点の記録

点と点が結ばれるのをじっと待つブログ。主に書籍について。サブで音楽やら映画やら。

『猫語の教科書』

人間の心を最も動かすことのできる動物は人間ではない。猫である。

猫が嫌いであるという人はこの世にいない。もしもいたとしたら、おそらく猫に親戚か友人知人を殺された者たちだ。そういう人は無理に猫を好きになる必要は無い。至極少数である。そのような人たちから好かれなくても、猫を好いている人間というのは掃いて捨てるほど存在するから、猫にとってはどうということはない。

彼らがいかに人間心理を理解しているかということが伺い知れる資料がある。スノーグースなどの作品で知られる作家のポール・ギャリコによる『猫語の教科書』だ。ポール・ギャリコはこの著作において、猫語の翻訳を行った数少ない人物である。

 

猫語の教科書 (ちくま文庫)

猫語の教科書 (ちくま文庫)

 

 

もともとの原稿の作者は不明だが、ポールの翻訳によれば、メス猫であり、生後すぐに交通事故で母を亡くし、野良猫生活中に一念発起して人間の家の乗っ取りを決意し、4匹の子猫を理想的な家庭へと送ったやり手である。想定読者は猫である。

なんと言っても本書のメインコンテンツは人間心理をコントロールした一家征服術である。捨て猫から理想の家庭へ潜り込むときの手法(金網にしがみついて哀れな子猫を演じる)や、家の中に断固として入れることを拒否した主人を、ものの10ページ足らずで懐柔する様子など読むにつけ、同じことをされては僕も「この猫を飼う!!」と心に決めるに違いないと思う。猫の行動が人間に対してどのように見えるのかを熟知した、圧倒的体験知から繰り出される技法と主張には舌を巻く。文体が非常にいじわるだが、妙に説得力がある。ぐうの音もでない。

「擬人化」ということばがこの本にはひんぱんに出てきますから、意味を理解してください。「擬人化」とは、動物やものを人間になぞらえることです。どうしてそんなことをするかというと、人間はうぬぼれ屋で、世界は人間を中心にまわっていて、地球上で一番すばらしいのは人間だ、と考えているからなんです。おかげで人間は、1日のうちの半分は私達を猫ではなく、人間に近いものだと考えているの。

そういえば、猫の動画を視聴している間、勝手に脳内でアフレコをしていた気がする。我々は多くの動物に対して擬人化をしているが、こと猫に関しては顕著になる。猫が飯を食いながら鳴いたりすると「うまい、うまい」と聞こえたりするし、見つめられると「どうしたの?ご主人」と言われている気がするし、猫じゃらしで共に戯れるのを見ると子どもと遊んでいる心地がする。

また、人間を猫化したりもする。可愛らしいものを猫に例えたりする。猫耳は海外でも日本でも万国共通でニーズがある。猫なで声という人間が出す声もある。

人間は猫を人間に寄せて考えようとするが、そこを逆手に取られ、あれよという間に思考や習慣を猫に支配されていることに気が付かないのだ。

やけに頭の良い猫は、「快適な生活を確保するために、人間をどうしつけるか?」というテーマで書かれた本書を読んでいるかもしれない。我々は彼らの手の内を知り、堂々と猫に飼いならされるべきである。人間が猫を飼っているのではない。猫が人間を飼っているのである。それは大いに喜ぶべき真実である。

『古代ローマを知る辞典』

古代ローマを知る事典

古代ローマを知る事典

 

 2004年の本なので、最新の研究結果とは違う部分があるのかもしれないが、まさしく古代ローマを知ることができる一冊だ。予備知識はほとんどゼロで良い。歴史にさほど関心や熱意のない人であったとしても、スラスラと読み進めることができるほど平易に、わかりやすく纏まっている。

