点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

「教養」死すべし

「教養は最強の武器」とか「知的武装」とか、というキャッチフレーズを使って、「教養を身につけるべし」と主張する学者や作家・評論家がいる。その人達が言うので、頑張って教養を身に着けようと思ったんだけど、身につけようと思えば思うほど身につかない。

それもそのはずで、教養は手段や目的や特定の知識ではなく、個人的な精神状態である。身についているかわかりにくいのが当たり前である。このことに気がつくまでに結構時間がかかってしまった。

『「教養」死すべし』なあんてことを言っちゃってるのは、「教養ブーム」はもうやめませんか?という、そういうことを言いたいために大げさにタイトルを付けた。教養ブームの被害者だからである。多くのHow to リベラルアーツの書には、以下のようなことが書かれていることが多い

「先生、教養が一度に身につくような本があれば教えてほしのですが……という質問を、よく受ける。しかし、残念ながらそのような本はない。だが、そんなことを言ったのでは、私の立場上あまりにも無責任なので、強いて挙げるなら……」

といって特定の著作を教え始める。

受け身によって得られた知識は身につきにくい、ということは、多くのいわゆる「教養人」の間でも了解される情報だ。人間が知識を身につけるには、受動的な態度よりも、能動的な態度であることが望ましいということは、発達心理学とか脳科学とかの学問領域で盛んに主張されている。

だから上のような形で「これを読め」というのでは、受け身状態を作ることになりかねない。教えを請いにきた人に対して、真に教養を身につけさせてあげたい人は「これを読め」と言ってはならない。まずは、その人が、「何を情報として知りたいか、深めたいか」が先であって、これが決まってないうちは、それを導き出してあげる方が親切だ。

何もこれは僕独自の意見ではない。社会科学で縦横無尽の活躍を見せたマックス・ヴェーバーが、世界大戦の混迷の時代にいた学生達に対して、「まずは日々の仕事へ帰れ」と主張したことを、そのまま繰り返しているだけで、何も新しい意見ではない。

日々の暮らしや仕事、生活している中で、興味関心のあるものを探し、選び取り、それについて知識を深める。これは、我々が普段からスマホでやっていることだ。知識を深めようと思った時、どこかのタイミングで、その知識体系以外のものから学びを得なければならない状態が来る。

感覚的には、どうやら必要そうな知識が複数あって、これを深く知るのは面倒臭そうだな……というあのライン。

僕たちと学者の違いって、あそこを超えるか超えないかということ、そして、それらの資料を統合するような考察をするかしないか、という違いなんじゃないかなあと、最近考えるようになった。

ちょっとしたことでもいい。

例えば、文庫-LOGでも取り上げた『死神の精度』という文芸作品の文庫版巻末には、参考・引用文献としてセネカの『人生の短さについて・他二篇』、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った(下)』がある。もし『死神の精度』についての理解を深めようとするならば、どうすれば良いか?当然これらの著作を読むとより一層楽しめる。「あぁーー!ここからの言葉だったのか~~!」というような、表面的なものであったとしても、そこからセネカやらニーチェやらに興味が向けば、またそれら著作を読んで、次々に興味関心を移していくことをすれば良い。

 

死神の精度 (文春文庫)

死神の精度 (文春文庫)

 
生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

 
ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)

ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)

 

RPGゲームが好きな人の中に、やけにギリシア神話に詳しかったりする人がいたり、SFが好きな人の中に学問的ではなくてもサイバネティクスに精通している者がいたりする。これも、ゲームやSF作品という、日常触れているものから仕入れた知識を、より深めるために、Googleや書籍で調べ物をした結果、なんだかあいつ、いろんなことに詳しいなぁ、という印象を他人に与えることになる。

ゲームシナリオのためのSF事典 知っておきたい科学技術・宇宙・お約束110 (NEXT CREATOR)

ゲームシナリオのためのSF事典 知っておきたい科学技術・宇宙・お約束110 (NEXT CREATOR)

 

さきほど取り上げたマックス・ヴェーバーなんかすごい。

『二十世紀を見抜いた男──マックス・ヴェーバー物語』によると、12歳ではマキャベリの『君主論』を読んで、そのあとスピノザショーペンハウエル、カントなどを読み漁っていたらしいし、15歳のときには、研究論文『インドゲルマン諸国民における民族性格、民族発展、および民族史の考察』などを残している。こういうデータから見ると、マックス・ヴェーバーは自分の興味関心に向き合い続けた結果、まさしく二十世紀を合理化の時代として見抜いた人物として、後世に語り継がれる偉人となったと言っても、不思議ではない。

二十世紀を見抜いた男―マックス・ヴェーバー物語 (新潮文庫)

二十世紀を見抜いた男―マックス・ヴェーバー物語 (新潮文庫)

 

