点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

『文学入門』──優れた文学には発見がある

文学入門 (岩波新書 青版)

文学入門 (岩波新書 青版)

 

文学に弱いので読んでみた。目次を読んでみると、第2章は「優れた文学とはどういうものか」という強気の提言がされている。意見が分かれるような書き方をしているが、著者は以下のように「優れた文学」を言葉にしている。

真に優れた文学は、題材の新しさの他に、「発見」を持っている。つまり、その作品が現れるまでは何人にも、その作品に記されたものの存在、むしろ価値が全く気付かれずにいたものが、一たびその作品に接したあとでは、いままでそれに気付かなかったことがむしろ不思議とさえ感じられる、そうした気持ちを読者に抱かしめるものを持っている。(P.35)

残念ながら文学に明るくないので、僕はこういうことを言われても、「あの作品がこれに該当するな」とか「この文学には発見が無い」という批評をすることができない。アクタガワ、ダザイ、ソウセキが云々、語りたいことには語りたいが、果たして自分の文学体験において、このような発見のある作品があっただろうか。

というと、今まで読んできたあらゆる小説に対して言えてしまうような気もするし、しない気もする。ちょっと読み返して、第1章を読んでみると、この本の内容を理解するうえで必要な概念、「インタレスト」についての記載が散りばめられている。

著者は「面白い文学」というときの「面白い」という語を明確に定義している。つまりこれは面白おかしいという意味ではなく、「興味」「関心」「利害感」でさえある、英語で言うところの「インタレスト」であるという。なるほど、「発見」がなければインタレストは生まれようがないから、読者が何か興味を抱かせる仕掛けが施されているかというのが、優れた文学の第一条件として挙げられるのはうなずける。

この他に必要なものとしては、主に「誠実さ」と「明快さ」が挙げられている。

「誠実さ」とは、著者自身がもつインタレストが作品に反映されているか、つまり小説が書きたいという衝動のみで書かれた文学ではないかという評価軸だ。そして「明快さ」というのは、内容が理解できなければ、読者はインタレストを持ちようがないので、明快さ抜きにして優れた文学とは言わせないという評価軸である。このような明快な主張にはうなずくしかない。

これから文芸作品を読む上で、「文学美」のような曖昧とした基準ではなく、「この作品は明快であるか、誠実であるか、発見があるか」つまり「インタレストを喚起させながら感動を与えてくれる作品か」というドライな視点で読むことで、おそらく文芸に対する意見を述べやすくなるかもしれないなと感じた。

書評ブロガーは読んでおいて損はないかもしれない。評価軸が増えることは、言語化の手すりとなるから。

読書好きによる読書必要論

「本は必ずしも読まなくてもいいんじゃないか」という意見を一つ前に書いたから、今度はバランスを取る意味でも、そしてこのブログのメインコンテンツである書籍を扱っている人間としても、「それでも読書をする理由」について書かなければならないと思って、「じゃあなぜお前は本を読んでいるのだ」ということについて書いていく。

 

achelou.hatenablog.com

 この記事では、「読書そのものが好き」、「読書が必要だ」という理由以外に、強烈な読書動機を喚起させる何かがあれば教えてほしいということを書いた。未だに僕は、これ以外に読書をする必要性だとか重要性について見いだせない。

1つ目、「読書そのものが好き」について。

これは僕のように、読書をすることそのものが楽しみとなっている人に当てはまるものだ。しかし、「だって好きなんだもん」で終いだ。

SNSフェイスブック、ニュースサイトを何気なく見る人と同じように、大した理由が無い。なぜそれをやるかというと、行為そのものが好きだから以外にあまり無い。

もちろん、なぜ好きなのか?ということについてならば、いくらでも理由は付けられるけれど、「好きなものは好きだ」という一語に集約させて説明おわり!としたい。

読書は誰にも迷惑をかけない。だから他人からどうこう言われなくてもいいではないか。

勉強のためにやっているわけでもないから、賢くなる必要も無い。僕はただ、普通に本を読んで、そのテーマについて思考を巡らせることそのものに魅力を感じている。功利を求める読書は息苦しい。自由に読んで、自由に覚えて、自由に忘れる。気ままな時間だ。

