点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

『親権と子ども』──親になるとはどういうことかを考える

 

親権と子ども (岩波新書)

親権と子ども (岩波新書)

 

「親権」というものについてあまり考えてこなかった。

僕に子はいないけれど、子どもたちと遊んだり、喋ったり、交流したりする機会は、一般的な成人男性よりも高い。たぶん。そう言えるのは、子どもと関わる活動に参加しているからだ。

子どもの自発的な遊びの空間を保障する「冒険遊び場」や、ナマの文化芸術に触れることで子どもの心と地域を育てる「子ども劇場」に小さい頃から参加していると、「子どもの権利」を大事にしようとする大人は多いのだと感じる。中学校のうちから「子どもの権利条約」を知ることができたのは、難しいと感じていた中学時代を生き抜くのに役立った。

いやーやっぱ子どもの権利大事だよね~と思いながら、本屋をうろついていた時のことだった。「子どもの権利条約」に触れる機会は多いが、親の権利について、しっかりと目を向けてなかったことに気がついた。

子どもの権利もあれば、当然親にも権利があるだろうと予想される。しかし、親がどのような権利を持っているのか、ということについて今まで興味がなかったのだ。その時に目に止まったのが、まさしく本書『親権と子ども』だった。

親と子の関係性を、法的解釈からリアルな現場での実態を通して著している良書だと思う。本書の構成は「Ⅰ.親権とは何か」「Ⅱ.離婚と子ども」「Ⅲ.親権と虐待」という3部構成だ。僕のように、そもそも親権ってなんだ?と思う人はⅠ章から読んでおくと良い。Ⅱ章やⅢ章は、それぞれ離婚と虐待という社会問題から切り込んで、単なる人間関係の良し悪しではなく、法制度的な視点から親権の実態を浮かび上がらせる。

ところで「親権って何ですか?」と言われてサラリと答えられる人がいるだろうか。子どものための活動の手伝いをしてきたけれど、恥ずかしながら僕は答えられなかった。

 「親権」は、民法に出てくる法律用語である。文字通りに読めば、「親の権利」だが、民法八二〇条には、次のように書かれている。

民法八二〇条
 親権を行うものは、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を追う。

 少しややこしいが(中略)
 「成年に達しない子の身上の世話及び教育並びに財産の管理のために、その父母に認められる義務及び権利の総称」 

親権は権利と同時に義務であるという点は、ちょっと難しい。これは、「親権とはいったい誰のものなのか」という疑問に深く関わることになる。誰の誰に対する権利で、誰の誰に対する義務なのか?

 おおむね研究者のあいだでは……親子間の関係では、親権は親から見れば、子どもの利益のために子どもの監護と教育などをおこなう「親の子どもに対する義務」であり、子どもからみれば、監護と教育などを親に求める「子どもの権利」であるとされる。そして、社会や国と親との関係では、監護や教育に不当に介入するものに対して、その介入を拒む「親の権利」であると理解されている。

つまり親権は、親が持つ子どもへの支配的な権利ではない。2011年の法改正で、民法八二〇条に「子の利益のために」という言葉が加えられ、「子どもに対する親の義務」という性格が明確になった。つい最近まで「子の利益のために」という文言が無かったのも驚きだ。「子どもの権利条約」の批准から17年もかかっている。

今の「親権」は、「親のための権利」というよりかは、「子どものための権利である」と言える。親は勝手に親権を放棄することができない。「親権」は一般的な権利と名前のつく概念とは異なる性格を持っている。

子どもは2011年にできた「家事事件手続法」によって、夫婦間の争いや家族についての争い事において、意見を表明する機会を設けられるようになった。子どもが親権の停止などを申し出ることもできる。これらの親権の性格や、それを取り巻く法律が、実際どのように機能しているかについては、本書をⅡ章、Ⅲ章まで読み進めて欲しい。現場の厳しさと、制度上の限界を知ることができる。

「親権」において、親は、子どもの利益のために、最善を尽くす義務がある。子は親の奴隷でも、小間使いでも、言いなり人形でも、将来の金づるでも無い。「自分はこの子の親である」と豪語するならば、「子どもにとっての最善」を考えて行動する義務があることを知ろう。

全国の親御さんは勿論のこと、未だ子どもを産んでいない人たちにこそ、本書は読まれてほしい。法律という分野であるからには、さぞややこしいのだろうと思われるかもしれないけれど、中学校卒業くらいの国語力があれば、普通に読める内容だと思う。

