点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

『文庫-LOG』を全然更新できていないという事実

僕はこのブログの他に『文庫-LOG』という書評ブログをやっています。

文庫に絞って書評をしようということをコンセプトにやっています。

 

しかし最近更新できていません。

理由は、図書館で借りる本の中に、文庫がそれほど入っていないこと、上限まで借りてしまうので、とにかく読むことに集中し、所有している文庫本を読む余裕が無いこと、などが挙げられます。文庫を愛しているとかほざいておきながら、文庫を読んでいない期間が、ここ数週間続いているという現状です。

 

文庫は非常に優れた装丁であり、発明したものこそが神であり、岩波文庫は日本のメシアなのではないかと信じています。いつか文庫教なる新興宗教を作ってみたいという野望も無くはないのですが、そんな僕が文庫書評サイトの更新を停滞させるという体たらくでございまして、非常に反省をしなければならないと感じた次第であります。

 

しかし、個人のブログなのだから、そこまで根詰めて考えなくても良いではないか。自分が好きな時に更新したらいいではないか。どうせ、読まれるとしてもアベレージが1日に1~2人なんだから。

 

そうなのであります。このブログ、ありがたいことに平沢さん関係の記事を投稿してから、過去類を見ない程にアクセスがあるのですが、全然『文庫-LOG』に人が来ません。そりゃそうか。目立ったところにリンクはられていないものね。かといって、記事ごとにこちらもよろしく的なあれで文庫-LOGのリンクを貼るのも、くどいのかしら?とか思ってしまいます。

 

扱っている主題が書籍であるならばいいのかもしれませんけれど、音楽とかの場合、もしリンクを貼り付けても来てくれるかわからないし、第一、音楽の話なのに「こことは別の書評サイトもやっています!」とかいう宣伝入っているのは、せっかく読んでくれた人に対して、なんだか失礼な感じがしてならないのです。

 

こういう性格なので、本当に商売向いていないと思う。

 

それでもアクセス数があると俄然やる気も違ってくると思うので、実際にリンクを入れてみて、どのようにアクセス数が変動するかということも、ちょっとやってみたいという気持ちもあるんですね。記事の見栄えとアクセス数の間で右往左往していましたが、ちょっと今回の記事から、アホみたいに毎回ブログの最後に『別のブログもやってます!』的なリンクつけようかなと。

 

というわけで『文庫-LOG』もよろしくおねがいします。

 

文庫専門書評サイト『文庫-LOG』

https://bunkolog.hatenablog.com/

またSNS依存してたから気をつけたいのコーナー

おいおい。ちょっと待った。

 

僕はSNSを使わないほうが良いのではないか?という情報を入手し、ブログに記事まで書いて、「もうTwitterFacebookなんて使いません!」とか言っておきながら、気がついてみると、最近、めっちゃSNS漬けになっちまっているのであります。

 

やばいな。

 

なんてったって、このブログの下書きの欄に、『やっぱりTwitterはTweetdeckに限る』というタイトルの、しかもそれなりに書き上げたものがあるのですから、ヤバさもかなり高いのです。無自覚でした。

 

いやあ、つくづく自分は、一貫した態度を取るのが苦手な、いい加減な人間であると思った……なんて落ち込んでいる暇はありません。

これはまたもや、SNSとの使い方を見直すときがやってきたということではないか。いい機会なのではないか。

 

昔といっても3ヶ月ほど前、なぜSNSを使わないほうがいいと思ったのか。

それは、「精神が不安定の時に、SNSを利用するとさらに悪化する」という情報を入手したからです。ちなみに、ソースはこちら。

www.bbc.com

forbesjapan.com

上記2つの記事を僕的に纏めると、SNSには以下のような固有の欠点があります。

 

  • 「他者比較によって劣等感を感じる確率が上がる」
  • 「人と繋がることでむしろ孤独感が増す」

 

というのが2大要因であるらしいということが言えるでしょう。

 

SNSを利用すること自体に、精神が不安定になる要素をはらんでいる以上、それを利用・依存するのは危険であります。特に、精神的に不安定であると医者から診断された僕は、なおさらSNS依存なんてことは避けたいのです。

 

SNSの使い方が上手な人を見ていると、「特定の時間にまとめてツイートをしている」という特徴があるかと思います。

例えば、僕が好きなミュージシャンの平沢進さんは、21時からTwitterの更新を30分から1時間ほどして、後は殆ど投稿していません。

おそらく、平沢さんはTwitterの活用方法、活用目的を定めて使っていることが伺えます。

アーティストのブログやTwitterの更新は、本業の利益を最適化するためのパフォーマンスであったりするものです。

フォロアーを自分に依存させるための戦略を持っているのといないのとでは、音源の売上に多かれ少なかれ、影響があるものと思われます。新規フォロアーの獲得と、既存フォロアーの流出防止のために、Twitterがあると考えているのでしょう。

 

Twitterの利用目的・利用時間を決める、というのは、慣れると簡単なのですが、一度破ると「どうにでもなれ症候群」にかかりやすい僕としては、プラスアルファ、何か対策を構築する必要がありそうですな~。

 

そこで、悪癖を治す手段でなにか有効なものはないかを調べてみましたんですが、流行の「脳科学では~」「認知科学では~」という文脈で語られているものでさえ、結局のところ、「他のものに気をそらす」以外はそれほど効果が無い。

