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点の記録

点だけ打って線を引けない男が、点と点を結ぼうとするブログです。

「やりたいのにやれない」は「やりたくない」が絶対に正解

 

このブログを通して読書好きや映画好きと知り合いになるのだ!という夢を描いていたのだけれど、このブログ以外の方法を使って、それが叶った。それが去年の11月から今年の2月ごろにかけての話だ。

情報発信系の本とかそれなりに読んで、SEOとか意識してみたりとかした。モチベーション上げるために、『ブログ飯』とかそういう本を読んだりもした。でもそんなに友達できなかったんだよね。

原因として考えられるのはたくさんある。その中のひとつを取り上げる。

本に書いてある通り、忠実にやっていたのか?ということだ。答えは、「そうでもない」となる。

ブログ本の「継続しろ。毎日量をこなせ!」というありがたい教えを無視し、「検索ワードを意識したタイトルを作れ」というSEO系のノウハウ本の言っていることを、これでもかと中途半端に実践した。「記事に対してついたコメントにはマメに返せ」とか書いてあった書籍の内容をすっぽり忘れると同時に、コメントの返信も時間が経ってから「あ、そういえば」みたいな感じで返していた。

徹底的にやったのであれば、「こんなん効果ないぜ!」という主張が説得力持ったんだろうけど、あいにく「継続は力なり」をやろうとしても継続する力がない山崎のような人間は、主張にパワーを乗せられないのだ。

そうか、そこまでしてブログで友達作ることってやりたくなかったんだなと、過去を振り返って思う。

たまに、ブログをやる目的とか目標とかを高尚に語った途端に続かなくなってしまう人がいる。あ、僕か。じゃあ、まあ、他にいるとして、そういう僕みたいな人は、本心からブログをやりたいと思っている人ではない可能性が高い。

やる気に満ちて、よーしやってやろう!という思いで始めたとしても、次の2つのパターンで更新がパタリと無くなってしまう。

ひとつは、卑近な目標が達成されてしまえば、途端にやる気がなくなってしまう場合。もうひとつは、うまく行かなければ「私がやりたかったことではない」と諦めてしまう場合だ。どちらも、「そもそも文章を書くことが好きだ」というわけではないのだから、続かないのも無理はない。

先程も明言したとおり、最近の山崎は、全然ブログを書きたくなかったのだ。意識的に「よし!書くぞ!」といくら思っても、最後はいつの間にか別のことをやっていたりした。これが何よりの証拠だ。書きたくないときは、いくら書こうと思っても書けない。

「俺は書かないという選択をしたのだ」と自己啓発に有りがちな意思決定という文脈を使うべからず。素直に、「あ~俺は書きたくなかったんだな」と認めてしまったらいい。

「書きたくなかったんだな」と思えない場合、「俺はどうして書きたくなかったんだろう」とか根本的なことを考えられない。その根本的なところがはっきりしないままだと、本心を無いがしろにした状態で、「長続きするにはどうしたらいいんだろう……」と不安になってそういう自己啓発本を買い漁るという悪循環が生まれかねない(僕はそういう時期があった)。

何かを継続できないという悩みの裏には、絶対に「実はやりたくない」という思いが隠れている。いいじゃんそれで。やる必要本当にあるのか、無いのかを精査できるんだし。実はやりたくありませんでした。はっはっは。

認めた途端に、そのことについて記事を書きたくなった。他人からどういう風に見られたいかとか、馬鹿に思われたくないとか、山崎はまた意識高い系に戻ってしまったのか思われないかな~?とかね。そういうことを考えながらやってたら絶対に楽しくない。

そういうことを気にせず書いた。支離滅裂で恐縮だけれど、今後はこういう記事が増えそうだ。

ブログを書く目的の更新

ブログ書きます!という記事を書いた途端、更新頻度が下がったことについて書きたい。

ブログ更新の目的として、「読書、映画、音楽などの趣味で繋がれる人を見つける」というものを掲げていた。この目的を達成する一環として、ブログが適当かと思っていたからだ。しかし、ブログをシコシコ書いているよりも絶対にいい方法がある。

「好きな人で集まっている場に行く」ということだ。

当たり前のことに気が付かなかった。これに気がついて、「じゃあ何のためにブログを書いていたんだろう」という気持ちがしてきて、3月は一気に更新頻度が落ちた。実際に、映画のオフ会や、同じアーティストが好きな人が集まるDJイベントなどに足を運んだ結果、爆発的につながりができた。