こうした態度を、あえて僕は「クソ読書」と名付けた。

本来、読書にルールは無い。文脈が理解できれば(時にはできなくても)、あとは好き勝手やったらいい。1日何冊でも読んでもいいし、読まなくてもいい。背表紙やタイトルを眺めるのでもいい。一節だけ読んで終りでもいいし、中途半端なところから読み始めてもいい。吸収した知識を実生活に落とし込む必要も無い。どっちでもいいのだ。

こういう具合で本を読んでいるので、ちっとも賢くならない。

が、それでもいいのだと割り切っている。

そんなことを考えている人間なので、本来自由である読書という営みに対して、ルールを押し付けようとしてくる読書術やら書籍やら勉強術があると、警戒してしまう。そういう本に限って、読書人口が減っているのを嘆いている。しかし、読書人口を増やすなら、読書という営みのハードルを下げるべきだ。それなのに、やたらめったらとルールを押し付けるのは逆効果だ。

2つ目、「読書が必要だ」という理由について。

本は多くの自己研鑽手段の中でも、安い。1500円程度出せば、自然科学、人文科学、社会科学、文化芸術などのあらゆる業界のエッセンスを知ることができる可能性を持っている。それ故、読書は自分自身への投資として、非常に優れている。変な情報商材を10万円などで購入するよりも、かなり安上がりだ。

だから、もし己を成長させたいというような人がこのブログを読んでくれているならば、読書は安くて、しかもリターンが高い投資であると勧めることができる。

功利を求める読書は息苦しいが、その息苦しさに見合った対価を得ることができるという意味では、読書は必要なのかもしれない。しかし、こうした読書には注意点がある。それが思考停止の読書──ザコ読書だ。

ザコ読書はショーペンハウエル爺さんの時代から批判されている。思考の手綱を他人に預け、頭の回転を停止させたまま猿真似をしても、あなたの営業成績や仕事の生産性が上がる保証は無い。ビジネス本の甘い言葉に騙されることなかれ。世の中はそんなに甘くない。

ザコ読書の特徴として、「正解を求める態度で読書をする」というものがある。

しかし、世の中には正解、正道というものが無いと言っても過言ではない。

法律であったとしても、社会状況などを鑑みて、改正されたり、廃止されたりする。社会システムが流動的な状態で、完全無欠の正攻法というものが、果たして存在するものか。僕は存在しないという風に考えるのが健全な思考だと考えている。だから、拠り所を求めるのではなく、自分の視点と著者の視点を融合させることが必要なとき、そういう意味で「読書が必要である」と考えたときに、書を手に取ることを勧める。

功利を求める読書をするときには、この落とし穴に引っかからないようにしてほしい。僕は一回、それで自己啓発難民になるという、バカを見ているから。

以上が僕が本を読む理由の一部だ。本心は1つ目の「好きだから」で終りだったけれど、もし意識高い人がこのブログ記事を読んだときのために、読書が必要だと感じたときの注意点について触れた。

少しでも読書人口が増えてくれればと思う。これは僕の煩悩だ。どうか紙の本が消えてなくなりませんように。

読書好きによる読書不要論

日本国民の約半数は、一月に一冊も本を読んでいないというデータがある。*1

いわゆる教養人は、こうしたデータを読むと、「もっと読書をするべきだ。さもなくば日本は滅びる」云々と机上の空論(中には妥当なものもあるが)を延々と述べたりする。その根拠は「日本は民主主義なのだから、みんなが賢くならないと、変な政党や政治家を選出する」とか、「国民がマニフェストをろくに精査しないせいで、政治家は守れもしないマニフェストで堂々と活動する」とか、そんな具合だ。

しかし本当にそうなら、とっくに日本は滅びてもいいだろう。変な政党や政治家は既にたくさんいる。マスメディアが政治について報じる内容は、「○○議員がすごい立法案を提出した」とか「□□議員が欠点のある現行法への打開策を提出した」というものは少ない。「不祥事」やら「汚職」やら、そんなものしか取り上げない印象すらある。

そんなグダグダ政治でも、日本はまだ存続している。

いったいいつになったら滅びるんだろう?という疑問から、「読書は必ずしも必要な行為ではない」という、現代を憂う教養人からしてみれば、超絶楽観的な立場を取ることにした。