「親になるってどういうこと?」というテーマで語ってみると、きっといろんな意見が出てきて面白い。人間味溢れる、様々な回答があがってくるはずだ。どうにもごちゃごちゃしてくるなら、親権の法律的な視点を思い出してみると良い。

法律上、親になるということは、自分の子どもを一人の人間として尊重しつつ、子どもにとっての最善を尽くすことである。

『新書がベスト』──読書術本の個人的優勝候補

 

新書がベスト (ベスト新書)

新書がベスト (ベスト新書)

 

 読書をしなきゃと思っていても、これがなかなかできないと思う人は、小飼弾さんの『新書がベスト』を読んでおいて損はない。特に小説ではなく、ノンフィクションを読みたいという場合は、とりあえずこの本を読んで、実践してみてほしい。読書の習慣が身につくはずです。読書の心構えと効能を、読み手に分かりやすく説明しているし、他の読書術本にありがちな、「中途半端な真面目さ」がほとんど無い。

著者の小飼弾さんは無類の本好きで、彼の運営する読書ブログは月刊100万PVを超えている。1冊10分から20分で1日10冊程度読んでいるというから驚きだ。読書を習慣づけたい人は、読書とは気軽で、楽しいものであるということを知らなければならない。読書は気軽でいいということを知るのに、本書はうってつけだ。同じ著者で『空気を読むな、本を読め。』とか『本を読んだら、自分を読め』とかもあって、こちらもなかなか面白い。けど、断然こっちをおすすめしたい。何故か?タイトル通り、読書の入り口には「新書がベスト」だからだ。

読書に苦手意識を持つ人は本書を読むことで、少なくとも「新書読み」になれる。この本は著者が「新書さえ読めば今の時代生きていける」と豪語するところに、他の読書本とは違った特徴がある。

これからの世の中で生き残りたければ、新書を読め。
本書で私が言いたいことは、たったこれだけのことにすぎません。 

なぜ生きるために読書をせねばならんのか、という理由については、よくある読書本とまあ同じ。ITが発展し、既存の仕事が自動化していくことが目に見えているので、人間は機械ができない仕事をできるようになっていなければいけない。さらに、箸にも棒にもかからないクソ情報で溢れる現代を生き抜くには、情報を取捨選択して自分で引っ張ってくる、それでもって自分自身の力で「知の体系」を作る力も必要だと小飼さんは主張する。

さて、真面目な方は「新書だけで本当に大丈夫なんだろうか」と思われる方もいるかもしれない。

小飼さんに言わせれば、「1000円以上出す価値のある本は、そんなにない」という。

パレートの法則という経済学の考え方がある。会社組織で例えるなら、組織全体の利益は、2割の重要な人々が生み出しているというアレだ。本にも同じ事が言えるのではないか?と小飼さんは言う。つまり、あなたにとって、「こいつはすげぇ!」と思える本は、あなたが読む本の2割にすぎない……のだとしたら?これからたくさん本を読もうとしているのに、読みにくく、場所を取り、値段の高いハードカバーを選ぶ理由は少ないはずだ。

また、新書はコンパクト故に、習慣化しやすいという最大の特徴がある。

 なにか新しいことにチャレンジするのなら、それを習慣化してしまえばよいのです。
 読書の場合なら、いつでも目に入るところに本を置いておくことが習慣化の第一歩。

新書は男性用の大きめズボンの尻ポケットに入れることができるくらいの大きさだ。さすがに尻ポケットからヌルリと新書を出して読むのは変かもしれないけれど、カバンのポケットになら余裕で入る大きさだ。いつでもどこでも持ち運べる大きさなのが新書の良いところだ。収納にもハードカバーほど困らないから、家のあちこちに新書を置いておこう。

長さも非常に丁度いい。読書に慣れてくれば、30分から1時間程度で読み通すことができるライトさは、読書に苦手意識を持つ人にとっても都合がいい。

そして新書は中身が問われるものであると小飼さんは主張している。装丁で本の内容が想像できないからだ。新書はレーベルごとにカバーデザインが決まっているため、見た目の豪華さでごまかせないから、中身を読まなければいい本か悪い本か分からない。よほどタイトルがキャッチーか、中身が良いかでしか売れない。そのため、新書にもいい本がたくさんある。その証拠に小飼さんは、「ブックオフには新書が出回りにくい」と主張する。