書籍やライフハック記事によって言っていることが違うのは、「具体的にどのように気をそらせばいいのか」というテクニック部分の差異でしか無く、さらに言えば「万人に共通する気のそらし方」というものがあるという前提のモデルが多いので、役に立たないこともあるのです。

読書百遍してようやく気がついたエッセンスでありました。

 

ではSNS利用よりも重要なことに気をそらそうということで、もし自分がSNSを使いたくなったら、以下の流れを再現しようかと。

 

  1. SNS使いたくなった!
  2. 利用目的・利用時間を思い出す(第1の離脱ポイント)
  3. それでも使いたくなったらSNSを使う以外のことをする(第2の離脱ポイント)
  4. 色々試す中で、一番気をそらせるものはなにかを把握する
  5. SNS使いたい!→一番気をそらせるものをする、という思考パターンをつくる
  6. SNSのボタンをブックマークから消す。

 

くそ!ライフハック記事みたいになっちまった!!

 

僕の生き方なんて参考にするなよ!

僕はニートだ!!真似したらやけどするぜ……。

 

<関連書籍>

 

スマホ廃人 (文春新書)

スマホ廃人 (文春新書)

 

宗教の奥義は言語束縛であるー『宗教の秘密』

宗教の秘密

宗教の秘密

 

読前レビューやったんだから、読後レビューもやらなきゃね笑

 

タイトルとは裏腹に、経済批判の書であったと思います。

てっきり宗教批判の書であったと思ったのですが、少し違いました。そういう意味で意表を突かれました。

 

宗教、あるいはそれに分類できるような信念体系の本質は「言語束縛」であり、現代人はブレトン・ウッズ体制の終焉、いわゆる第2のニクソン・ショック以降、無尽蔵にバンカー(銀行家)がマネーサプライを調整できる世界になってしまったおかげで、そのような層の人間から、「お金教」という言語束縛を受けているのだ!というのが著者の言いたいことのはず。

で、この言語束縛を手っ取り早く説明するのに、宗教使えるじゃないか!ということで、キリスト教の成り立ちやら仏陀の主張分析、マルクスの資本主義批判なんかを取り上げながら、現代経済批判をするためのツールとして、宗教の裏表で働くパワーを解説しています。

著者の主張では、イエスにしろブッダにしろ、どうして現世まで影響力を及ぼしているのかというと、当時信じられてきたユダヤ教あるいはバラモン教の内部にあった、「既存のア・プリオリ性の否定」をしたのち、「ア・プリオリ性という言語束縛からの解放と、それを上回る新たなプリンシプルの提示」を行い、未だそれを乗り越える宗教が誕生していないからであると説きます。

いや、実際は「お金教」が最強かもよ?ということを言いたいわけですけどね。

 

この指摘はとても面白く、少なくとも僕の記憶のインデックスから「それは違うんじゃないの」と言える箇所もなく。

分析面では、わかりやすく平易に宗教の本質についての持論、仮説を語り、現在の経済活動、資本主義も一種の宗教的なレベルでの言語束縛を我々に与えており、それをまず意識しないことには始まらない、という視点は、読んでいてワクワクします。

 

最後にぶっ飛んだ章があって、「苫米地さんそういうところだぞ……」って感じなのですが、最終章は「1週間で世界宗教をつくる方法」というテーマで語っています。

この部分に関しては、論理的に宗教を分析しすぎているきらいがある気がします。

人間の情動や社会の機運によっては、1週間で教祖を育てて宗教団体を形あるものにするってのは難しいんじゃないのかという気がしないでもないんですがね。

しかも自分が教祖になるのではなくあくまでもブレーンになるプランを解説しているのが恐ろしい。

 

まず非暗示性の高い人物を、変性意識状態にしやすい環境から探し出して、教祖に任命するわけです。選んだ人の無意識に、「あなたは世界を救うための教祖である」という情報を書き込み、本気で頭おかしくさせて、神秘体験なんかを集団で体感させたりすることでラポール(信頼関係)を築き、寄付金を集めてこい!と指示すると動くぞ!ってそれあんた!洗脳やんか!!!

 

お金教 VS 苫米地教の戦いの火蓋がこの書でもって切って落とされてからはや7年。

そろそろ苫米地さんは新興宗教団体を創り出すころかな?とか思ってるんですけど、どうなんでしょうか。

この人自身、オウム真理教の信者を脱洗脳させたりっていう話が本当なら、間近で「被洗脳者」を見ているし、洗脳の引き起こし方を分かっているので、宗教というカテゴリーの持つ力を目の当たりに体験できている人かなと。なので、そういうことを仕掛けようと思ったらできちゃうぜ、的な中2のアレを感じつつ、ふーんほーんと軽く読むには面白い本だったんじゃないかとは思います。

憶測や推測もちょっとあったかなとも思います。仕方ないんですけどね。資料がないですから。あくまでも著者の仮説に則れば、整合性は取れているかなと。

 

この手の本を書く自己啓発本の著者ってあまり参考文献書いてくれません。どうせ見ないだろって理屈なんでしょうけど、僕は読むので付けて欲しいです。いっつも思う。

Kindle Unlimitedに登録している人は、10冊ストックの中で読むことができますから、話半分に宗教に関する新しい見方を読んでみたい人にはオススメかなと思います。

お粗末様。