 さて、この本を読み始めるまで、山崎は古代ローマなんて微塵も興味がなかった。世界史のおさらいをしていると、序盤の方にでてくるやけにデカい帝国、あるいはテルマエ・ロマエと関係する古代の文明、という印象くらいだった。あとは哲学史とかでちらっとかじる程度で、具体的にどういう文化だったのかということには、殊更興味が沸かなかった。現代のニュースや出来事についてあれこれを考えるとき、古代ローマを引き合いに出して考える人は稀な気がするしね。偏見かもだけど。だから、山崎的には薄い存在だった。

  ローマのことをほとんど知らない山崎が面白いと感じ始めたのは、本書の第2部からだ。第1部は「古代ローマ帝国入門」と第されているとおり、ローマ帝国概説である。歴史の教科書にも載っているような基本的な情報もあるが、帝国の細かな制度についてだったり、ローマという都市にはどんな人々が住んでいたのかという受験にはあまり必要のない知識が得られたりするので、それはそれで興味深かったりするのだけど、第2部の「古代ローマの社会と生活」からが、個人的には面白い。

 本書の第6章「人口からローマ社会を見る」によれば、古代ローマの首都であるローマ市は、べらぼうな過密地域だったらしい。紀元前350年ごろの人口が30,000人だったのに、164年ごろにはなんと100万人都市となった。

 墨田区(人口25万人ほど)ほどの大きさのローマ市に100万人すべてがすし詰めになっていたわけではないが、交通網などが発達していなかったため、市街地から遠く離れて暮らす人も少なかったと考えられている。現代東京もびっくりの過密地域へ上京してきた諷刺詩人ユウェナリスのぼやきが引用されていて、これが面白い。

 …われわれはいくら急いだところで、前にいる人の波につっかえてしまい、あとから来る群衆はこれまた大勢で腰を押してくるのだ。こっちのやつが肘でけんつくを食わせると思えば、こっちの奴は、固い輿の長押をぶつけ、こいつは材木を、あいつは油の樽を私の頭にぶつけてくる。

 それでもって、住宅事情はまさに今の東京のような状態で、読んでいて謎の親近感が湧いた。

 人口の過密は土地不足を生じさせ、土地の不足は土地価格の高騰と住宅の高層化を生じさせていた。とりわけ首都ローマでは、アパート形式の集合住宅が数多く建てられ、庶民の多くがそこで暮らしていた。そうした集合住宅が6棟から8棟ほど密集して一つの街区に建てられて、街区の殆どが占領されていた貧乏街は、その街区自体がこんもりと盛り上がった島のような景観を呈していたに違いない。

 無学の者には遠い存在だった古代ローマが、こういう情報によって急に近くなる。ちょっと歴史との距離感が縮まる思いがして、なんだか嬉しかった。他にも、都市部に住む人々は街の喧騒に嫌気が差し、自然的な、静かな空間へ憧れを持ったりしたローマ人なんかもいたということを知ったりすると、過密地域では、人種や時代が違ってもおんなじような反応をするものだなあと感心したりした。

 著者の長谷川岳男、樋脇博敏の両名とも歴史学者であり、共にローマや古代地中海世界についての学術系の本を書いている。ビジネスライターが書いたいい加減な歴史本ではない。専門家2人によってローマのエッセンスが凝縮された一冊だ。

 巨大帝国の栄枯盛衰ぶりだとか、強大な権力による「悪」の側面だとかをフューチャーされがちなローマ帝国。本書は、そうした一般的な古代ローマのイメージを持つ人にとっては、別の見方、別の知り方を教えてくれる。

 ローマなんて全然知りません、興味ありませんという人にとっても、想像以上に発展しているローマの人々の暮らしぶりや、それらと現代の暮らしぶりを比較することが、それなりに楽しいらしいということを体験するきっかけを与えてくれる本になるかもしれない。

長谷川さんのこの本もおすすめ。

 

