点の記録

点と点が結ばれるのをじっと待つブログ。主に書籍について。サブで音楽やら映画やら。

すごい今更だけど新書レーベルの擬人化とかどうですかね

興味関心を得るための戦略と手段として有力なものが「擬人化」である。

擬人化とは、「人ならざるものに、人の特徴を与える比喩の技法」のことだが、若者世代に「擬人化」という言葉を使うと、比喩表現というよりかは、「人ではないものを、アニメや漫画の表現方法に寄せてキャラクター化すること」という意味合いに捉えられることが多いように思う。今回はこの後者の意味合いで擬人化という言葉を使いたい。

山崎がはじめて「擬人化すごい」と思ったのは『Axis powers ヘタリア』だ。主人公は擬人化されたイタリア。その他登場人物も、端正な顔立ちの男性キャラになった国々(ロシア、日本などなど)である。世界史、とくに近代史の史実を、BL的ニュアンスをスパイスにしながら、ユーモラスに描いたWeb漫画だが、商業漫画として販売されてから人気に火がつき、あれよと言う間にメディアミックスの嵐。作者の日丸屋秀和氏は、歴史というものに興味が無かった人々、おもに女性に、世界史への入り口を与え給うた。

第二次山崎的擬人化ショックは『艦隊これくしょん-艦これ-』だ。記憶に新しい、戦艦を擬人化したブラウザゲームである。長門、扶桑、大和、金剛などの戦艦が、美少女キャラクター化したものである。ちなみに、1918年のシベリア出兵や、昭和天皇(当時皇太子)の欧州訪問供奉に参加した戦艦鹿島はこんなの。

戦艦に興味のなかったナンパなオタクたちを、それまでも繰り返し行われてきた「萌え擬人化」で釣り上げた。ついでに、オタクたちをリアル戦艦、日本の戦争の歴史へ興味を向かせたDMMは、「歴史系の擬人化いけるっしょ!」と思ったか、続く『刀剣乱舞』で刀を眉目秀麗の付喪神へと変化させ、単なる腐女子腐女子かつ歴女に仕上げた。ちなみに、織田信長が敵対した茶坊主を斬殺したことから名付けられたへし切長谷部という刀の擬人化がこちら。人気キャラらしい。

刀剣乱舞-ONLINE- へし切長谷部 1/8スケール ABS&PVC製 塗装済み完成品フィギュア
 

この目論見は大成功し、『艦これ』と『刀剣乱舞』のメディアミックス成功に続けと、擬人化コンテンツは飽和状態にある。NAVER まとめの記事にはなるが、擬人化コンテンツをある程度纏めてくれている。恐ろしい量がある。中には失敗しちゃったやつも多い。世の中は厳しい。

matome.naver.jp

擬人化にはそれまで見向きもしなかったものへの興味関心を惹かせるだけの力がある。キャラクターが魅力であればあるほど、そのキャラクターのバックボーンを調べようとする。その特性を生かして読書人口を増やすことはできまいか。

で、思いついたのが、新書のレーベルを擬人化してしまうという地雷案である。

読書人口が増えてほしいのは、読書好き共通の願いである。出版業界はすでに斜陽産業と言われてしまっているが、このまま潰れていってほしくない。質の悪い電子書籍が溢れかえれば、電子書籍すら見向きもされなくなってしまいかねない。個人的には本は紙で読みたいので、これからも出版社には頑張っていただきたい。

擬人化したキャラクターについてだが、男性でも女性でもどちらでも良いと思う。もしくは男性と女性のペアで一つのレーベルを担当するなどであれば、面倒くさい人たちからうるさく言われなそうだ。で、擬人化したそいつらが、ビブリオバトルを繰り広げ、自分たちのレーベルを盛り上げるという名目で頑張ってるとか、そういう設定めいたものを用意する。

ビブリオバトル 本を知り人を知る書評ゲーム (文春新書)

ビブリオバトル 本を知り人を知る書評ゲーム (文春新書)

 

ビブリオバトルとは、複数の参加者が、5分間で本のプレゼンを行い、その後2~3分の質疑応答を行って、「どの本が一番読みたくなったのか」ということを競うゲームである。このルールに則って、出版社が自分の出版社から出た本を、テーマにそってビブリオバトルしてもらう。それを纏めて文字化して、擬人化したキャラの声優に読んでもらうものを公開する。あとはリスナーが、「どの本を一番読みたくなったか?」ということを投票する。