ついでに、教養を辞書的に解釈しても、「学問や知識によって得られる創造的活力や心の豊かさ」といった、状態的なものとしての記述がされる。

「もっと教養を深めろ」と言われると、自分が深めたい知識も何なのかわからないまま、教養をみにつけなければ!ということで、まるで「教養」という知識が有るかのように右往左往する。そういう人たちをターゲットとした難民ビジネスはもうやめにして、「好き勝手に知識を広げる」ことの楽しさを説くほうが、親切であると考える。

ブロガーの弱点

 それは校正がいないことである。

 いや、だからこそ、個人の特色が出るので、良い。という人もいるだろうけれど。

 やっぱり、お前の文章はここがダメであるということを言ってくれる人がいないと、どんどん腐って言ってしまいそうで不安である。

 ブログというのは公開自慰である!どこまで言っても自己満足の世界だ!しかし、どうせ見せるならキレイな自慰を見せたい。魅力的で、わかりやすく、好奇心を揺さぶり、読んだ人の心に刻み込まれるような、そんな文章が書けるようになりたいじゃんか。と、思ってはいたものの、もし、校正をしてくれる人が現れたとして、ボコボコに僕の文章に修正が入ったのを見たとき、果たして僕はそれに耐え、修正を加え、校正者の求める水準を超えるものを生み出すことができるのか?

 そういう想像をした途端、怖くなった。小心者もここまでくるとノーベル賞を貰っても良い気がする。ノーベル小心者賞はいかにして社会に有用であると認められるか。この小心者一人によって、世界に存在する多くの小心者が、そのレッテルを剥奪され、自己効力感の回復がのぞめる。我が心を見よ。アリの卵より、もう二回り分くらいの小ささである。果たしてこれが心であるかもわからない。

 ちなみに誇り、プライドなどは既に死に絶えた。もしあるとしても、荒涼とした砂地が広がっている世界に一粒のゴマみたいな、なんだかよく分からないものがあるなら、それが僕の誇りの大きさである。

 馬鹿なことを言ってないで話を戻す。何って、校正の話だよ。

 文章で飯を食っている作家にでさえ校正をする人がいるのだ。自分が書いたものを、他人に投げて、OKを貰った上でお披露目となる。ただしネット論文(TwitterFacebook、ブログなど)の場合は違う。もしかしたら、そういうセクションを設ける意識の高い方々もいるかも知れない。お金を払って、雇っているかもしれない。

 僕は、明日の生活もままならない、貧乏うつ病患者である。校正係を雇えるお金は無い。僕はブログに価値ある文章を書いているという自己暗示をかけながら書いているが、実際に必要とされる水準に達しているとは、残念ながら思ったことがない。いや、正確に言えば、これでどうでしょうか?のポーズを取りながら毎回投稿をしている。

 読み手、読者層のターゲットを決めてから文書を書けというライティングの教えがある。では、この手の文章の読み手とは、一体誰だろう。僕だ。そう、僕は書いているのと同時に読み、それによって悦に浸って、いつまで経っても上達しない文章と一緒に、ネットの海を漂っているのだ。そんな風に考えるのは、季節の変わり目だからか。はたまた、精神機関のバグが成せる認知バイアスの妙技か。

 改めてお願いしたい。

 できれば、お前の文章のここがダメという、そういう意見が欲しい。

 コンテンツの質でも良い。自己中心的であることは分かっているが、自分からそういうことをしてやってもよいという人を探し求める勇気が無いのだ。だから、気が向いたときでいい。数少ない『点の記録』読者には、ダメ出しをしてもらいたい。「主張が見えづらい」「段落分けがなってない」「そもそも議論しても仕方のない題材である」「単なる自虐に終始しており気持ちが悪い」など、もう、本当に何でも良い。僕のダメな所を突っつけるだけ突っついていてください。

 応えられるか分からないけれど、きっともっと良い自慰を見せるから……。

「読書会」に参加することになった

 『文庫-LOG』経由で読書会に参加することになった。が、現在は精神状態のバグにより、電車やバスに乗れない問題を抱えていることを忘れていた。今度、西国分寺まで乗れる練習をしよう。案外大丈夫かもしれない。なお、読書会が行われる場所は「下北沢」である。今の僕の精神状態上、かなりハードルが高い。が、社会復帰にはある程度のハードルがつきものであり、電車バスなど公共機関の利用、エレベーターなどの閉鎖的空間の克服は急務である。

 どのような読書会かというと、「指定図書に合うBGMを選び、それを指定図書と絡めて語り合う」というもので、なかなか面白そうだ。読書会というものには一回も参加したことがない。向学心の塊みたいな人たちが、わけの分からない横文字を使って、社会の未来について語るイメージが払拭できないからである。話についていけないし、意識高い系コンテンツアレルギーの僕としては苦手どころの騒ぎではない。