趣味をプロレベルにまでしたいならどういう生活をすればいいか

 自分が趣味だと思っているものを、仮にプロレベルにまでスキルとして熟練させるにはどうすれば良いか、ということを考えてみる。

 まずこの記事を読むにあたって受け入れて頂きたい前提がある。
 それは「時間をかければかけるほど熟練する」ということだ。

 スキル習得において、効率の良いやり方とか、個人の性格、向き不向きなど、不確定要素を一切考慮せず、時間をかければかけるほど良いという前提で考えてみたい。もちろん、この前提にも反論はあるだろう。効率の良いスキル習得方法があれば、1日30分でも3年立てばプロ並みになれるかもしれない。だがそんなもんが誰にでも効くなら、もっと独立開業している人口が増えても良いはずだ。大事なのは量ではなく質であるという主張もあるだろうが、質を高めた上で時間をかければ更に上達するわけで、この意味では、なにか物事を熟練させるには、時間をかけない手は無いと考えている。

 ではまず、一つのことを仕事として熟練するにはどれほどの時間がいるだろうか。

 ジャーナリストのマルコム・グラッドウェルが書いた『天才!成功する人々の法則(原題:Outliers)』という著作がある。この本でグラッドウェルは、「かつて天才だと言われていた人々は、最低でも1万時間くらい練習とか仕事に費やしてたよ」というシンプルな主張を提示した。

 あまりにも身も蓋もない。さらに言えば残酷である。なぜならこの主張は言い換えれば「天才でも最低1万時間は必要である」と見ることもできる。我々凡人はどうすればいいのだろうか……と途方に暮れるしか無い。

 だから、チートを好む成功法則界隈では不人気な印象がある。それにしても、そりゃそうだよなと頷ける妥当な主張だ。こういう当たり前のことを言ってくれる本は最近の啓発本では見なくなったので貴重である。

天才!  成功する人々の法則

天才! 成功する人々の法則

 

 仕事にどれだけ人生を費やしているかという計算してみる。山崎の場合、拘束時間はさておき実労働時間でみてみると約9.5時間ほどだ。出勤日を1ヶ月20日とすると、約190時間仕事に費やしている。1年で2280時間。山崎は今の仕事についてから3年も経過していない。1万時間を一つの基準にするならば、5年目である程度熟練した人材になる予定である。向き不向きもあるだろうが、職場の凄く仕事できる人を見ていても、5年かそれ以上勤めている人が多い気がする。

 ちなみに、2280時間というのは1年の26%を仕事に時間を使っている計算になる。日本人の平均就業時間が9.1時間だから、だいたい日本人は30%くらい仕事に人生を使っていることになる。もし働きたくもない職場にいるのなら即刻やめたほうが良い理由はここにあるかもなと思った。1年の3割を辛いことで占めるのは自然な状態ではない。

 話がそれた。

 さて、趣味を仕事レベルにまで到達させるために必要な時間も1万時間ほどであると仮定したとして、どの程度の年数で達成可能か。

 毎日3時間、365日続けたとしても10年かかる。

 もし仕事と同じレベル、つまり5年ほどでプロ並みの腕前をこさえたいのであれば、仕事と同じ量(山崎の場合は9.5時間)をかけてやる必要がある。

 9.5時間既に仕事に取られているので、もし9.5時間別のことだけやろうとすると、睡眠を含めたその他の生活を5時間で処理しなければならない。身体を壊す。確実に壊す。

 では休日を勤務時間分ほど利用し、足りない分を平日に回すという考えはどうか。休日が10日あると仮定するなら95時間稼げる。1ヶ月の労働時間は約190時間だから、残りは190-95=95時間。これを20で割ると、4.75時間。

 つまり……もし山崎のように、1日9.5時間働き、10日もお休みが貰えるという条件で勤労されている方が、仕事時間と同じ時間だけ趣味を確保し、5年間で熟練しようとするならば、毎日同じことを、出勤日に4時間45分、休日に9時間30分続けると、約5年で1万時間に到達し、プロ級になれるかもしれない。

 

 きっつ!!!

