点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

まあいいじゃないかカード

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こんなのを作っている。不完全な完璧主義とおさらばするためだ。

僕は開き直りが苦手だ。開き直れないときは開き直れないし、開き直るときは振り切れて開き直る。

振り切れた開き直りは、開き直りではない。それを人は「ヤケクソ」という。

「零百思考」と呼ばれるうつ思考パターンも、僕の生きづらさを助長している。これが「べき思考」や「負のレッテル張り」などど組み合わさることで、性格的な要因でもって、内因性うつ病を発症する。性格によるところが大きいので、薬などでの対処療法で治ることは治るのだろうが、脳内情報、脳科学で言うところの内部表現において、価値判断や行動原理が、社会と折り合いをつけにくい場合、その人は行きづらいパーソナリティを持っているということになる、

まあいいじゃないかカードは、コンフォートカードテクニックと呼ばれるものに近い、というかパクリだ。ただ、コンフォートカードなんて横文字を使うのは面白くないから、自分で名前をつけた。これは自分への優しい言葉がけを、自分でやってやるという、非常に寂しいストレス改善方法なのだけれど、ばかにならない。

画面の通り、僕はスマホgoogleスライドを使って、カードのようにしている。恥ずかしいので例文は書きたくない。コツとしては、第三者からのメッセージのように書くことだ。

失敗が怖いというストレスに対して、「そんなことない。自分はできる」というポジティブな語りかけを自分の心に強いても無駄に終わることが多い。それが容易ならば誰も苦労していない。

個人的なコツは、「あの人ならどう言うふうに言うかな」という文章に書き換えることだ。家族、友人、知人、上司、それがだめなら心の師匠、イマジナリーフレンドでも良い。自分を励まし、慰めてくれる人ならきっとこの様に言うだろうと想定して書く。

黙読するだけで、その人に肩を叩かれながら、「失敗したっていいじゃないかぁ」と言ってくれるのを想像できればこちらのもの。

これをやり始めてしばらく調子がいいので、やり続けてみることにする。

文章で脱糞しろ

継続は力なり。しかし上達の意思無き継続は、単なる惰性となる。これは気の重くなる事実だ。

ブログを書けども書けども、良い文章を書いた心地がしない。むしろ、当ブログは、最初の記事の方が、生き生きとした文章を書いている気がする。

このブログは文章練習のために始めた。かたむきみちおさんのブログ「おならっぷばーん」や、読書レビューブログの「基本読書」に触れて、自分もこんな風に文章がうまくかけたらいいな……というのが、モチベーションだった。

最初は完全な我流だ。次第に、「てにをは」に気を使い、パラグラフライティングやら、PREP法やら、『理科系の作文技術』をはじめとする「How to 文章作成」の知識にふれはじめてから、なんだか文章を書くのが、おもしろくなくなったなぁという時期があった。

更新頻度にムラがあるのは、文章を書くことが、あまり楽しいと思えていない時期だ。当たり前だけど。

しかしそこにはとあるパターンがあることに気がついた。

「よい文章を書くには」という情報や書籍に触れたときだ。

何故だろうと考えたのだが、おそらくこう言うことだ。

僕は「不完全な完璧主義者」である。

型を守ろうとしすぎてそこからはみ出ることを嫌い、空回りをしてはメランコリックになることを繰り返す男である。これが原因だったのだ。書けども書けども納得がいかない。しかし、とりあえずこんなに頑張ったんだし、誰かに読んでほしい。

そんな態度では、つまらないのは当たり前なのだ。

僕はこのブログにおける情報発信において、表現方法にはあまりこだわらないようにした方が良いと思えるようになった。

いつ頃思えるようになったか。さっきだ。ついさっき。

How toという幻想に踊らされ、自分がわざわざ文章として残しておきたい脳内の情報の出し方に、制限をかけてどうする。それが貴様のやりたいことだったのか。違う。文章練習として始めたブログだったが、「〇〇さんが読者になりましました」とか「□□の記事にスターがつきました」というのが楽しくて、次第に僕の内面的な考えを吐き出すのが楽しくなっていった。