 読書会に参加することは参加するのだけれど、この「指定図書に合うBGMを選び、それを指定図書と絡めて語り合う」という試みは、つまり「点と点を線を結ぶ」という行為を要求されるものである。僕が一番苦手な行為だ。

このブログの名前が『点の記録』である理由は「点しか記録できない者が運営しています」という、非常にへりくだった、日本人マインドにあふれるものであるのだ。

そんな小心者だが、勇気を出してこれに行ってくる。いよいよもって点を線で結ぶ時がきた。

ちなみに、指定図書は伊坂幸太郎の『死神の精度』だ。全くの未読だ。これから読む。

死神の精度 (文春文庫)

死神の精度 (文春文庫)

 

 僕は小説をあまり読まなかった。だから昨日『ナボコフの文学講義』を、モンスターエナジーをキメながら読んだのだ。『ナボコフの文学講義』は一読したが、おもしれー意外に記憶しているのは一番最初辺りの部分、「良き読者とは」の件だけである。なぜなら、『ジキル博士とハイド氏』以外未読の作品を扱っていたからだ。もう2,3周しないと、この本のエッセンスすら理解できないだろう。

ナボコフの文学講義 上 (河出文庫)

ナボコフの文学講義 上 (河出文庫)

 
ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)

ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)

 

  これから読書会に臨もうとする人間の素養が全く無かったことを、ナボコフから教わったことは大きい。つまり、そういう人間が取れる手段とは……インターネット検索でネタバレを見ることである。しかし!しかしだ!!せっかく人生初の読書会であるから、しっかりと、普通に、ちゃあんと読みたい。そして音楽と紐づけてあげたいのだ。

 でも、まあ、あらすじなら良いよね。

 つーことで、読んだ。あらすじ。

 そこから推測するに、主人公は死神であり、物語上「千葉」と名乗っている。そして多くの民間伝承や宗教に伝わる死神同様、人の生き死にを左右することが伺える。クールな死神という文言から察するに、自分の仕事か、人間への眼差しか、そういうものに対して諦念か冷えた眼差しを向けつつも、人間とコンタクトを取るのか……わからないが、ちょっと面白そうだ。

1、CDショップに入りびたり、 2、苗字が町や市の名前であり、 3、受け答えが微妙にずれていて、 4、素手で他人に触ろうとしない。 ――そんな人物が身近に現れたら、それは死神かもしれません。1週間の調査ののち、その人間の死に〈可〉の判断をくだせば、翌8日目には死が実行される。クールでどこか奇妙な死神・千葉が出会う6つの人生。 日本推理作家協会賞(短編部門)を受賞した表題作ほか、「死神と藤田」「吹雪に死神」「恋愛で死神」「恋路を死神」「死神対老女」を収録。

Amazonより引用

 死神は、日本ではポピュラーな妖怪・憑き物・忌み嫌われる神であり、人間を直接死に至らしめるわけではなく、死に誘導するような役割を果たすことが多い。それが死神の怖いところだ。あくまでも、死神ではなく、干渉された人間の仕業によって「死」が引き起こされる場合がほとんどである。事件や事故が起きた場所には、悪意のある死霊が彷徨い、それが生きた人間の悪念の結びついて、さらなる災いをもたらすとされる。民間伝承の七人ミサキ、あれも死神の一種だろう。それを元にした都市伝説なども怖い。お願いだから今の時間帯には、そのたぐいの話はしないでほしい。

 古典文学や民間伝承の死神は、このように、人間の意志への侵略だとか、超自然的な力による死へのいざないを特徴とするが、近頃の死神ときたらクールでカッコいいものばかりだ。『BLEACH』の死神は、どちらかというとこの世とあの世の調整係である。

 『ドラクエ』『FF』『真・女神転生』などのゲームでは、主に敵キャラクターとして経験値を分け与えてくれるような存在で、なんだかあまり印象が薄い。平成の死神で、伝承に一番近く、さらに有名である部類は『DEATH NOTE』の死神「リューク」かと思う。あれは見事に人間どもを翻弄させる死神の役割を果たしていた。

 もしかしたらこの「千葉」は、そうした死神社会の一員とかなんだろうか。この伊坂幸太郎の描く世界では、死神の社会がどうなっているかも気になる。未読であるが、妙に想像力掻き立てられるあらすじとタイトル。読むのが楽しみ。

 趣味に対する興味関心と「楽しい」という感覚を取り戻してきている。うつの寛解も近そうだ。

 ……うつ?そういえば、死神は自分で手を下さずに人間を死に誘うというのは、まことに現在の僕に降りかかる希死念慮のようなものにもあてはめることができる。そこで、何かの縁かわからないが、この選書による読書会のお誘いが巡ってきたというのは、いやいや。考え過ぎ、考え過ぎ。

 最近、若手アーティストの早すぎる死が立て続けに起きていることが話題になっている。早く寝よう。読書のために、その1。早寝である。2時前に寝ることは、早寝である。

 おやすみ。