 

 お手軽自己啓発に頼りたくなるわけだよな。

 ところで、あまり趣味に一生懸命になっていない人が多い気がする。ネットを見渡せばたくさんいる。それで中には「プロになりたいな~」と思ったり、それで終わってしまっている人もいる。創作活動なり、スポーツなり、ブログという公開オナニーなり、仕事をもらうためにやるわけでは無いけれど、どうせ趣味として始めたことがあるなら、人よりも上手になっておきたい気がするのは僕だけでしょうか。

 逆に言えば、10年頑張ってから、ようやく「自分には向いていなかった」と言えるのかもしれない。損切りをするにしても、2~3年は続けてみないことには分からない。「才能がない」と諦めるよりも、毎日3時間続けたいと思うものか?と自問すれば、才能なんぞに悩まされないで済む。なかなか上達しないのは、時間をかけてないからだ。

 努力不足は嘆いても仕方がない。

SNSの通知を全部オフにしたことでわかったこと

 ハウツー系の記事ってなんかちょっと恥ずかしいからあまり書かないようにしていたんだけど、実践して効果があったので、このテーマで書いておく。

 実はちょっと前に同じようなタイトルで記事をアップしたんだけど、なんか恥ずかしくなってやめた。しょーもない文章はこのブログに掃いて捨てるほど存在しているけれど、読み返した時にとても恥ずかしくなってしまった。

 ではなぜ同じような内容で、もう一度こんなエントリを書いているかと言うと、SNSの通知オフマジでおすすめだから一回やってみて欲しいということをどうしても伝えたかったから。

 通知をオフにしたことによって、

 1.趣味に費やす時間が増える

 2.通知に行動を支配されなくなる

 3.無理なくSNSから遠ざかることができる

 という一石三鳥を味わった。順を追って説明する。

1.趣味に費やす時間が増える

 SNS自体が趣味ですという人は読み飛ばして欲しい。そうではなくSNS以外にも趣味があるんだけれど、なぜか最近全然それを楽しめていないという人は読んでほしい。 

 山崎も、最近なんだか好きなことをする時間が無いなぁ~と漠然思っていたが、特に見直したりせずに2年くらい過ぎた。ただ、これではいか~ん!と思いなおし、自分の生活にどれだけ無駄な時間があるかを測ってみることにした。

 自分にとって無駄なもの、というより離れることができればいいなと思うもので最初に思い浮かばれたのはSNS。理想としては当ブログに新しい投稿をしたときの通知のみにしたいけれど、なかなか離れられない。じゃあ、どれだけSNSに時間を使ってしまっていたかというのを計算してみるところからはじめてみた。

 厳密に時間を測るなんて細かいことはできないからざっくりと計算してみることにした。山崎には1回SNSのチェックをはじめると15分くらい使ってしまうという体感があった。例えば職場の休憩中、基本的には本を読んでいるんだけど、電子音とバイブレーションによって中断される。中には仕事関係のメールなどもあるから一応確認すると、Twitterやらfacebookの通知だ。まあ休憩中だしいいか、と思って確認すると、基本的にはどうでもいいことなのでスルーし、そのまま他の人のつぶやきやらを確認して……なんてやっていると15分はあっという間だ。

 その他電車の中や、マジで危険だからやめるべきだけど歩行中などにもチェックしてしまっていた。というわけでこれもいい加減だけど、1日最低でも5回ほどはチェックする。そうすると、概算で15分×5回=75分を使っていることになる。ちなみに大手広告代理店の博報堂が2015年に1000人を対象としたアンケートの結果も、SNS利用時間は1日平均78分らしい。参考にしてみてほしい。

marketing-base.jp

 75分!それだけあったら簡単なビジネス書一冊を読み終えることができるし、ブログの記事のひとつふたつくらいはこさえることも可能だ。その時間を、さして重要な情報も無いSNSのチェックに使っているとは、なんだかひどく勿体無い気がしてきた。