更新頻度が落ちた理由はもう一つある。アクセス数だ。

アクセス数の推移だけど、更新をたくさん頑張った月と、今月とではそれほど大差がなかった。アベレージが大体1日50セッションくらいなんだけど、更新しようが更新姉妹が、それが変わらない。更新しても意味がないんじゃないかと感じてしまった。

さて、ここで山崎がやるべきことは何なのかというと、ブログを更新する目的を改めることだ。なぜブログをやりたいのか?ということを考えなおす。「書きたくないならいいじゃないか」という意見があることはわかる。僕もそう思う。だから更新を止めていたんだ。ただ、目的を再設定したところ、やっぱりブログ書いてたほうが人生楽しそうだぞ、ということに気がついたので、もう一度書きはじめてしまっている。

なぜ目的だとか目標だとか急に言いだしたのか。「意識高い病」の再発か?いやいや、違います。僕の目的は、「意識高い系」が設定するような目標とは比べ物にならないくら低い。月とスッポン。ただ、何かにつけて目的や目標って大事だよなという考えは抜けていない。

以前ブログはオナニーだということをしきりに書いていた。人間はオナニーがしたいとか、セックスがしたいとか、そういった動物的な欲求を満たすのにも目的がある。オナニーにしろ、セックスにしろ、共通するのは「性欲を満たしたい」というものだ。もっと抽象的な表現をするならば、「子孫を残したい」という生物本来の目的からくるものでもある。

人間は目的を失うと動くことができない。オナニーですらそうなのだ。炊事、掃除、洗濯、皿洗いなどの日常やるべきことから、仕事や恋愛に至るまで、あらゆるものに目的を求める。なぜそれをするのか?という理由がある。それを自分で決めなかったものに対しては、さほどエネルギーなんて出てこない。出す必要がないものに対して努力をすることは、脳みそは無駄だと判断するからだ。

ということで、なぜブログを書きたいのか、ブログを書く理由や目的を更新した。

しかし更新した目的や目標などは非公開にしておきたい。

じゃあなんでこの記事書いたんだ。

非公開にしておきたい理由がある。意志薄弱ゆえ、一度宣言した目的や目標が自分を縛り付けることになるということが、この1ヶ月間の中でとてもわかった。僕の脳みそは基本的に怠け者らしく、明確な目的よりも、漠然としたワクワク感の方がテンションが上がって行動に結びつきやすい。

そして非公開にしておきつつも、じゃあなぜこんな面白みもない記事を書いたのだ?ということだけど、「まだやってますよアピ」とか、「なんだか寂しいと思ったから」とか、「漠然と書きたくなってきたから」ということもあるけど、一番は「目的や目標をただ書いただけの記事のほうがつまらんよな」って思ったから、最後にそのことに触れて終わる。

もしかしたらこの記事も含めてそうかもしれんけど、ただ単に目的だけダラダラ書いてある記事なんて、読んだ人の役に立つことは少ない。ブロガーという狭い世界で傷のなめ合いをするだけだ。人生の目標宣言や、ブログの目的をダラダラ書くというのは、オナニーのオカズを公開するとか、こういう人と結婚してセックスしたい!ということについて語るようなもんなんじゃないかと考えている。そんなものは別に人に言わなくてもいい。プライベートな情報として持っておいた方が、いろいろ困らない。

少なくとも、変態が!と言われるリスクは少なくなるんだしね。

『絵はすぐに上手くならない』──上達の道は険しいという当たり前を説く

 

絵はすぐに上手くならない

絵はすぐに上手くならない

 

技術習得の際、効率の良い方法は無いものか?と方法論を知ることに躍起になる人がいる。

効率の良い練習方法を知ることは何も悪いことではない。むしろ、誤った努力をすることによって、せっかくの才能が無駄になってしまうパターンも考えられる。

しかし、知識偏重タイプの我々まよえる子羊は、方法論を知ることにとらわれがちである。この方法はどうだ?大変そう……あの方法はどうだ?これも自分に合わない……と、何か練習法に自分にとっての正解があるのだ!と右往左往する。すぐに上手くなる方法が、どこかに転がっていないものかと血眼になるのだ。

TwitterFacebookなどのSNSや、イラスト投稿サイトとして大成功しているPixivなどの登場と普及によって、個人の作品を世に知らしめるインフラが整った。僕がフォローしている人の中にも、絵を描くことが好きで、自分が描いたイラストをTwitterにアップロードしている人が何人かいる。

