕組みからして違うということを、「ここが違うのだ」としっかりと解説してくれている。

 そしてパソコン通信でできることは、その中心のコンピュータ(ホスト・コンピュータ)によってきまります。たとえば、もしパソコン通信の世界のなかで何か新しいことが起ころうとした場合には、ホスト・コンピュータのなかで起こっていること──言い換えればホスト・コンピュータが提供するサービス──が変わらなければいけません。(中略)

 一方、インターネットでは、コミュニケーションの当事者──一つひとつのコンピュータ──が勝手に始めたことが、そのままインターネット上での活動になります。つまり、地球上の二つのコンピュータさえ合意すれば、すぐその場で自由に全く新しいことが始まる可能性があるのです。

事実、インターネットが普及したことによって、それはもう数え切れないほどのクリエイティブなありとあらゆるもの──工業製品から芸術作品に至るまで──が誕生した。時間、空間の制約を取っ払い、誰でも気軽に不特定多数の人間に、情報配信ができるようになった。近年では動画のストリーミングサービスによって、リアルタイムに臨場感あふれる映像を、素人が見せることができるようになった。このインパクトは計り知れない。

メディアとしてのインターネットの展望が書かれている第3章はロマンに溢れている。

  このように、インターネットがメディアとして使われることで、今までのメディアでは難しかった人間の新しい関係──というより、本質的だったのだけれど、メディアが果たせずにいた関係──を提供していくことができると思います。結局たいせつなことは、まず人間の本来の関係というものは何であるかを考えて、それにふさわしいメディアを選び、それぞれの開発や利用を進めていかなければいけないということなのです。

人間のコミュニケーションの本質を考えるという趣旨の言葉は、この本で繰り返されている。インターネットがその役割を買って出るのだ、という野望とも捉えられるような内容も散見されて、読んでいて楽しい。

読後の感想だが、仕組みの理解に役立つだけでなく、ネット倫理についても考えさせられる本でもあるな、と感じる。インターネットにおける人間のコミュニケーションの実情については、今まで既存のメディアが削り落としていた、人間のコミュニケーションの汚い部分がダイレクトに見えるようになったことで、新しい問題が出てきてしまっている。それについては本書の第5章でも触れている。「ネットけんか」「ネットいじめ」という新しい人間関係のトラブルが発生してきていると書いてある。

残念ながら、現代はネットいじめから自殺者がでてくる世の中になってしまった。では、インターネットというインフラができあがったからそのような悲劇が生まれたのかといえば、そうではない。今まで、本来の意味で「人と関わる」ことについて、我々が考えられて無かったのではないだろうか。

汚い部分を隠して抱えて生きていた人が、ネットによってそれをぶちまける。それを目の当たりにした我々は、インターネットを悪者のように捉えがちだが、よく考えてみたら、その人が何故そのような状態になってしまったのだろうか、という視点から、ネットが悪いと断定するのは早計だと気がつく。

インターネットの登場によって、インターネットを利用していない間のコミュニケーションの歪みをあぶり出すことができるようになったと考えたい。気がついてみると、我々はネット登場以前よりも、「人間の本来の関係というものは何であるか」を考えて生きている。以前よりも疲れるかもしれないが、それが人間なのだ。こんなにもネガティブな感情を抱えているのだとびっくりしているだけ。

後数年もすれば、ネット上での振る舞いが加味された「人間らしさ」が一般知として形成されて、ますます本来の人間関係のあり方への考察が捗るようになるかもしれない。

嫉妬とタラレバ

する必要のない嫉妬をずっとしている。

絵が上手い人に嫉妬している。

TwitterFacebookなどで回ってくるイラストの中には、上手すぎて、本当にこいつが描いたのか?という失礼な感情が出てきてしまうくらいの作品を描く人がいる。特に、今まであなた、絵を描いてるなんて一言も言ってないじゃん!みたいな人が、急に力作をアップロードなどすれば、私の嫉妬心は静かに噴火する。

山崎は特に絵描きを目指している訳ではないし、趣味で絵を描いている訳でもない。はじめようかなーとか思っていても、別のことを優先してしまう。自分の美術センスには、ある程度の諦念を持っているつもりだが、しかし絵が上手な人には嫉妬してしまう。これは何故か。なまじ小学校から高校生まで、片手間に落書き程度の絵なら描いていたからか。

学生時代、努力と呼べない努力をし、当たり前のようにモテないまま時が過ぎ、モテたいという青春のルサンチマンを抱えたまま成人を迎えてしまった人は、おそらくモテたいと今でも思っている。そしてモテてる人に嫉妬する。本当にモテる人、あるいはモテる為に究極の努力をした人などは、モテたいなんて思わない。彼らはモテたければ、モテる為に行動する。

それと同じように、絵が上手い人、あるいは絵が上手くなる人というのは、自分より絵が上手い人が現れた時、何くそと嫉妬してしまったとしても、それをバネにして行動する。「刺激を受ける」と言葉を変えてもいい。

オギャーとこの世に産まれ、いきなり絵が上手かった人などこの世に存在しない。どんな理由であれ、描いたもん勝ちだ。絵が上手い人は口を揃えて「黙って描け」という。例え嫉妬心が原動力になるのであったとしても、描けば上手くなる。売れるか売れないかはさておいても、一角の絵描きにはなれる。

こういうバネになる嫉妬は必要な嫉妬心だが、山崎が感じているような、「いいなと思っているけど行動が伴わない」というのは何か。

単なるタラレバだ。

タラレバはこんな風に、ブログの素材として成仏させてやったり、エンターテイメントの材料にしかならない。共感を誘うコミュニケーションツールとして扱えるなら相当な「タラレバ使い」だが、ただ単に振り回されているのでは可哀想な人になるだけだ。

俺もあんなにうまく絵が描けたら……

俺もあんなに綺麗な絵が描ければ……

タラレバどまりの人はこの先の想像力に乏しい。絵がうまく描けたら人生楽しくなると思い込んでいる。

金持ちになったら人生うまくいくと思い込んでいる意識高い系と同じ仕組みだ。今自分にとってそれが重要なことであるなら、やっているはずだ。金持ちになったらあんなことやこんなことしたい。でも行動に移してない。なんで自分はできないんだろう。それは、そこまで金持ちになりたく無いからだ。金持ちになったらあんなことやこんなことができるけど、金持ちになる努力と天秤にかけたとき、金持ちになって得られる恩恵よりも、努力しないで今目の前の生活が少しでも良くなる方法を取る。

モテたいと思ってモテない人、痩せたいと思って痩せられない人、頭よくなりたいと思っても勉強しない人、結婚したいと思っても結婚できない人……絵がうまくなりたいと思っても、うまくならない人と、もう全部同じ。

そんなにモテたいと思ってない。苦しい思いをしてまで痩せたく無い。机に向かってまで頭よくなりたいと思わない。結婚のデメリットが気になる。絵が上手に描けるようになって、何か変わるのか。こんな状態では、嫉妬するだけ無駄だ。疲れるだけだ。

タラレバをしてしまうことは、全部、自分にとってやらなくていいことだと気がつくのが遅かった。それが行動に移す気力が無いのであれば、なおさら。なら、自分が好きなことしてた方がよっぽど楽だ。多分、努力を惜しまず行動しているのは、よっぽど好きだからやっているのであって、好きでも無いことにいちいち嫉妬なんて、馬鹿馬鹿しいなと思ったという話。

でも、でもでも!

あーー、俺もあんな絵が描けたらなぁ。