読書は、「本を読むことが好き」もしくは「読書が必要だ」と感じた人がすればいいことだ。「読書そのものが好き」、「読書が必要だ」という理由以外に、強烈な読書動機を喚起させる何かがあれば教えてほしい。憶測だが、それ以外の理由で本を読むというのは、インクのシミを眺めているような苦行でしかない。

僕は教養人ではないので、「読書は現代人にとって必須である」というような主張をする気は無い。「俺は本を読まない」という人とか、「読書人口が減っている」という話題を見かけると、ただ単に、「このままだと紙の本が消えていくな」という残念感しか感じない。

これは「読書という文化の喪失そのものに対する危機感」であって、「そうなると嫌だな」という利己的な理由から「読書しろ」というのは、独善的すぎると思う。本好きはついつい、本を読むことを人に勧めるけれど、「別に本なんて読まなくていいよ」と誰か言ってあげる人はいないのかしら。いるかもしれないけれど、少数派ではないか。僕はその少数派になりたい。

教養人は目を覚ましてほしい。読書なしで生き残っている人々の、なんと多いことか。滅びるのは日本ではなく、時代の変化についていけなくなっている出版業界だ。

本屋で平積みされているビジネス本の中には、「学習」の重要性を説くものが多い。その中でも取り分け、読書がなぜか特別視されている。気がする。

読書は不必要。そういう意見を持っていても、研究職の人や文献調査する人を、軽視したり、バカにしているわけでもない。

僕はそういう能力を持っている人を羨ましく思う。僕もそうなりたい。社会的にも有益な技術であり、研究職というのは滅びてはならないと思う。

でも、特に興味もない人に、「読書は素晴らしい!」と喧伝するのはいかがなものか。そうした「読書教」めいた言説に共感ができないだけだ。言葉が悪いかは読者にその判断を任せるが、何かの専門家というのは、その分野のオタクであって、その分野が社会的に評価されるかというのは、社会がその分野をどれほど必要としているかという、極めて流動的なものである。ありがたがっても仕方がない。

アカデミックな世界の話はアカデミックな場所でしか、もはや通用しないので、そろそろ「別に読書なんてしなくても生きていけるよ」という人がいてもいいんじゃないか。

「読書しなくても生きていはいける。しかし……」という意見を持つ人はいるだろう。けど、多分、普段本を読まない人には、そうした意見は届かない。読書家が、本との距離が離れている人に、活字媒体の有用性を説くのは、猫にドッグフードを勧める犬のようなものではないか。

ドッグフードを見た猫は言うだろう。「はやく食い物を見せろ」

読書との距離が離れている人は言うだろう。「御託はいいからはやく面白いところを見せろ」

僕は、ネットニュースとdマガジンなどの雑誌購読サービスを利用すれば、現代の社会問題を俯瞰できる知識は十分に手に入ると思っている。

雑誌はトレンディな話題を扱うが、新聞よりもタイムラグがあるので、書き手が事象の分析に時間をかけてくれる。使わない手は無い。

本はさらにタイムラグがある。どんなに最新事情を教えてくれる本でも、どんなに大急ぎで書いた本だとしても、最短で3ヶ月から半年ほどのタイムラグがあるだろう。リアルタイム性で言えば、雑誌は書籍よりも圧倒的に有利だ。

読書の利点は、「頑張れば著者の分析の視点をものにすることができる可能性を秘めている」ことだと思っているが、場合によっては雑誌で事足りてしまう場合もある。

売れっ子著者なら、雑誌の連載をまとめただけの本とかもある。ビジネス本に載っている仕事術なんかは、雑誌購読サービスで読めるビジネス誌などでも代用できることも多い。

無理して本なんか読む必要があるのか。

無教養を自覚した人は、情報の取り寄せ方なんていくらでもあることに気がついてもらいたい。読書じゃなくてもいいじゃない。ツイッターでもフェイスブックでもインスタグラムでもグノシーでもスマートニュースでもいい。もう少し詳しく知りたいなら雑誌を読んだらいい。こうしたライトな媒体を使っていくうちに、利点と欠点が見えてくる。

「もっと詳しく知りたい」

そうした欲求が出てきたとき、はじめて読書が必要だと思うときが来るかもしれない。その程度でいいと思う。

「本を読むのが好き」という理由以外で本を読もうとしている人へ。

無理しなくていいよ。ネット使いな。雑誌読みな。