しかし、そのような今はまだ名も無き絵描きたちは、現実と理想とのギャップに苦しみもがき、「どうなったら絵が上手くなるのかわから~~ん!」という魂の叫びを日々不特定多数のフォロアーに向けて発信している。気持ちはわかる。

小学校の頃入っていた漫画クラブ、中学高校の美術の時間などの数少ない美術体験のさなかで、美術的センスの無さに愕然とした僕などは、「確かに絵がうまくなったらどんなに良いだろう。楽に、自分の思い通りに絵が描けるというのは、どんなに心地よいだろう」と妄想してしまう。その境地に到達したら、どんなに心地よいだろう。早く絵が上手くなりたい!そうすればこの地獄から開放されるのだ。

しかし、本当はそんなこと無い。

「上手にできる=苦労が少ない」というのは、卓越した名人芸を傍観する凡人が、思い描きがちなことである。

例えば野球などの好プレーを見るときなどはどうか。いとも簡単にやってのけているように見えているが、果たしてそうだろうか。彼らはピッチャーからボールが放たれる瞬間、バッターがボールを打つ瞬間、打たれたときのボールの行方などに猛烈な集中力を発揮して、自分のチームが優位に立つよう、瞬時に行動をしなければならない。テレビ画面で見ると楽そうに見えるが、実際はそんなこと無いはずだ。

ハイパフォーマンスをいつも引き出せるわけではない。楽にできないからこそ、日々練習するのだし、コンディションを整え、1試合1試合真剣に取り組むのである。

『絵はすぐに上手くならない』という著作は、こうした当たり前のことを、「絵を描く」という行為においても当てはまるのだ、と書いてくれている。

上手な人でも必至に形をとり、遠くから何度も眺めて形を直し、一心不乱に描き込み、ようやく絵が完成するのです。むしろ画家の大先生や有名なアーチストのほうが、命を削らんばかりに凄い形相で画面に向かっていることでしょう。ですから、誰しもが「最初から楽に描ける」わけはなく、「うまくなったら楽に描ける」こともないと思ってください。 

漠然と絵がうまくなりたい、と思っている人は、絵が上手くなるための練習期間や製作期間の苦しみに目を向けようとしない。

当たり前だけど、絵が上手い人というのは、少なくとも人並み以上に絵を描いているし、サヴァン症候群などの病気でなければ、「目で見たものをとっさに絵に描く」という芸当は、できるはずがないのだ。心のなかで「自分は天才だ!」と思うのはモチベーション維持の観点からすると大変宜しいが、そうは言ってもいきなり技術レベルが大天才になる方法は存在しない。

本書はこうした精神論的な主張や、迷える絵描きが一度は思う「あるある」に対して、著者なりの意見をしっかりと主張してくれている。

「絵が上手くなるのにデッサンは必要か?」
「絵が描けないのは身体のどこに問題があるのか?」
「どういったトレーニング方法が自分には合っているのか?」

ということなどにも、「こうしてみましょう」と優しく教えてくれる。

漠然と絵がうまくなりたいと思っている人、絵をはじめようにもなかなか気力が沸かない人などは、本書を読むことによって「絵を描くとはどういうことなのか」という奥深いテーマの一端を知ることができる。

速読とおさらばできる速読の本

今回は当ブログでも度々話題にしてしまった、「速読」について書く。

この記事をもって、「速読」というキーワードで文章を書くことを最後にしようと思う。

理由は複数ある。まずひとつは、速読という文言をTwitterでつぶやいたら、よくわからない野良速読野郎と名付けてもよかろう知らん人からフォローされたから。それだけで「意識高い系」という病を捨てきれていない感じがして、そういう自分の現状が嫌になっちゃった。

もう一つは、僕が速読をどういう風に考えるようになったかということによる。以前僕は「速読っしょ!冊数読んでる人が勝ちっしょ!」みたいな感じで文章書いていたりしたことがある。このブログは僕の意識高めだった時期の被害に遭っているので、多分過去ログを探せばそういう文章がいくつも出てくると思う。興味ある人は自分で探してください。恥ずかしいからアドレスは貼らない。

今は速読主義!みたいな立場をあらためている。読書スピードだったり理解度だったりは、その人それぞれ。読み方もその人それぞれ。早く読もうが遅く読もうが、そんなに関係ないよ、という考えに至っている。

この考え方になぜ至ったのか?それは速読本とかで紹介されているテクニックを実践してみて、「速読って慣れなんだな」ということが分かったからだ。慣れ親しんだものはすんなり文章として入ってくるし、理解できるようになる。そのことは、僕が読んだ速読本にも書いてあったけど、そのことを書いてくれている速読の本は少ない。

