点の記録

点と点が結ばれるのをじっと待つブログ。主に書籍について。サブで音楽やら映画やら。

「初学者殺し本」の見分け方

「初学者殺し本」とは

「初学者殺し本」

 本来、初心者を読書ターゲットにしていると想像できる「入門」の名を冠しながら、実際は多量の前提知識が必要であり、とても初学者が読めるようなものではない書籍のこと。個人差アリ。

山崎が安直なネーミングセンスをフル動員して名付けた。正直恥ずかしい。

「初学者殺し本」は知的好奇心旺盛の無垢な青少年や、向学心に燃えたビジネスパーソンに、「入門」と謳って擦り寄り、「てめえのようなチョコザイはコレとアレとそれを勉強してから出直しな!バーーーーカ!!」と殴りかかってくる書籍である。

何が入門だ。門前払いも甚だしい。

悪意さえ感じさせる書籍もある。本文中に、「誰向けの本か」というターゲット層についての明記をしていない本などがそれだ。それくらい書いておくれよ。

「入門」と書いてあるので、さぞかし平易な文章で、その分野のあらましを説明してくれるのだろうと期待して購入する。しかし、いつの間にか、本棚の奥深く、あるいは積読コーナーの中の一冊になっている。こういう経験をしたことがある人、結構多いんじゃないかな。

もちろん、世の中には良い「入門書」もある。ではどうすれば見分けることができるのか。

今回は、こうした「初学者殺し本」の見分け方について持論を展開しようと思います。

最近読んだ本で、「これは初学者殺しだな」と思ったのは、『マックス・ヴェーバー入門』です。

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)

 

「入門書」を読まずに買うのはおかしい

当たり前のことを書く。

あまりに当たり前なのでくだらないと思う。でも、多くの人はこれを実践しないまま「入門書」に手を出して、失敗する。

今、あなたが買おうとしている入門書が「初学者殺し本」か、そうでないかを推し量るには、「試しに読む」しかない。

あなたにファッションに疎い友人がいたとする。その友人が、洋服を選ぶ時に試着なしで購入し、「ありゃりゃ!つんつるてん!」「しまった!全然似合わない!」などと嘆いていたとしよう。さて、次の機会に失敗しないようにするにはどうすればいいかを教えてあげたい。何と声をかけようか。「次は試着をしろ」が正解であるはずだ。

初学者の状態で入門書選びに失敗しないようにするのも理屈は同じ。「試しに読む」ことが必要だ。

偉い先生が言っていたから購入するとか、アマゾンレビューで高評価だから購入するとか、そういうのは入門書であれば絶対にやらないほうが良い。そういうのを参考にしてクソほど面白くなかったら不幸でしかない。己の未熟さを恥じ、それが原因で好奇心が死ぬ。

入門書は必ずリアル書店で購入することを強くすすめる。

「初学者殺し本」の見分け方

「試しに読む」といっても頭からお尻まですべてを読み通すことなんてやってたら本なんて選べない。ではどこを読めば良いのか。

それは「はじめに」と「目次」だ。

「はじめに」を読む理由は、それは先述の「この本は誰に向けた本か」ということが書いてあることが多いからだ。読み手に対するレベルの要求がしっかりとなされているものは、「初学者殺し本」とはならない。「はじめに」にしっかりと「初学者にも分かりやすいように」とか「前提となる知識についても、注釈で解説をしている」など書いてあったら、第一段階クリア。初学者の我々にも優しい可能性が高くなる。

ところで、「はじめに」は、本選びの中で一番警戒しなければならない部分でもある。

立ち読みをする人に買ってもらいやすいようにする「掴み」だからだ。本文よりも分かりやすく、概要を説明してくれたりするのは、読む人の好奇心をくすぐる仕掛けと思わなければならない。この部分は、本によっては著者と編集者が相当力を入れて推敲しているはずだから、簡単そうだなと騙されては無いように(山崎は何十冊単位で騙されています。)

「はじめに」を読むのはあくまで、読者層の設定という「入門書」のマナーを守っているかということを確認するためのものだ。第1章のページを開いて10分後に後悔した、なんてことのないように、「目次」を読む必要がある。

まず目次に、見慣れない単語は無いか確認しよう。人名とか、目新しい概念の名前っぽいものとか、目につくはずだ。目次全体を見渡した時、馴染みが無い単語がどのくらいの割合を占めているのか?ということに注意してみる。その割合が7割を超えていれば、その本は「初学者殺し本」である可能性が高い。(割合については山崎の肌感覚による。自由に変えられたし。)