書いていて、「くそ手間かかるな」と思った。でも、おもしろそうじゃないですかね。

新書レーベル擬人化の大きな障壁が、それぞれのキャラクター設定がとても難しそうということだ。言ってみれば、レーベルひとつひとうが思想の集合体であり、ひとつの新書レーベルを取っても、出版された本の一つ一つを参考にしては、人格が破綻する。参考資料は、出版社が歩んできた歴史や、レーベル単位のキャッチコピー(ブルーバック新書の「科学をあなたのポケットに」など)、どのようなテーマの書籍を取り上げているか?という抽象的なデータから作り上げなければならない。

あとは、お硬い方々が「流行りのものに迎合することを良しとするか」ということぐらいしか、スカスカ頭の私には分からないけれど、絵が上手な人は試しに、「岩波新書」「中公新書」「講談社現代新書」の3レーベルのどれかでもいいので、描いてくれないかな。山崎が描け?絵心がないもので厳しい、、、

www.iwanami.co.

gendai.ismedia.jp

新書|中央公論新社

価値ある自己満足

自分の好きなものであるほど、より正しい、確からしい情報にすがりたくなるときがある。向上心の現れか、はたまた、修行をパスする魔法のマントラが存在するという幻想か。どちらにせよ、力なき者に多い傾向として、方法論に注目しがちになってしまうというものがある。努力に裏切られ、愚直でいることに疲れたというのは稀で、多くはしっかりと向き合いきれずに挫折し、実の所はその挫折の原因となった壁の迂回路は無いものかと右往左往しているだけであることが多い。

山崎は今、それにちかい状態にある。

最近、書きたいことはあれど、書いた後の文章を公開する気になれない。一応、本名でブログという公開オナニーをしでかしているので、書く内容とかには気をつけなければならないから、出来上がった文章が妙ちくりんの場合はボツを食らわせる。最近できあがる文章は、うだつの上がらない僕の人生と同じように冴えていない。山崎の文章は面白い、冴えていると他人から評価されたこともあったが、平素ではそんな嬉しい記憶も失せてしまっている。

オナニーの仕方を間違えれば勃起不全などになるのと同じで、ブログにおいても正しき方法があるのではないかと模索する。最近、自分の中から文章を書くこと自体で生まれる喜びや楽しみが失われている気がする。

解決策のひとつとして思いついたのは、ツールやシステムの変更ではなく、やはり書き手本人の精神的な側面の改善である。オナニーとは己のやる気一つである。臆することなく自己満足を貫き通し、恥も見聞も捨ててとことんやる。それが結果的に、いつのまにやら人の為になるような内容であることを目指す……つまり「価値ある自己満足」を提供することを目指すようにする。

それは自己満足とは言わないのではないか?というツッコミが飛んでくるほどこのブログは人来ないので、あえてセルフツッコミするけれど、自己満足という側面はそのままで良いと思った。それはブログをそのように使いたいという一つの煩悩を満たすため、無くしてはならない、というよりなくしたくない部分だ。だがもし、この自己満足が誰かにとって有益であるならば、それにこしたことはない。

自己満足とは、自分の行いを、自分一人の価値基準や評価軸に合わせて評価するという、わざわざ視野狭窄状態を作り上げる行為である。すべてを自己満足で切り開ける人はいない。他人の役に立つことは、人間社会を生き抜くための必要十分条件ではないか。すると、やはりこのブログというオナニーも、しっかりと人に見せることができるレベルにまで到達する意義というのは十二分にある。ブログで価値出して金取ろうという訳ではない。毛頭ないが、何かしらの精神的な起爆剤的なものは、何を始めるにしても入り用となる。勝手にそう思っている。勝手にそう思うことが、まずもって第1歩であると思わなければやってられない。根拠は無い。

自分の煩悩を満たし、かつ人の役に立てることを目標に据えることが重要だ、というのは多くの自己啓発本にある根拠のない胡散臭い人生訓だが、山崎はこれには殆ど同意する。それができなければ、人間はモチベーションを失い、代わりにマスターベーションを繰り返し、社会的テクノブレイクを起こしてしまいかねない。

自分の煩悩と、読み手の煩悩を満たせるようなものを、早くこさえられるようになりたいもんだ。

『灼熱の魂』

 

 

灼熱の魂 Blu-ray

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僕は映画の内容を、1回で覚えるのが非常に苦手だ。何回か鑑賞しないとしっかりとした内容を覚えられないのがコンプレックスで、最近ほとんど映画のことについて書いていなかった。