ブログは思考のトイレである。公開自慰である。何回もこのブログで公言してきたではないか。つまりは脱糞ショーなのだ。ブログなんてのは。

より面白い脱糞ができたブログに、アクセスが集中し、フォロアーが増えるのである。

こうした立場に反対するのは、アフィリエイトだかアソシエイトだか、なんだか知らないけれども、「俺の脱糞には価値がある」と思いこんでいるブロガーやライターだ。

彼らは、「こいつらの脱糞には利用価値がある」という発想を得た目ざとい商売人に食われた。ブログを書けば金が生まれるシステムが発明されたからだ。

そうなると、脱糞のようでそうではない文章が生まれることになる。中身がすっからかんのブログであっても産みの苦しみがある。だったら小遣い程度なら稼いでもバチは当たらんという思惑が生まれるのは仕方ないことである。

かつては「自己表現のための文章(=公開脱糞自慰)」を綴っていた書き手が、つぎつぎと「読ませる文章」へと態度を変えた。コンテンツ・マーケティングと呼ばれる手法に組み込まれてしまったのだ。

僕もそうなりかけていたのかもしれない。文章の題材は何がよろしいか、何がバズるのか、どうしたらフォロアーが増えるか。

そればかりを意識していたから、あまり文章を書くということに対して、当初のような情熱を抱けなくなったのかもしれないと気がついた。

文字数は何文字がよろしいか、文体はどうか、起承転結に序破急は意識したほうが良いか、分かりやすく短い文章に纏めねば……などなど。

そんなことを気にしていたら、便秘になって当たり前なのだ。

自己満足がそうでなくなるとき、心地よさは死ぬ。僕はもっと、キモチよく文章を書いて、「お前のブログ、クソだけど最高だな」と言われる日を夢見ることをしたほうが、精神衛生上良さそうだと思った。

文才がない者は、己のすべてをぶちまけて、生き生きとした脱糞を見せつけていくしかない。先に待っているのはもちろん究極の自己満足だ。それでいいではないか。それが根源ではなかったか。

この先僕に文章の依頼は来ないだろうけど、読んでくれる人はいる。それだけで僕は、エクスタシーに達することができることを忘れていた。

「うんこ」と一文字だけ書いた記事でもいいのだ。他のブログを読んでいても、そういう文章が、はてなブログを始めた当初よりも減っている気がする

みんな、脱糞しろ。もちろん、文章で。

責任は各自持ちでおなしゃす。

全く興味の無いものに興味関心を持つ方法

「自分とは全くの無縁と思っているものでも、いつか必ず出てくる」

心の師匠みうらじゅんは、なにかの番組で「セガール概論」と銘打って、みうら氏が全く興味が無いものであったセガールに関する講義をしているのを思い出した。上のセリフは、そのセガール概論の中でみうら氏が語った論旨である。

この立場に僕は感銘を受け、自らも実践するに至った。

ここからは僕の持論となる。

我々が興味関心を持つには、「発見」→「発掘」→「内面化」が必要である。

「発見」とは、興味があるもの、興味が無いものに限らず、何かを認識にあげることだ。自分とは全く無縁のもの、自分の人生で、必要ではないもの、全然楽しく無いと思われるものでも、人はなにかを「発見」している。「発見」というファクターを無視して、人が興味関心を持つのは不可能である。意識に上がるまでもないが、どこかで聴いたことがあるな……という何かが出てきたとき、あなたはそれをすでに「発見」している。

「発掘」は、「発見」し、それを掘り下げる行為だ。発見なくして発掘なしであり、また発掘なくして興味関心を醸成させることは不可能である。発掘とは、「埋もれたものを掘り起こす」という意味を持つ。認識の中にあったはずのものを掘り起こし、それについて思考し、向き合うことをしなければ、単なる「発見」と何ら変わらない。

「内面化」は発掘がある程度終了すると起きる心理的な変化のことだ。発見し、発掘していくと、ある日それが自分の価値観や尺度、もっと大げさに言うと、思考に影響を与えるようになる。社会学用語では、社会にある価値や規範を、自分の価値や規範として、受け入れることを指す。つまり、ここまでくると、あなたはその物について、はっきりと興味関心を持っていると言える。