さらに精度をあげるなら、実際に馴染みのない単語の箇所を、目次を使いながら読んでみると良い。そこでチンプンカンプンであれば、「もしかしたら自分にはまだ早いか」と予測を立てよう。

勿論、尻込みしているだけでは、読書はひどくつまらないものになる。わかりきったものを何度も再確認して「俺は読書家だぜ!ゲヘヘ~~」と悦に浸るのは自慰読書に他ならない。自慰読書を否定するわけではないが、それが嫌ならどんどん書籍のレベルを上げるべきだ。

この記事は、あくまでも初学者の状態でモチベーションを維持するにはどうしたら良いのかということを考えた内容であるということを、ここで念押ししておく。

ダメそうならば「門前書」を選ぶ

宮崎哲弥さんの『新書365冊』という書籍に、「門前書」という言葉が出てくる。門前書というのは、入門以前のレベルで、その分野についてより平易に解説されている本のことだ。会計学における『さおだけ屋はなぜ潰れないか』とか、経営学における『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら 』などがコレに当たる。

知的プライドが高い人ほど、キャッチーなベストセラーは読みたくないという心理状態になりやすい。しかも頭のいい人が書く所謂「読書本」は、門前書なんて読まないで良いという態度を取ったりもするから、そういうのから影響を受けちゃったりしているとなおさらまずい。

しかし、「はじめに」や「目次」を読んで、堂々と、悔いなく、門前払いに甘んじる──「門前払われ」──をした我々に残されているのは、もはや門前書しかない。より平易な表現で、要所要所を荒削りながらも書いてくれているのが門前書である。頭のいい人からすると「悪書」と見えるだけで、初学者にとっては宝の山の可能性が高い。凡人である我々は、まず門前書を足がかりにすることから始めよう。

門前書は知的好奇心を育むが、しっかりとした知識が身につくかというのは、やっぱり怪しい。あなたが博覧強記を目指すなら、これをブースターとして、再度入門本の目次を目にしてみるといいかもしれない。前提となる知識が蓄えられているので、初見の時に感じたモヤモヤは、ある程度晴れているはず。門前書と入門本の往復によって、入門資格が得られるまで気長にやってみると、ある時ズルズルズルっと入門から免許皆伝に至ることなどもあるから、読書は楽しい。

入門資格とか免許皆伝とか書いたけど、どのレベルが入門資格ありか、免許皆伝か、ということも自分で設定できるのが、一人でする読書の良いところなんすよね。

新書365冊 (朝日新書)

新書365冊 (朝日新書)

 

楽しく読めるか

一番重要なのは楽しく読めているかということだ。この場合の楽しくというのは、何もウキウキワクワクの精神状態で読める本であるか、というわけではない。多少理解ができなくても、読んでいて面白い本というのはあるものです。

それを手っ取り早く確認できるのは、やっぱりリアル書店での試し読みだ。この本はダメだと思ったら他の本、というようにスムーズに比べることができるから、何か新しい分野を勉強したいのならリアル書店に行ったほうが絶対に良い。ネットで済まして後悔する前に、本屋にいってしまおう。

他人から勧められた本も、一度読んでみるということをしたほうが、お金も勿体なくない。図書館という手もあるけど。

ほんとうの意味での「初学者殺し本」は、殺されっぱなしになってもいいや、と思ってしまった本だ。そういう本を見分けるために、「はじめに」と「目次」は最低限確認しておくと、自分にとっての「初学者殺し本」にぶち当たることも少なくなる。

これが、全く興味のない分野などであれば、「ジャケ買い」とか「帯買い」といった遊びもできますが、今回の記事は、あくまでも勉強したい分野があって、初学者として読書するモチベーションを失わないための一つの僕なりのライフハックとして捉えてくだされば幸いです。

おしまい。

 

 

山崎的に大丈夫だった「門前書」

人文科学系は、日本術業出版社から出ている『本当にわかる○○学』シリーズはおすすめ。目次を読んでみてほしい。本のどこに、どういうことが書いてあるのか?ということが、自分の理解度で一発で分かる本は、門前書としてベスト。

本当にわかる宗教学

本当にわかる宗教学

 
本当にわかる哲学

本当にわかる哲学

 
本当にわかる倫理学

本当にわかる倫理学

 