映画マスターの友人であるアリクイ君からオススメされた方法がある。「観たすぐ後に、その映画について想いを巡らす」というものだ。「何か能力を身につけるには、身もふたもない、当たり前でシンプルな方法が一番効く」といことを、最近常々思うようになっていたので、せっかくなのでブログという装置を使って実践してみる。

と、言いつつ、今回取り上げたい『灼熱の魂』だけど、僕はこの映画を2回観ている。

1回目は先ほどのアリクイ君にオススメされたから、ツタヤで借りて観た。2回目はつい先日、アリクイ君の家で酔っ払いながら映画の話について盛り上がっていて、「そういや『灼熱の魂』について話してないじゃーん」と話を振られ、「ああそういえば!」と思ったはいいものの、実は最後のオチ以外、あまり覚えていなくて、でもそれを悟られたくなくて(バレてるだろうけど)重い映画であったという印象から、「あんま好きくない」というクソ薄っぺらい感想しか述べられなかったのに罪悪感を感じたので、急いで観た。

よくもまあ、この内容を忘れられたもんだと自分の脳みその性能を疑いたい。集中して観たせいか、鑑賞後、ほとんど何もできなくて、寝た。「鑑賞後に作品について想いを巡らせるのがいいと思うよ」というアリクイ君のアドバイスはどこかに行ってしまった。言いつけも守らずに寝てしまった。

あらすじをAmazon掲載のキネマ旬報社データベースより引用する。

母の深い愛が心を揺さぶるヒューマンミステリー。双子の姉弟・ジャンヌとシモンの母親が、謎めいた2通の手紙を遺して他界。その手紙は存在すら知らされていない姉弟の父親と兄に宛てられたものだった。姉弟は母の数奇な人生をたどり始めるが…。

特定の映画について話す空間に、その映画の未鑑賞者がいたとして、まあいいや、ネタバレをしてしまえと思えてしまう作品と、観てない人がいるなら絶対にネタバレしたくない作品とあると思う。この作品については後者だ。だから多くは語れない。スカスカの感想になることをお許し頂きたい。

この映画の好きな点は、多くを語らない点。そして、しっかりとこちらに想像する時間をくれる程よいテンポだ。

例えば、序盤、ある登場人物が「お前は過ちを犯した!」と糾弾されてしまうシーンがある。けれど、具体的にどんな過ちなのかという詳細はセリフに出てこない。「多分、こういうこと」という察しがつく。この、「多分、こういうこと」を、ほとんど終盤まで、繰り返し仕掛けてくる。もちろん物語が進むにつれて謎が明らかになっていく。そして終盤、「多分、こういうこと」をしたくなくなるほどの暗さが作品を包み始める。モザイクのように散りばめられた、多くの伏線の回収が押し寄せてくる。それが収束した後にやってくる、最後の重い一撃は、なんだろう、なんかこう、なんかだ。そんな感じ。貧弱な語彙では、ネタバレなしの感想というものは難しい。見てください。

好きになれなかったところを敢えて書く必要は、未鑑賞者のいる空間で話すべきではないから、今回はとにかく見てほしいの一点張りで乗り切ろうと思う。

一緒にお話をしたいので、是非見てください。

明るい気持ちの時に見るのではなく、程よく落ち込んでいる時に見てください。あと、是非集中できる環境でどうぞ。じっくりと時間の取れる、2連休1日目とかに。

 

灼熱の魂 (字幕版)

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灼熱の魂 [DVD]

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蛾と電車

 久しぶりに兄弟で会おうということになった。

 山崎家は齢18にして自立を促される。親からの支度金を受け取り、「後は好きに生きよ」と宣言されれば、実家を住処とすることを許されない。その掟にのっとり、高校卒業後は長男である僕、2年後に次男、そして去年、6つ下の末の弟が実家を出た。

 弟がまだ家にいた頃は、実家に帰れば当然のような顔をしてそこにいたので遊んだりできたが、今はそれもできない。なので、3人が自立してからは、兄弟で揃うことは殆ど無かった。それもなんだか寂しいので、日取りを決めて会うことにした。

 目的地までの下り電車は平日の昼間にしては少し混み合っていて、日頃の不摂生から多少膨れた己の身体にとっては少し窮屈かなと憂鬱になっていたところ、一匹の蝶々が目の前を横切った。黒くて小さな、かわいめの蝶で、冷房の風に翻弄されつつふらふらと僕の左足に止まった。すると左側に座っていた旅行客と思しき人が、顔をぐわっと引きつらせて、重たげなキャリングケースをガタガタと鳴らしながら、一目散に隣の車両に駆け込んだ。程なくして、蝶は僕の左隣の、先ほどまでいた旅行客の場所を陣取った。