しかしこれは本当か。ブックオフの新書コーナーもだんだん賑わってきているように思うな、と感じる人もいるだろう。

これは仮説だけれど、新書もクソ本が増えてしまっただけだ。新書ブームというのが2005年くらいのときにあった。養老孟司さんの『バカの壁』を筆頭に、新書が売れに売れた。宮崎哲弥さんの『新書365冊』にも書かれていた気がするんだけど、この頃からちょっと様子が代わり、キャッチーなタイトルで釣り上げるだけ釣って中身がクソなものが新書に多くなった。新書が軽んじられる要因の一つになっていることは嘆かわしいが、クソ本にも効能がある。批判能力の向上だ。

読み終わるのにさほど時間がかからない新書だが、それでもネット記事やブログ記事なんかよりは、練られた文章であることは間違いない。著者は根拠を提示しながら自分の論を展開する。思いつきで批判やツッコミは入れられない。そこで、どこをつついたら著者の主張の妥当性が崩れるのかを探しながら読むのも面白いところだ。

今こそ新書を見直す時だと思う。読書の習慣も身につくだけでなく、程よい長さなのでダメ本に対するツッコミもしやすい。ベストセラーが解説付きで新書化もする。最近でもないけど、福岡伸一さんの『動的平衡』などは新書化された。リーズナブルな価格帯だから、よほどお金に余裕がない時以外は、著者応援ということで新刊を買える。

コストパフォーマンスという言葉が大好きな現代人にぴったりのメディアが新書なのだ。

エミール・デュルケーム『自殺論』──自殺について考える種本

 

自殺論 (中公文庫)

自殺論 (中公文庫)

 

若い世代の死因に自殺は多い。
日本人の年齢別死因では、20歳~39歳の第1位が自殺だ。

厚生労働省:死因順位(第5位まで)別にみた年齢階級・性別死亡数・死亡率(人口10万対)・構成割合

友人や、その親や、兄弟が自殺をすると、何もできないくせに「何かしてやれなかったのか」と思ってしまうのは何故か。それは「自殺とは防げるものである」という認識を持っているからかもしれない。そこで、自殺を食い止めるには自殺の原因を突き止めねばならないと考える。しかし、自殺をしてしまう原因は、個人的な悩みや、本人の精神状態、社会などの本人を取り巻く環境など、多種多様である。それらに向き合うことは非常に骨の折れることだ。

現代の社会でも骨が折れるというのに、今から100年も前にここに向き合った人がいる。エミール・デュルケームだ。彼は1897年に『自殺論』を世に出した。それまで自殺に関する研究がなかったわけではなかったが、自殺を統計と社会学的な視点から分析し、自殺の類型や、「アノミー」という社会状態を指摘して、その後の社会研究に大きく影響を与えた人物として知られている。

1888年デュルケームの高等師範学校の同窓生であり、親友であったヴィクトール・オンメーという人物が、自殺と思われる死因でなくなっている。このことが、彼を自殺の研究へ向かわせたきっかけになっているかは定かでは無い。当時ヨーロッパでは自殺率が上昇し、社会問題とされていた。社会学者という立場で彼を見ると、学者として、当時の問題解決にむけて努力したのだ、と思う。

たが、それだけでここまでの内容を著すことができるのかとも思う。本書を読み進めていくと、自殺の要因とは一体何か、何が自殺と関係し、どうすればそれを防げるかということについてを探ってやろう、突き止めてやろうという情熱が伺える。

当時は精神病と診断された人物による自殺のデータはあったが、それ以外の人々の自殺については、てんで資料が存在していなかった。個人の状態から自殺の原因を突き止めるのは、現代でも難しい。デュルケーム以前にも、手紙を遺して自死をしたケースから、死亡者の精神状態を解析しようという研究などもあったが、デュルケームはこれを充てにしなかった。それらの研究からは、自殺という現象に法則性を見いだせなかったからだ。

そこで彼は、社会環境などに目を向けることになる。

いはゆる個人たるかぎりでの個人、及びその動機や観念などはひとまずおいて、自殺の増減をうながすさまざまの社会的環境(宗派、家族、政治社会、職業集団など)の状態がどうなっているかをただちにさぐっていきたい。個人にたちもどって、それらの一般的原因がどのように個人化され、そこにひそんでいる人を殺めるという高価を発揮するかを究明するのは、それがすんでからのことである。