速読の本なのにも関わらず、「速読は慣れである」という身も蓋もないことが書いてある2冊を、「速読とおさらばできる速読の本」として紹介したい。

どんな本でも大量に読める「速読」の本 (だいわ文庫)

どんな本でも大量に読める「速読」の本 (だいわ文庫)

 

 何回もサブリミナル的に紹介リンクを貼っているのが、『どんな本でも大量に酔える「速読」の本』だ。

この本はその名もズバリ速読技術のノウハウ本だが、そこら辺に転がっている「右脳を鍛えて速読!」とか「ページを写真のように切り取る!」などを方法論として紹介している超人系とは真逆だ。「読書慣れ」は「速読技術」に勝るという見出しがあるように、「現実を見ろ」と言わんばかりの既存の速読術をボロクソに批判しているのが痛快。え!?じゃあ速読って無いの?いやいや、ありまっせ~という内容なんだけど、テクニックの部分はさておき、一歩距離をおいているところに好感が持てる。

 いくら速読技術を身に着けたところで、その本の内容に関して何も知らなければ、難しい本は難しい本であることに変わりはありません。あなたが普段から本を読み慣れていなければなおさらです。仮に速読技術があっても、何のストック(経験や知識のこと)もない状態では、読める本は限られてしまいます。

速読技術を身につけると、本を理解するスピードも速くなる、と勘違いする人が多い。そうではない。そもそもしっかり知らない、馴染みのない分野の本なんて、早く読もうが遅く読もうが理解できないことには変わりない(だったら早く読んじゃおうという!というのが本書の立場でもあるので気になるなら読んでみると良い)そんな当たり前のことを、「当たり前だろ!」と言ってくれる速読本はなかなか少ない。

ほんとうに頭がよくなる「速読脳」のつくり方 (PHP文庫)

ほんとうに頭がよくなる「速読脳」のつくり方 (PHP文庫)

 

胡散臭い脳機能科学者として注目されている苫米地氏。トレーニング方法は超人系のそれに近いが、彼の速読に対する眼差しは非常に現実的だ。これも前述の宇都出さんの『どんな本でも大量に読める「速読」の本』と同じで、事前知識が無いと速読は困難だとしている。

クリス・アンダーソンの『FREE』をなぜ速読できたか?について)350ページもの本を5分で読みきるには、読者側がもともともっている知識量がなにより大切なのです。 

(中略)

 読者側がもともともっている知識の量。これが速読を可能にする最大の条件なのです。

(中略)

 まずは速読など使わなくていいから、本を読んで下さい。
 そうすれば自ずと知識量は増えていきます。すると、その知識は速読をする際にも有利に働くわけですから、そあらに多くの本が読めるようになります。

僕が「速読は慣れ」という根拠はここだ。宇都出流速読の重要概念である「"ストック"が重要である」ということと、本質的に同じことを言っている。本を読む→知識が増える→その知識を使えば本は速く読める……の繰り返し。これが速読のカラクリですということは、この2冊の共通している重要な主張だ。

苫米地氏の速読本で気持ちが良いのは、あとがきのこの一文である。

 自分がいかに速く読めるか、1分間に2000文字読める眼球になったなどと、自慢する人もいますが、それが何の役に立つのでしょうか。
 何度も言いますが、速読なんかできなくていいから、「じっくり1冊の本を読む」ということです。あなたにとって本当に役立つことは、そちらのはずです。

速読本なのに、「速読をするな」と書いてあるのは本当に面白い。紹介されている速読テクニックについてはこの記事では触れないけど、どっちもざっくり説明しちゃうと、「本を速く読もうと思って速く読んでりゃ、勝手に速くなるよ」という内容で一貫しているので、安心して「速読」という自己啓発の一端を担う呪縛から開放されてほしい。

そもそも、全く本なんて読んだこと無い、久しく本なんて読まなかった人が、いきなりすんごいスピードで読めなくたって、何も悪いことじゃない。速く読みたいなら実際にページを速く動かして試してみればいい。これだ!と思ったら続ければいいし、なんかちげぇなと思ったらやめればいい。

こういう本を読むにつけ、「効率の良い正しい読書・勉強方法」ってのは、自分が「これはすごい!正しい!」と思って実践して、結果が出たものが、自分にとっての正解になるだけなんじゃないかな。画一的に「この方法がホモ・サピエンスが学習する手段として一番優秀だ!」なんて、言えるわけが無い。そんなことを、勉強法の本から学んだという記事でした。

さよなら速読!

