点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

ブロニー

未だに悩むのが文体、文末について。
「ですます」がいいのか、「である」がいいのか。

そんなことに悩み眠れぬ夜を過ごすのであれば、とっととクソして寝たほうが、人たる存在として有意義であることは百も承知だ。

しかし、人は馬鹿なことに意志力を使うからこそ人である。馬鹿ではないことに力を使うのはコンピュータに任せる時代になってきたのであれば、堂々と馬鹿なことにエネルギーを使うべきだ。AIに仕事が奪われるのではないかと危惧する人たちがいるが、それは他人の役に立ち、経済的活動において有益であることをしているからだ。人の役に立ちそうもないことを、シコシコやっていけば、それは仕事と呼べないかもしれないが、少なとも生きがいにはなる。

 

初っ端の疑問について、僕の回答はこうだ。
「しかし、やはりこの疑問について、悩むのは重要ではない」ということだ。

 

例えばいくら正しい日本語と豊富な語彙、天才的な言葉選びで記事を書いたとしよう。しかし、読み手から面白いと判断されない限り、ブログはオナニーに近い行為である。

 

いや、近いどころかむしろオナニーである。
これをブロニーと名付ける。ブログオナニーだ。
特定のアニメファンにおける大きなお友達を指す言葉としても使われている言葉であるらしいが、そんなことは知ったことではない。僕はそのアニメを観ていないし、知り合いにブロニーもいない。だから僕がブロニーという場合は、ブログオナニーのことだと思って頂きたい。

 

かねてから僕はブログとは文字による公開自慰だということを主張している。残念ながら、下品な言葉を使っているせいで、いいねスターがつかない。納得がいかない。

いいねスターをください。

 

ついでに言うと、内容もそれほど関係ない、と睨んでいる。

それは、他人のオナニーの上手い下手を気にする人は、あまりいないという理由と完全に一致する。

ネット言論で大事なのは、「誰が言っているか」、つまり「誰がオナニーしたのか」という、ブランド・権威性の問題であり、ブランドや権威を持たない者の文章は、もれなく電子の海の藻屑と化す。たちまち化す。秒速で化す。

ちょっと納得がいかないことが書かれていたりすると、うっかり翌日尿検査をすることを忘れて自慰にふけった男子中学生が、再検査を依頼される程度の問題と同じく、大したことにもならない。ブランド・権威性がなければ、炎上もしないのだ。

僕のこの発言を、「文章を発信するという営みを軽視している」と批判するのは間違いである。

オナニーは生命維持にかかせない。適度な性欲の発散は、来たるべき生殖行動のための予行練習、はたまた行き場の失ったリビドーのガス抜きであり、これを怠るのは生命として不自然である。

不自然であることは善でも悪でもない。平均値から外れているというだけだ。だからEDを軽視している発言として、受け取ってもらいたくない。僕はうつになってから、これっぽっちも性欲がわかない。代わりに、不安やクソほどどうでもいい思考がダダ漏れ状態だ。

タバコ依存症の人が禁煙に成功しても、食にその代わりを求める。それと同じで、ブログの更新頻度が格段にあがった。これはブログを書く時間が、そもそも仕事をやめたことによって増えた、というのもある。

ただ、だとしたら読書に当ててもいいし、他の趣味だってやってもいいのに、小学校から苦手意識のあった作文なんぞに勤しんでいるのは、ひとつの欲求が失われてしまったことによる代替案がブログである可能性もある。

根拠?ないよそんなもん。なんとなくだよ。

つまり何が言いたいかというと、ブロニーだって生命維持に欠かせないことなのだ。だからこれからも「知ったかぶり」「誤字だらけ」「気取り屋」「平沢進にたかる寄生虫」「説得力ゼロ」「想像力インポ」「うつデブニートの戯言」などなど様々な言いがかりを付けられても問題はない。これはブロニーなのだ。

人のセックスを笑うな。この笑うというのは「嘲笑う」ということであるとあの映画を観て思ったことだけれど、これはブロニーにおいてもそうだ。

人のブロニーを嘲笑うな。好きでやっていることにたいしてイチャモンをつけるのは勝手だが、書き手に対してダメージは無い。いや、人によってはあるかもしれない。僕は少し気にするからお手柔らかにしてほしい。けれど、これからも多分、ずっと、こんな感じでダダ漏らしすると思う。

読みたいと思う人にだけ伝わればいい。楽しんでいただければいい。

男根の代わりにキーボードを。ティッシュの代わりにワードソフトの誤字検索機能を。

あとは「投稿する」ボタンで、『点の記録』というローカルな下水道に、しっかりレバーを「大」に入れて流すだけだ。