理系で最近読んだ本の中でめちゃめちゃ楽しかったのは、瀬山 士郎さんの『読む数学記号』

数学コンプレックスは、数学記号コンプレックスであることが多い。楽譜は音符や記号が読めなければ、音楽として形にできない。数式も、アラビア数字以外の記号について知らなければ、どのように処理するのか思考できない。直接的な数学再入門の本では無いけれど、まず面白かった。

社会科学系では、経済学なら『落ちこぼれでもわかる』シリーズ。

落ちこぼれでもわかるマクロ経済学の本―初心者のための入門書の入門

落ちこぼれでもわかるマクロ経済学の本―初心者のための入門書の入門

 
落ちこぼれでもわかるミクロ経済学の本―初心者のための入門書の入門

落ちこぼれでもわかるミクロ経済学の本―初心者のための入門書の入門

 

結構前の本だけど最近知った。マンキュー経済学入門が家にあるけど、こっち先に読めばよかった。初学者の天敵は「好奇心が死ぬ」ことなので、楽しく読める本を自分でこさえることが重要かと思われます。これは山崎的には分かりやすく読めたので、個人的にはいい本だと思う。

 

だって賢く見られたかったんだもの

もっとね、こう、奔放にやろうぜっていう感じがするんです。

僕がある一冊の本について書いている記事を読んでもらうと、「真面目な山崎」が必死に著者の世界観についていこうとしている姿が思い浮かばれるはずです。なんだか情けない感じがすると思います。「大丈夫大丈夫、おれ、この人の言いたいこと、わかってるから…………!(猛烈に息切れ)」みたいな。

僕のように「賢く見られたい症候群」を発症しているバカブロガー共はね、そこのところを捨て切れない。自分勝手に本について語ることを良しとせず、良いカッコをしたがるのです。それはそれは、痛くかっこ悪いのです。

最近読んだ書評で、腹を抱えて笑ったのが、かたむきみちおさんのこちらの記事。

propus.hatenablog.com

ずるいです。最高です。。。

最初に読んだ日なんか、3回くらい思い出し笑いしました。こういうことしたいんです。この余裕すごくないですか。

浅学だと、こういうことをする余裕が無いんです。できない。本について書くなら、しっかりと書かないとみたいな気持ちがどうしても出ちゃう。それは冒頭に書いた、「賢く見られたい症候群」なんです。うんこみたいな虚栄心なんです。僕はうんこ。

最近取り上げた『新書がベスト (ベスト新書)』でも、なぜ本が面白いのかについての記述がありました。

 しかし、本の価値は、極論すれば、内容が偏っていることにあります。
 ひとりの著者が、独断と偏見による考えを披露するのが本です。両論併記の中庸な意見より、いろいろな立場からの独断と偏見をいくつも取り入れたほうが、はるかに情報として意味があるのです。

文章を読むことの魅力、意味とは、著者の独断と偏見、クレームに触れること。独断も偏見もない無難な解釈に、情報としての意味というか、価値はあるのか?僕が書籍について書いてきた文章を見返すと、なんかもう、当たり障りのないように書いてきてることがモロバレな感じが、すごい。

僕が今までやってきたことは、「山崎は頭が悪い」と言われてきたコンプレックスを埋めるための惨めなオナニーだったのです。せっかくオープン自慰を趣味としているのだから、もっと自信を持って、読んだ時の感想をぶつけるみたいなことをしていきたいよね。結果、もっと恥ずかしい結果に終わっても、きっとそっちのほうが楽しいし、僕が書いた内容にも、僕自身が納得するんだと思う。

無責任かもしれないけど、端っから虚飾ばかりの態度では、発言の責任なんて持てません。「ごめんごめん、今のな~し!」と記事を消せるのです。性格は一朝一夕で治るもんじゃないけれど、「えいや」とやってしまえるメンタリティは身につけて損はない。高々1日平均60PVくらいのブログなんだし、好きなようにやればいいのに。ね、自分よ。

きっと明日書く記事も、いい子ちゃんになっちまうんじゃないかという悪い予感を感じながら、寝ます。

『親権と子ども』──親になるとはどういうことかを考える

 

親権と子ども (岩波新書)

親権と子ども (岩波新書)

 

「親権」というものについてあまり考えてこなかった。

山崎に子はいないけれど、子どもたちと遊んだり、喋ったり、交流したりする機会は、一般的な成人男性よりも高い。たぶん。そう言えるのは、子どもと関わる活動に参加しているからだ。