 皆さんも自分が、どれくらいSNSに時間を使っているかを、自分なりの計算方法で算出してみて、その時間を他の趣味とかに充てられたら、と考えてみてほしい。

2.通知に行動を支配されなくなる

 SNSの入り口は通知である。自分からSNSを開こうという人もいるだろうけれど、大概は通知からSNSアプリを起動するはずだ。最近は、自分の発信した情報に対する反応の他に、フォローしているアカウントが、こういう発言に反応しました!という全然いらない情報までも通知してくるようになった。これが恐ろしい。SNSの滞留時間を増やし、広告をなるだけ目に留めてやろうという魂胆だ。その意味ではテレビと同じ手法って感じがしてなんか嫌だよね。

 で、山崎が行ったのは、通知の全OFF。自分へのメッセージに関するものも、一旦すべてOFFにした。よほど緊急性の高い連絡は電話でやってくるだろうから何も心配しなくて良いということを言い聞かせてOFFにした。実際困っていない。ネットでそんなに友達がいないからかもしれないけれど。

 文字情報のやり取りは、そこにビジネスが噛んでいない限りでは多少のラグが発生しても責められる言われはない。「SNSは見たい時に見る」という本来の態度を取り戻すべく、TwitterFacebookもすべて通知はオフ。すると殆どスマホを手にすることが無くなってしまった。

 外出先でも基本的に暇をつぶすときは本を読むし、誰かとでかけて場合はずーっと話をしているという感じなので、趣味や性格も関係しているだろうけど、通知OFFにしただけで、今は殆どSNSを見ていない生活を送れている。SNSと距離を置きたい人はえいや!と気合をいれながらやってみてほしい。失われた時間が戻ってくること間違いなし。

3.無理なくSNSから遠ざかることができる

 1番驚いたのは、あれだけ「やめなければ」と思っていたSNSを殆ど見なくなったことだ。どれだけ通知に自分の思考や行動が支配されていたのか。完全に山崎の経験則で科学的な根拠は一切無いけれど、体験知としては通知があるからSNSがやめられないと言っても過言ではない。

 自分がフォローするアーティストの活動だったり、支持する言論人の発言だったり、そうしたものが好きなら別にやめる必要を感じないかもしれないが、それは他の手段で入手可能である。

 例えばアーティストの活動に関する情報をいち早く確認したいなら、公式HPを毎日確認すればいい。1分ほどで新しいライブ情報があるかないかを確認できるし、最近はつぶやいた内容などをブログなどで公開している人もいるから、どちらも確認できる。フェイスブックページしか無いような人なら、ブラウザのブックマークに入れてブラウザから確認すればいい。支持する言論人についても、その人の書籍なり思想のバックボーンをネットで検索するなりすれば、ニュースにどんなコメントをしているかというのはある程度予測がつく。だから毎回毎回確認する必要は殆ど無い。

 ところで山崎の場合、稼げる時間は1日75分。読書量1冊増えるだけか……と思ったが、1ヶ月で30冊、1年間で365冊。恐ろしい。75分を無駄にするということは、チリも積もれば1年で365冊もの新しい読書体験との縁を切ることになる。皆さんの趣味ではどうだろう。ちょっと考えてみてほしい。通知からSNSに振り回されることが嫌なら、ぜひともアプリの通知を切っていただきたい。

体調崩し気味で赤字社員だと罪悪感が募るけど、社会は関係なく廻っていくので諦めてより良く社会で生きる方法を探すことにする

仕事を休むことが多い。理由は体調の不良である。

10代は胃腸の不調に苦しめられ、20代にさしかかっては扁桃炎に苦しめられている。

扁桃炎は手術をしなければ根本的な解決にはならない。しかも、手術と入院費には大体10~15万円かかって10~15日間は入院を余儀なくされ、なおかつ、術後も発熱を繰り返さないという保証は無いと言う。1~3ヶ月は喉の痛みと違和感との戦いである。客と対面してしゃべる職業に付いているので、なかなか決心がつかない。