デュルケームは自殺を一つの社会現象と捉え、4つの自殺にタイプ分けをしている。(1)自己本位的自殺(2)集団本位的自殺(3)アノミー的自殺(4)宿命的自殺(注のみで語ったものなので、3類型とする意見もある。)とするのが自殺論の主張の一部だ。自殺論の中で最も有名な部分でもある。それぞれの解説はWikipediaにお任せする。

特徴的なのは「アノミー的自殺」だ。今まであった社会的な規範がぶち壊され、秩序が崩壊し、不安定な状態のときに起こる自殺である。こうなると、個人は抑圧状態から一気に幸福への追求を目指す。しかし世の中甘くないので、理想的な幸福状態と現実のギャップが開く。開きに開き、存在意義喪失や虚無感によって自死に至る。これを指摘したところに、同年代の他の自殺研究よりも注目される理由がある。

こっから個人的な感想。社会問題としての自殺というよりは、身近な人の自殺についても、この本の考え方を使って自分なりにまとめたかった。

自殺というものを考える捉える出発地点として、べらぼうに優れている気がする。それは社会問題としての自殺もそうだし、個人の自殺というものに対してもそうだと思う。彼の指摘した雛形を知ることで、自殺に共通する一つの特徴が浮かび上がる。それは「社会的に不安定な状態に注意せよ」ということじゃないかな。アノミー状態注意ですよと言われてみれば当たり前だけれど、確かにその通りと納得できる部分でもある。

既存の状態がぶち壊されるということは、それまでの心地よい状態が崩れるということだ。生物は現状維持を好む傾向にある。それをぶち壊されると、我々は必死になって元の鞘に収まろうとする。あなたが魚だったとする。のんきに泳いでいるうち、急に陸に打ち上げられてしまったとしよう。あなたは必死にひれをばたつかせ、なんとかしようともがくだろう。で、無理だ……となればもがくことすら諦め、窒息死の未来を受け入れる。随分勝手な解釈だけど、アノミー的自殺ってこういう感じじゃないかな。

急激な変化に適応ができないと、生物は死ぬ。よほどのことがないと、生物は急激な変化に適応なんてできない。そして、もとの心地よい状態を手に入れられないと知ると、突然無気力になったり、茫然自失としてしまう。死を選んでしまいかねない。

社会のアノミー状態や、社会の統合力が弱まりすぎることによる孤独感や不安感を感じることによって、人は自死をしやすくなるという視点は、現代の自殺を見る上での橋渡しとなっているはずだ。

デュルケームの指摘に限界を感じる人は、かつてデュルケームが考察していなかった分野、個人の心理状態や脳生理学の方へ足を向けたり、デュルケームの指摘と現在の状況の差異を見出して、自殺に対する科学の目は、どんどんブラッシュアップされるだろう。例えば、経済的に潤っている地域では自殺率が高く、貧困に苦しむ地域では自殺率が低いという指摘をしているけれど、多くの先進国では貧困層の自殺率が高い傾向にある。貧困を苦に自殺するケースというのは現代日本でも認められる。そういうのも、デュルケームを知らなければ、何故デュルケームの時代と違うのか、何が変化したのかという問題に気が付きにくい。

身近な人であればあるほど、自殺は悲しい。虚しい。残された我々は、自殺を選んだ人々が、溺れそうな不安や孤独や無力感などから抜け出せないと知った末の選択であるという悲しい想像か、あるいは、これでようやく楽になれたという、前向きなのかそうじゃないのか分からん解釈で気を紛らすしか無い。

前向きな解釈が悪いというわけじゃない。むしろ、自殺によって仲のいい人を失ったのなら、その死を悼み、しっかり悲しんで、その上で前向きに生きていく。そいつの分まで生きてやるくらいの気兼ねを持ってやるのがちょうどいいと個人的には思う。そういうことを、想像できるのが人間のいいところだ。

でもどうしても思ってしまうのは、病気だとか、人間関係だとか、お金だとか、自殺にはいろいろ理由はあるだろうけれど、自殺した人だって、楽に生きれたら生きたかったはずなんだろうな、ということ。

何がその人にとって心地よいことなのかを見誤らないようにする。言うだけ簡単だな。そうしたことをしっかりとできるようになるまでには、まだまだ時間が掛かりそうだ。