しかしよく見ると蛾であった。

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 弱っているのか、その位置からは殆ど動かずに、数秒おきに触覚をゆっくりと前後に動かすだけだ。ほとんどじっとしている。なので、人が僕の隣に座ろうとすると、その蛾を見て座るのをためらった。

 山崎は自分のことしか考えられない人間なので、なんとラッキーだ!と思った。膨れた身体にちょうど良い空きができたぞ、と情けないことを考えたりした。

 今、あの蛾について考えると、なんとも気の毒なやつだったかもしれない。あの電車に乗ってしまったが最後、自分の生まれ育った地域に果たして帰れるのか分からない。

 まてよ。そもそも蛾には、我々人間のような里帰りという習性があるかどうか分からないのに、「生まれ育った場所に帰らないとはかわいそうである」と蛾を憐れむのはアホなのかもしれない。『猫語の教科書』でもあった、一種の擬人化をこの蝶にやってしまっているだけである。

 心配してやることが自分勝手であるケースはあるけれど、まさか蛾に対して「余計なお世話だったかな」と思う日が来るとは思わなかった。能天気極まれり。

まずはお前の膨れた身体をどうにかしてから、こういうことを思ったり書いたりした方がいいぞというお叱りが飛んできそうだ。

全くもたわい無い内容で申し訳ない。

『猫語の教科書』

人間の心を最も動かすことのできる動物は人間ではない。猫である。

猫が嫌いであるという人はこの世にいない。もしもいたとしたら、おそらく猫に親戚か友人知人を殺された者たちだ。そういう人は無理に猫を好きになる必要は無い。至極少数である。そのような人たちから好かれなくても、猫を好いている人間というのは掃いて捨てるほど存在するから、猫にとってはどうということはない。

彼らがいかに人間心理を理解しているかということが伺い知れる資料がある。スノーグースなどの作品で知られる作家のポール・ギャリコによる『猫語の教科書』だ。ポール・ギャリコはこの著作において、猫語の翻訳を行った数少ない人物である。

 

猫語の教科書 (ちくま文庫)

猫語の教科書 (ちくま文庫)

 

 

もともとの原稿の作者は不明だが、ポールの翻訳によれば、メス猫であり、生後すぐに交通事故で母を亡くし、野良猫生活中に一念発起して人間の家の乗っ取りを決意し、4匹の子猫を理想的な家庭へと送ったやり手である。想定読者は猫である。

なんと言っても本書のメインコンテンツは人間心理をコントロールした一家征服術である。捨て猫から理想の家庭へ潜り込むときの手法(金網にしがみついて哀れな子猫を演じる)や、家の中に断固として入れることを拒否した主人を、ものの10ページ足らずで懐柔する様子など読むにつけ、同じことをされては僕も「この猫を飼う!!」と心に決めるに違いないと思う。猫の行動が人間に対してどのように見えるのかを熟知した、圧倒的体験知から繰り出される技法と主張には舌を巻く。文体が非常にいじわるだが、妙に説得力がある。ぐうの音もでない。

「擬人化」ということばがこの本にはひんぱんに出てきますから、意味を理解してください。「擬人化」とは、動物やものを人間になぞらえることです。どうしてそんなことをするかというと、人間はうぬぼれ屋で、世界は人間を中心にまわっていて、地球上で一番すばらしいのは人間だ、と考えているからなんです。おかげで人間は、1日のうちの半分は私達を猫ではなく、人間に近いものだと考えているの。

そういえば、猫の動画を視聴している間、勝手に脳内でアフレコをしていた気がする。我々は多くの動物に対して擬人化をしているが、こと猫に関しては顕著になる。猫が飯を食いながら鳴いたりすると「うまい、うまい」と聞こえたりするし、見つめられると「どうしたの?ご主人」と言われている気がするし、猫じゃらしで共に戯れるのを見ると子どもと遊んでいる心地がする。

また、人間を猫化したりもする。可愛らしいものを猫に例えたりする。猫耳は海外でも日本でも万国共通でニーズがある。猫なで声という人間が出す声もある。

人間は猫を人間に寄せて考えようとするが、そこを逆手に取られ、あれよという間に思考や習慣を猫に支配されていることに気が付かないのだ。

やけに頭の良い猫は、「快適な生活を確保するために、人間をどうしつけるか?」というテーマで書かれた本書を読んでいるかもしれない。我々は彼らの手の内を知り、堂々と猫に飼いならされるべきである。人間が猫を飼っているのではない。猫が人間を飼っているのである。それは大いに喜ぶべき真実である。