子どもの自発的な遊びの空間を保障する「冒険遊び場」や、ナマの文化芸術に触れることで子どもの心と地域を育てる「子ども劇場」に小さい頃から参加していると、「子どもの権利」を大事にしようとする大人は多いのだと感じる。中学校のうちから「子どもの権利条約」を知ることができたのは、難しいと感じていた中学時代を生き抜くのに役立った。

いやーやっぱ子どもの権利大事だよね~と思いながら、本屋をうろついていた時のことだった。「子どもの権利条約」に触れる機会は多いが、親の権利について、しっかりと目を向けてなかったことに気がついた。

子どもの権利もあれば、当然親にも権利があるだろうと予想される。しかし、親がどのような権利を持っているのか、ということについて今まで興味がなかったのだ。その時に目に止まったのが、まさしく本書『親権と子ども』だった。

親と子の関係性を、法的解釈からリアルな現場での実態を通して著している良書だと思う。本書の構成は「Ⅰ.親権とは何か」「Ⅱ.離婚と子ども」「Ⅲ.親権と虐待」という3部構成だ。僕のように、そもそも親権ってなんだ?と思う人はⅠ章から読んでおくと良い。Ⅱ章やⅢ章は、それぞれ離婚と虐待という社会問題から切り込んで、単なる人間関係の良し悪しではなく、法制度的な視点から親権の実態を浮かび上がらせる。

ところで「親権って何ですか?」と言われてサラリと答えられる人がいるだろうか。子どものための活動の手伝いをしてきたけれど、恥ずかしながら山崎は答えられなかった。

 「親権」は、民法に出てくる法律用語である。文字通りに読めば、「親の権利」だが、民法八二〇条には、次のように書かれている。

民法八二〇条
 親権を行うものは、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を追う。

 少しややこしいが(中略)
 「成年に達しない子の身上の世話及び教育並びに財産の管理のために、その父母に認められる義務及び権利の総称」 

親権は権利と同時に義務であるという点は、ちょっと難しい。これは、「親権とはいったい誰のものなのか」という疑問に深く関わることになる。誰の誰に対する権利で、誰の誰に対する義務なのか?

 おおむね研究者のあいだでは……親子間の関係では、親権は親から見れば、子どもの利益のために子どもの監護と教育などをおこなう「親の子どもに対する義務」であり、子どもからみれば、監護と教育などを親に求める「子どもの権利」であるとされる。そして、社会や国と親との関係では、監護や教育に不当に介入するものに対して、その介入を拒む「親の権利」であると理解されている。

つまり親権は、親が持つ子どもへの支配的な権利ではない。2011年の法改正で、民法八二〇条に「子の利益のために」という言葉が加えられ、「子どもに対する親の義務」という性格が明確になった。つい最近まで「子の利益のために」という文言が無かったのも驚きだ。「子どもの権利条約」の批准から17年もかかっている。

今の「親権」は、「親のための権利」というよりかは、「子どものための権利である」と言える。親は勝手に親権を放棄することができない。「親権」は一般的な権利と名前のつく概念とは異なる性格を持っている。

子どもは2011年にできた「家事事件手続法」によって、夫婦間の争いや家族についての争い事において、意見を表明する機会を設けられるようになった。子どもが親権の停止などを申し出ることもできる。これらの親権の性格や、それを取り巻く法律が、実際どのように機能しているかについては、本書をⅡ章、Ⅲ章まで読み進めて欲しい。現場の厳しさと、制度上の限界を知ることができる。

「親権」において、親は、子どもの利益のために、最善を尽くす義務がある。子は親の奴隷でも、小間使いでも、言いなり人形でも、将来の金づるでも無い。「自分はこの子の親である」と豪語するならば、「子どもにとっての最善」を考えて行動する義務があることを知ろう。

全国の親御さんは勿論のこと、未だ子どもを産んでいない人たちにこそ、本書は読まれてほしい。法律という分野であるからには、さぞややこしいのだろうと思われるかもしれないけれど、中学校卒業くらいの国語力があれば、普通に読める内容だと思う。

「親になるってどういうこと?」というテーマで語ってみると、きっといろんな意見が出てきて面白い。人間味溢れる、様々な回答があがってくるはずだ。どうにもごちゃごちゃしてくるなら、親権の法律的な視点を思い出してみると良い。

法律上、親になるということは、自分の子どもを一人の人間として尊重しつつ、子どもにとっての最善を尽くすことである。

『新書がベスト』──読書術本の個人的優勝候補

 

