点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

『グレイテスト・ショーマン』──解釈のいらないストレートな一本

 

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

 

難しいことは抜きにして、単純にミュージカル部分が素晴らしい映画だった。

主人公のモデルとなっている興業王バーナムと、ヒュー・ジャックマンが演じるバーナムの人物像が全然違ったり、ストーリーが急展開しすぎたり、内容が薄っぺらいなどなど、そういう粗探しというのは批評家に任せよう。

この映画はクサい脚本にクサい演出、クサいメッセージ性が合わさって、激アツお決まりクサクサ映画になっている。ストーリーがどういう風になるのかというのが手に取るように分かる。ご都合主義も良い所だ。なのに、全然嫌いじゃない。むしろ好き。

音楽はクサいことを言っても許されるメディアであると感じた。小説とか映画だったら、話の流れの巧みさ、台詞回しの旨さなどが注目される。「夢は叶う」とか、「私はやるんだ!皆も私とやろうぜ!」とかで終止するメッセージをもった作品というのは、ダメなもの、ダサいものという評価になってしまいがちだ。それよりも、人間心情の綺麗になれない部分が描かれていたり、日常生活なら言葉にならない感情の機微を言葉にしたり、あるいは演じることによって表現されたりする作品の方が好ましい。特に、映画はエンターテイメントではなく総合芸術であるという視点を持っている人であればあるほど、一筋縄ではいかない作品を好む傾向があるように感じる。

僕も、あんまりにも分かりやすい映画は、高評価に値しないと思っていたクチだったんだけど、今作を観て、そういう先入観を持つのは勿体無いんだなと考えを改めた。

分かりやすいメッセージを形にして発信しても心に刺さるメディアとは、もうそろそろ音楽とか、ミュージカルとか、そういう作品形態、メディアにしかできないことなのかもしれないと思い始めている。ひねくれた歌詞をもつインディー・ロックはメンヘラ御用達のレッテルを貼られ、難しい言葉を使えば中二病の仲間入り。やはり一定層に受け入れられる音楽というのは、解釈を必要としないものである。

皮肉でも何でもなく『グレイテスト・ショーマン』は解釈を必要としないからこそ良い。喜怒哀楽ははっきりと示され、キャラクターの行動や心理もすべて表現されているように思う。提示されるメッセージに身を任せるべきだ。内から出てくる「いやいやそうは言っても」を排してご覧頂きたい一本。ミュージカルが苦手じゃないなら是非どうぞ。

久しぶりに、映画見て単純に元気出た。

『コーヒー哲学序説』から好きなものを語るときのテクニックを学ぶ

もしも自分が好きなものを発表するとして、それが世間からあまり良く思われていなかったり、あるいは、自分から推したりするのに引け目を感じるならば、寺田寅彦の『コーヒー哲学序説』を読んでみるといいかもしれない。

コーヒー哲学序説
 

物理学者であり、夏目漱石に影響を受けた随筆家でもあった寺田によるコーヒーエッセイである。Kindleでも読めるが、持っていなくても青空文庫寺田寅彦 コーヒー哲学序説)で読める。

構成としては、寺田の少年時代におけるコーヒーとの出会い、留学先や海外旅行でのコーヒーについて、日本で出されるコーヒーの珍妙さといった、寺田自身のコーヒーに関する思い出が前半から中盤にかけて書かれ、終盤にさしかかるあたりで、寺田にとってコーヒーとは何かを語る、という内容になっている。

寺田はコーヒーを哲学や芸術や宗教になぞらえながら、コーヒーの魅力を語る。戦後間もなく世に出たエッセイだけれど、コーヒー好きには同意できるところがあって面白いだろうし、何か文章を書くことを生業としたり、趣味としたりする人にとっては、「自分が好きだと思うものについては、程よく大げさに表現するほうが面白い」というひとつの視点を得られる。そういう場合、「キザったらしくなって良くないんじゃないか」と思われるかもしれない。そこのバランスを身につけられれば、読んでいてこっ恥ずかしいエッセイではなくなる。

先述のとおり、寺田の場合は自分の好きなものを、芸術、哲学、宗教という非常に大きな文化と対比させる。なんといったってこれらは、人類が文明を持った時代から、長きに渡って心を突き動かす原動力であった。寺田自身にとってコーヒーは、そうした原動力とニアリーイコールであると語ってしまうのである。

芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。これによって自分の本然の仕事がいくぶんでも能率を上げることができれば、少なくも自身にとっては下手な芸術や半熟の哲学や生ぬるい宗教よりもプラグマティックなものである。

芸術や哲学や宗教は、抽象的な世界観故に現実世界への還元が難しい。しかしコーヒーというのは、寺田個人にとっては、三流の芸術、哲学、宗教よりも実用的なものであり役に立つのだと、むしろ、それらよりも地位を押し上げてしまっている。

これに似た感覚を、僕は最近体感した。

このあいだ購入した聖書やコーラン、大乗仏典を読むにしても、なかなか恍惚とした心情にはなれなかった。しかし、兼ねてより信仰していた『ポプテピピック』という漫画を読めば、精神が高揚し、かつ安定するのである。あの漫画は間違いなく最近の僕の原動力に大きく寄与している。エイサイハラマスコイ。

 ところで寺田はこの文章の後に、こう付け加える事を忘れていない。

ただあまりに安価で外聞の悪い意地のきたない原動力ではないかと言われればそのとおりである。しかしこういうものもあってもいいかもしれないというまでなのである。

散々己の好きなものを持ち上げた後は、このように「茶目っ気のある自虐」をひとさじ入れる配慮が必要かもしれない。これがあるのと無いとでは大きく違う。理性を失った文章ほど、読んでいて不安な気持ちになる。この人大丈夫かしら?そう思われないようにするためには「私が言っていることは、まあ、おかしいことですよ、分かっていますよ~」とポーズを取ることは、リテラシー低下が叫ばれる現代において、取っておくべき手段である。

そして自虐の作法として欠かせない「開き直り」を入れる。これは読んでいる人に気を使わせない重要テクニックである。おかしいことは分かってるけど、別にそういうのがあってもええやないの~と入れることで、「ああこいつはコーヒー好きなんだな」と気持ちよく納得するのだ。

ところで『ポプテピピック』はアニメ化で盛り上がりを見せており、多くの人がこの作品に酩酊と中毒症状を誘発させられている。その点についてはコーヒーに似ている。芸術や哲学や宗教よりも、ファンにとっては原動力になるかもしれない。三流なハイカルチャーぶったものよりも、プラグマティックなものかもしれない。しかし紛れもなく、「安価で外聞の悪い意地のきたない原動力」に属する。普通なら、ひとつの作品に対してこうした言葉を使うのは引け目を感じるが、『ポプテピピック』は「クソ4コマ」を自称しているので容赦なく言い切れるのが良い。

ところで、本当にそれが原動力でいいのか?読書家なら、古典とか学術論文などから得た情報を原動力にすべきではないのか?と思われる方もいるだろう。しかし、いいのだ。「しかしこういうものもあってもいいかもしれないというまでなのである。」ということなのだ。

この結論部分に限っては、同作品を原動力とする、多くの人に同意を得られるはずだ。

『寺田寅彦全集・290作品⇒1冊』 【さし絵・図解つき】

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寺田寅彦随筆集 セット (岩波文庫)

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『世界の名著』がでかいのと、やっぱり買ってよかった

15冊のうち13冊が我が家に届いた。 

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世界の名著は全66巻。続・世界の名著15巻を入れると81巻だ。現在引っ越しを考えているんだけど、ペースを考えないと引っ越しがクソ大変になる。

世界の名著は解説が面白い。良い解説なのか、悪い解説なのかという評価はできない。専門家ではないからだ。でも、さすが、誰でも読める古典を目指したシリーズなだけあって、初学者にも分かりやすく、それぞれ取り上げている書物のエッセンスや概略を解説してくれている気がする。初学者以下の僕でさえ、理解できる日本語で書かれている。事前の解説は、広大な知の海に漕ぎ出す前の、重要で貴重な手がかりであり、心の支えだ。

お勉強の為の読書というのを殆どしてきてこなかった僕だが、これくらいなら勉強と知識欲のどちらも埋めることができるだろうと、13巻分の解説を読んでそう確信した。ゆくゆくは81巻すべて欲しい。わずか13冊分だが、並べてみると、自分の机の上だけ偏差値があがったような、そんな心地になる。久々に趣味で高揚した気がした。ゆっくり読み進めるとします。