しかし、我々は「発見」こそすれども、「発掘」と「内面化」には、なかなか移行しないことが多い。これは何故かは定かではないが、人は自分が選んだものが正しいという錯覚を覚えると言われている。

人から貰った洋服よりも、自分で選んだ洋服のほうがよく着る。人から買ってもらった宝くじよりも、自分で買った宝くじの方が当たるかもしれない。人から言われたことよりも、自分で考えたことのほうが、人の考えよりも優れている……というように。それが本当に正しいか、誰も分かりもしないのに、個人尺度で選んだものが、発掘と内面化を引き起こしやすい。

つまり、発見という最初のステップは、自分である方が望ましい。

以下に、発見のパターンを記す。

  1. 自分自身で発見する
  2. 他人に教えてもらって発見する
  3. 他人で教えてもらって発見したものが、数日経ってそのことを忘れて、自分で発見したと思いこむ。

自分自身で「発見」することが可能か。残念ながら、飛び込んでくる情報は、100%自分自身で「発見」するということは不可能である。

あなたが感じている世界は、自分と他存在との関係性でできあがっている。自分が生み出した考え、発見は、自分で「発見」したと思い込んでいるに過ぎず、多くの「発見」は、古代から連綿と受け継がれてきた哲学思想、宗教思想、ルネッサンス産業革命などの、歴史的な価値転換点において発見されつくされている。

ということは、2番と3番が、現代社会に生きる我々にとっての発見ルートだ。

2番の他人任せの発見では、なかなか発掘に至らない。ウンチクたれ蔵の知識を「へぇ」「ほぉん」「はぁ」と口先だけの生返事で返していても、興味関心には至らない。

この中で、興味関心を持つのにとても重要なのが、3番である。先程の、洋服の例を思い出してもらいたい。人は自分が選んだものを確からしいと感じる。ならば、他人から教えてもらっているのに「こりゃあいいものを発見したぞ」と自分で選択をする(した気持ちになっている)ので、「発掘」というステップに移りやすい。

「発掘」の方法には大きく分けて2パターンある。

  1. 自分でネットや書籍などで調べる。
  2. 詳しい人に聴く。

これはどちらでも良い。ネットや書籍で知識見聞を自分で掘り下げる、埋もれた情報をすくい上げるだけで、「内面化」が始まっている。音楽では「digる」という言葉が死語になったが、まさにこれが「発掘」作業そのものである。「digる」事無しに、内面化には至らない。しかし、ネットや書籍には余分なノイズが含まれていることが多い。

「発掘」をより効率よく行うには、2番の詳しい人に聴くのがベストである。信頼できる数人に、「これについて知りたいのだけれど」とLINEやTwitterのDM、Facebook、メール等でコンタクトを取る。すると、よほど忙しい人でない限り、相手にしてくれるだろう。特にマイナー分野は、「発見」しても適切な「発掘」が困難な物がある。発掘の入り口が非常に限られているので、良心的なメンターと出会うことができれば、そのまま「内面化」することができる。

「内面化」についてだが、先程も述べたとおり、自分自身で「発掘」を試みているということは、それだけで、その知識に関心を持っているということであるから、すでに始まっている。だが、他者の力で「発掘」している場合、聴く相手を間違えてしまうと、途端に「もういいや」となり、内面化には至らない。学問においても、誰に師事するかということは非常に重要なのは、ここにある。教え方が下手くそな人物に当たらないように、最新の注意を払う必要がある。

「内面化」を手伝ってくれる人をパターン化することは、僕の力量を超える。あとは自分で師匠探しをしてほしい。ある分野には必ず「第一人者」と呼ばれる人物がいるから、その人のホームページや書籍などに当たるのも良い。出鱈目なことを書いているなという感じが少なければ、すんなり内面化が進むだろう。

さて、纏めると、「自分で選んだ感」と「自分にあった師匠探し」というのが、興味関心を持つ最大の効率化だと言えるだろう。その点、読書は「発掘」と「内面化」にとても役に立つから、最初は書籍にあたって、どうしてもわからないところが出てきたら、著者と直接コンタクトをとるか、その分野でコミュニケーションが取りやすそうな人物をピックアップしておくとよろしい。

学生時代にこういうような考え方をしておくべきだったと後悔しながら、ここで一旦、筆を擱く。