新書がベスト (ベスト新書)

新書がベスト (ベスト新書)

 

 読書をしなきゃと思っていても、これがなかなかできないと思う人は、小飼弾さんの『新書がベスト』を読んでおいて損はない。特に小説ではなく、ノンフィクションを読みたいという場合は、とりあえずこの本を読んで、実践してみてほしい。読書の習慣が身につくはずです。読書の心構えと効能を、読み手に分かりやすく説明しているし、他の読書術本にありがちな、「中途半端な真面目さ」がほとんど無い。

著者の小飼弾さんは無類の本好きで、彼の運営する読書ブログは月刊100万PVを超えている。1冊10分から20分で1日10冊程度読んでいるというから驚きだ。読書を習慣づけたい人は、読書とは気軽で、楽しいものであるということを知らなければならない。読書は気軽でいいということを知るのに、本書はうってつけだ。同じ著者で『空気を読むな、本を読め。』とか『本を読んだら、自分を読め』とかもあって、こちらもなかなか面白い。けど、断然こっちをおすすめしたい。何故か?タイトル通り、読書の入り口には「新書がベスト」だからだ。

読書に苦手意識を持つ人は本書を読むことで、少なくとも「新書読み」になれる。この本は著者が「新書さえ読めば今の時代生きていける」と豪語するところに、他の読書本とは違った特徴がある。

これからの世の中で生き残りたければ、新書を読め。
本書で私が言いたいことは、たったこれだけのことにすぎません。 

なぜ生きるために読書をせねばならんのか、という理由については、よくある読書本とまあ同じ。ITが発展し、既存の仕事が自動化していくことが目に見えているので、人間は機械ができない仕事をできるようになっていなければいけない。さらに、箸にも棒にもかからないクソ情報で溢れる現代を生き抜くには、情報を取捨選択して自分で引っ張ってくる、それでもって自分自身の力で「知の体系」を作る力も必要だと小飼さんは主張する。

さて、真面目な方は「新書だけで本当に大丈夫なんだろうか」と思われる方もいるかもしれない。

小飼さんに言わせれば、「1000円以上出す価値のある本は、そんなにない」という。

パレートの法則という経済学の考え方がある。会社組織で例えるなら、組織全体の利益は、2割の重要な人々が生み出しているというアレだ。本にも同じ事が言えるのではないか?と小飼さんは言う。つまり、あなたにとって、「こいつはすげぇ!」と思える本は、あなたが読む本の2割にすぎない……のだとしたら?これからたくさん本を読もうとしているのに、読みにくく、場所を取り、値段の高いハードカバーを選ぶ理由は少ないはずだ。

また、新書はコンパクト故に、習慣化しやすいという最大の特徴がある。

 なにか新しいことにチャレンジするのなら、それを習慣化してしまえばよいのです。
 読書の場合なら、いつでも目に入るところに本を置いておくことが習慣化の第一歩。

新書は男性用の大きめズボンの尻ポケットに入れることができるくらいの大きさだ。さすがに尻ポケットからヌルリと新書を出して読むのは変かもしれないけれど、カバンのポケットになら余裕で入る大きさだ。いつでもどこでも持ち運べる大きさなのが新書の良いところだ。収納にもハードカバーほど困らないから、家のあちこちに新書を置いておこう。

長さも非常に丁度いい。読書に慣れてくれば、30分から1時間程度で読み通すことができるライトさは、読書に苦手意識を持つ人にとっても都合がいい。

そして新書は中身が問われるものであると小飼さんは主張している。装丁で本の内容が想像できないからだ。新書はレーベルごとにカバーデザインが決まっているため、見た目の豪華さでごまかせないから、中身を読まなければいい本か悪い本か分からない。よほどタイトルがキャッチーか、中身が良いかでしか売れない。そのため、新書にもいい本がたくさんある。その証拠に小飼さんは、「ブックオフには新書が出回りにくい」と主張する。

しかしこれは本当か。ブックオフの新書コーナーもだんだん賑わってきているように思うな、と感じる人もいるだろう。

これは仮説だけれど、新書もクソ本が増えてしまっただけだ。新書ブームというのが2005年くらいのときにあった。養老孟司さんの『バカの壁』を筆頭に、新書が売れに売れた。宮崎哲弥さんの『新書365冊』にも書かれていた気がするんだけど、この頃からちょっと様子が代わり、キャッチーなタイトルで釣り上げるだけ釣って中身がクソなものが新書に多くなった。新書が軽んじられる要因の一つになっていることは嘆かわしいが、クソ本にも効能がある。批判能力の向上だ。