僕は自分の好きなようにに本を読むことにします。

 

achelou.hatenablog.com

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このブログの目的の一つは「趣味関係の友達を増やす」です

長らく声が出ない状態が続いていた。幾分か声も出せるようになり、本日仕事をお休み頂き、必死で解熱剤を飲んだので熱は下がった。ここ数日はぼーっとした頭で記事を書いておりやした。

なんとか明後日の出勤には体調を戻すことができそうで安心している。

 

本題に入る。

最近、書評として読書に関する記事をアップできていない。

自分の批評家気取りな態度ムンムンの文章に嫌気がさし、「こんな薄っぺらな知識でよくもまあ書けたものだな!」という自己嫌悪が原因だ。書くぞー!と決めてカテゴリ分けしたものの、全然書いていない映画と漫画と音楽についても同じだ。レビュー記事における自分の態度が気に食わなくて、とるにたらない、日常のふとした拍子に思ったことなどを書き散らすというブログになっている。

この状態は嫌だ。ブログ開設当初の予定とだいぶ違う!

ブログを始める前に、本についての感想やらなんやらを公開していた場所がある。「読書メーター」という読んだ本の記録ができるサイトだ。メモ機能を使って、読んだ本の感想を書いていた。それをSNSに共有するなどして、「僕の書いた意見見てみてーー><」みたいな感じでシェアしていた。

最初の方はいいね!とか押されていたけど、飽きたか、あるいは「こいつ急に本とか凄い読み出して、なんだか怪しいぞ。におうぞにおうぞ、意識高い系のにおいだ!」という具合に避けられていたか、単に僕の感想が面白くなかったか、そのいずれもが原因で、シェア先でのコミュニケーションに溝ができたように感じられた。

ならば場所を変えようと思いたち、自分の好きなことについて大いに語り、自分の趣味の範囲で友達をじゃんじゃん作ろうということで、ブログを立ち上げた。これが目的だった。『点の記録』とは、後付で考えた看板だ。もちろん点と点を先で結べるような、過去の記事を大伏線としたオモローな文章を書くことができればそれは良いことだと思うけれど、ぶっちゃけて言えば徹頭徹尾「趣味語りブログ」にするはずだった。

最初のうちは特に何も考えずにいろいろ書いていたのだけれど、書けば書くほど自分の認識の甘さや、視点のズレ具合、文章の下手くそっぷりが目について、自分が好きな分野であったはずのものを、自分で汚している感覚がしてきたり、何日もブログ記事にsるようなことが無いと、「あれ?俺ってこれ本当に好きなものなのか?」とか余計なことを思ってしまう。

おかげで、特に読書によって出世したわけでもない(むしろ職を失った)ヤツによるありがたみも何もない読書論で溢れかえることになってしまった。しまいには「ブログは自慰行為だ!」ということを高らかに主張するという自慰行為をやってのけた。久しぶりに合う友人の何割かは、このブログに関しては特に言わんどこ……というようないらん気を使わせてしまっている。

いまこそブログ開設当時の初心に戻るべきだ。どうせ自慰行為なら、開設当初の目的、自分に課したミッションをこなさねば、全く友達も増えずにテクノブレイク状態でフェードアウト必至である。

かといって、ブログの運営方針をここで公にして、それを達成できるかどうかということも怪しい。僕の性格上、書いたことは忘れるし、発表した目標は達成されないことが多い。予定表に書いた予定は、たいてい無意味な文字列で終わる。これは小学校1年生の夏休みから変わっていない。意志薄弱なのである。

だがあえて今後の方針を書いてみる。

読書をするにあたってもプラスになるので、ライト書評、並びに普通に一本書評を書くということは増やそうと考えている。「この本おもろいで!」という情報を発信したほうが、山崎の人となりがつまびらかとなり、「俺もおもろいと思っとったんや~~」と声をかけやすくなるかな、とか考えている。

書評を書く、アウトプットするというのは、読書で得た著者の視点を、論理的な文章で纏め、この本面白いぞ!!という事が言えるか?が求められる。ハードルは高いが、ブログ開設当初の志に戻って、いろんな本を取り上げ、当ブログを読んでくださっている数少ない読者さまが、「山崎の書く書評はおもろいな。どれひとつ友達になってみるか」という風になってくれたら、万々歳でございます。

今後とも、なにとぞ『点の記録』をよろしくお願い致します。

 

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