普通のサラリーマンをしていると、体調不良によって自分以外のメンバーに迷惑をかけてしまう。少なくとも現状の仕事たと、どうしても迷惑をかける。僕はこういう体質なので、他人が体調不良で仕事を休むとなっても「仕方がない」と思える。しかし、僕が健康の権化のような人間で、風邪なんて10年に1度しかひきませんという羨ましい身体の持ち主だったなら、1ヶ月おきに体調を崩して、最悪仕事を休むようなヤツが居たとしたら、「さては仮病だな」と疑うだろう。

体調を崩し気味だと、社会からの信頼や信用を失いやすいのは、仕方がないと分かっていても切なくなるのは、僕がまだガキだからだろうか。1~2ヶ月おきに1~2日体調を崩すとしても信頼してくれるような仕事というのは、一般的な職業には殆ど存在しない。営利を目的としたすべての仕事には、価値を出して金をもらい、自社の事業を拡大して、儲けの最適化を図るという原理原則がある。体調を崩すヤツは、このルールからして、はっきりいってお荷物である。

資本主義が存在しない地域であっても、人間心理には返報性というものが存在する。お返しの心である。それによって人類は物質的にも情操的にも発展してきたが、体調が悪い人間は自由に動ける時間が他の人よりも少ないから、他人と比較したとき、この部分において負けてしまう。

チームで何かをやろうとする場合、担当が振り分けられるが、欠員がでると回らない状況があって、それでも体調を優先して休みをいれた場合、業態にもよるけれど、取り返すのに時間がかかる。その分働けば良いという意見もある。迷惑をかけた分、実績を伴って挽回すれば良い。

そうは言っても、僕が寝込むときというのは、人より大きい喉を腫らして、喉痛い~熱しんどい~と唸っているだけである。発熱で脳の回路が開かれて云々して、仕事ができる人格がいつの間にか形成されれば良いのにと、くだらない妄想をすることしかできないため、仕事で成果を巻き返すということ、では休み明けからやるのだと意気込んでも、どうにもならない部分は絶対にある。

つらいつらいと言っていても仕方がないので次の一手を考える。体調を今すぐに改善するのは難しいが、やれることはすべてやる必要がある。食事と運動に気を使い、22:30にはベッドに潜って23時には眠りにつくようにしてやる。扁桃腺炎防止によいとされることについて調べまくって実践する。僕は蓄膿症も持っているので、これの改善をすることも扁桃炎に大きくプラスの影響があるのではないかと睨んでいる。

やれることはやろう。この記事を読んでくださった皆様からの情報もお待ちしております。

あとは、万が一治らなかった場合についても想定しておく必要がある。

はっきり言って体調不良気味のヤツ=欠勤気味であり、僕が上司だったら出世させたくないし、もっと言うと辞めてほしいと思う。それはお互いの為である。生活保護でもなんでも申請して、無理なく生きていってほしいと思う。

だから、健康優良児前提の職場にそういう人が来てしまったのなら、クビにしてやったほうがお互いのためだ。発熱しているやつを無理やり出勤させて、ミスされたりするほうが会社にとっては損失だ。僕はただでさえ今の職場ではミスが多いため、これで38~39度の熱を出してミスをするとしたら、根拠はないが、どんなに大きなことになるか分からない。被害妄想甚だしいのは分かっているが、そういう風に考えたい時期なのかな。5月近いし。

いつクビを切られても良いように準備をしておくことを、体調管理とセットでやっていく必要がある。何が正しい世の中であるかわからなくなってしまっているので、安易に資格の勉強するとかすると、参考書代が無駄になる。

クビを切られてもいい用意ってのは、今取れる手段としては、その後の就活のための貯金くらいしか思いつかないので、ひとまず頑張って金を貯めます。