読み終わるのにさほど時間がかからない新書だが、それでもネット記事やブログ記事なんかよりは、練られた文章であることは間違いない。著者は根拠を提示しながら自分の論を展開する。思いつきで批判やツッコミは入れられない。そこで、どこをつついたら著者の主張の妥当性が崩れるのかを探しながら読むのも面白いところだ。

今こそ新書を見直す時だと思う。読書の習慣も身につくだけでなく、程よい長さなのでダメ本に対するツッコミもしやすい。ベストセラーが解説付きで新書化もする。最近でもないけど、福岡伸一さんの『動的平衡』などは新書化された。リーズナブルな価格帯だから、よほどお金に余裕がない時以外は、著者応援ということで新刊を買える。

コストパフォーマンスという言葉が大好きな現代人にぴったりのメディアが新書なのだ。

自分の書いた文章を読み返すと恥ずかしすぎて心が死ぬ

過去に書いた文章を読み返すと、100パーセント恥ずかしくなる状態になってしまいました。文章練習と読書仲間を増やす為に運営していたブログですが、文章の腕前は未だに自分の納得いく状態にはなっておりませんし、せっかくできた読書仲間とは疎遠になってしまいました。

当ブログですが、なんだか読んでいて面白くない記事が増えてきてしまっている気がします。アクセス数とかにもそれは現れておりまして、もともと雀の涙ではありましたが、これも徐々に減少傾向です。「点の記録」というタイトルでやってきたけれど、点ばかり打って線を繋げられないのでは、アホを露呈するだけで、皆様のお役に立てる情報はおろか、ふざけたことを書いて楽しませることもできていないということでしょう。お恥ずかしい限りです。

以前、ブログ執筆は公開自慰であるだのと発言したことがありますが、どうせ自慰を見せつけるのであれば、質の高いものでありたいものでした。僕が僕の記事ひとつひとつを自慰と貶めたのは、自分の書いたブログ記事というのは、元々はそういう見るに耐えないランクに位置するゴミクズコンテンツなんだぞ!だから人一倍クオリティに気を使えよ!という自戒の念も込めての発言でした。

しかし、これではツイッターで回ってきた山崎ケイさんの「仮定ブス幸福論」と殆ど同じ考え方をしているんだなと感じ、愕然としました(仮定ブス幸福論には賛同しかねる点が多いので)。わざわざ自虐をする必要性無いのにね。趣味なんだし気楽にやろうぜ。これを忘れていました。

いやーもう自慰だの書いちゃったし、いいかー適当でーと、無意識が自分の書く文章のクオリティというものに限界を作っていたのかもしれません。脳みそというのはポジティブだろうがネガティブだろうが、脳にとって一番心地よい状態を維持しようとする働きがあるそうですからね。

そういや、最初は文字数とか、アクセス数とか、なんかそういうものを気にせず自由に書いて満足してたなぁということを思い出しました。ある程度本のことを書くとは決めていましたけど、細かいことは何も決めておりませんでした。だから楽しかったのか。

今では、なんとなくひとつの記事は1500文字以上にしなきゃとか、しっかりとした文章を書けるようになるまで持論をひけらかすのを防ぐ為に書籍についてしか書かないとか、いろいろ決めてたけど、結局守れずじまいってことが多い。ルールを決めるとスイスイ書けるという人がいるけれど、僕の場合は逆のようです。なので、諦めることにしましょう。自分をあらかじめ細々としたルールで縛るのなんて器用なことはできない人間なのだから、最初からもう諦めてしまえ。これ以上口だけ人間になる前に、自分が何かを成すと決めてしまった場合は胸の内に秘めようと思います。

今すぐにでも、過去に書いた記事を消したい衝動に駆られておりますが、僕にはこの恥ずかしくて死にそうな心が、今はしっかりいい薬になっている気がします。実は今まで目を背けていた部分ではあります。冷静に自分の文章の反省点を見つけて、それを改善していくという当たり前のことをしっかりとやれていなかった。文章をわざわざ添削してくれる人なんていませんからね。今後はどこが悪かったのかというところまで目を向けるために、黒歴史と共に生きていく所存であります。

人に楽しんでもらえる文章を書けるようになったと納得するまでは、ぜひとも続けたい趣味ですよ、これは。