点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

「型」や「術」や「法則」という幻想

「型」や「術」、それから「法則」という名前で喧伝される、特定の思考の枠組みは、本質的には幻想であり、混沌に満ちた社会において、役に立つときと、そうでない時があり、使い所を間違えるとバカを見ることになります。

小室直樹の著作『論理の方法』では、マルキスト達が次々と失敗するのは何故かといえば、マルクスの提唱した様々な言説は「モデル」であり、真理ではないのにもかかわらず、それを真理と盲信したことによる、と解説。では、モデルとは何かといえば、「本質的なものだけを抜き取り、あとは捨て、論理的整合性が、ある程度取れたもの」であります。つまりは、物理的な存在ではなく、抽象的な存在なわけです。

論理の方法―社会科学のためのモデル

論理の方法―社会科学のためのモデル

 

モデルが物理現象を説明できるのは近似解までです。どんなに精緻なモデルであっても、現実世界というカオティックなものに当てはめると、どうしても誤差が出てしまいます。本質を抜き取り、あとは捨てる。ということは、捨てた部分が無視できない大きい誤差を生むことだって考えられるわけです。

学術的な研究はともかくとして、通俗書などに書かれている心理テクニックなり、認知科学を根拠にした自己実現法なり、ともかく自己啓発的な文脈で語られるモデルに関しては、たとえそれが正しくても、本質的には特定のモデルに沿って考えられているものであり、人間一般に応用できるものであるかは疑問です。

そんなことを言ったら、学術的、科学的なものだってモデルではないか。それらも、全部幻想だと言いたいのか?とお叱りを受けるでしょうが、半分はそのとおりで、半分はそうとは言えないという、どっちつかずの立場を取りたいんですね。無責任かもしれないけど。

科学のシロウトがこんな事を言うのはダメなのかもしれないけれど、モデルが役に立つのは、モデルがモデルとして認識され、それは先程の、「特徴的な部分を強調し、あとは捨てる」という特徴がしっかりと意識され、その前提で思考され、さらには研究され、そして物理的な空間で実践され、そのモデルでカバーできない部分を発見し、それを補う、あるいはより優れたモデルを研究、思考するという一連の動きの出発点であると、人々に捉えられたときに、はじめて役に立つものなのではないかと。

一つのモデルが現れたら、我々はそのモデルを実践し、うまくいかない場合は疑う必要があるわけですね。その疑う材料として役に立つものなのではないかと思うんです。

経済学はモデルです。政治学もモデルです。数学、物理学、化学、生物学……ありとあらゆる学問は、真理ではなく、モデルもしくは論理的整合性がある水準で取れた思想体系です。論理的整合性というのも一つのモデルですから、同じことを2回言っているようなものかもしれないけれど。つまり、何が言いたいのかというと、唯一絶対の価値観、真理を追い求めても無駄ということです。

そんなことは言われなくても分かっている、と思う人もいるかもしれないのですが、先行き不透明な現代社会に生きる我々は、どうしても、これが正解とか、これが正しいとか、これがより優れているものに間違いないというふうに考えがちです。間違いないという確信は時には大事かもしれませんが、どんな論理にも必ず穴はあります。なぜかというと、人間そんなに単純じゃないからです。人間の本質って何ですか?ということが分かってもいないのに、心理学で自己実現しようとか、短絡的すぎます。

そういや、これもモデルではありますが、人間ってそんなに合理的じゃないよね、ということは、ダニエル・カーネマンの著作『ファスト・アンド・スロー』などで言われ始めて久しく、もうそろそろ常識的な仮説であるとなってきているはずです。

しかし、まだ本心では納得行かない人たちが、「絶対」とか「科学的」という言葉につられて、通俗的な書籍を購入し、この方法は自分には合わないとか、この方法が唯一絶対正しいといったような、極端な事を言い出すわけです。

じゃあ科学的ということは何か。

学問の種類によって違いますが、ざっくり言えば、論理的かつ再現性の取れるもの、ということになりそうです。科学の世界で幅を利かせる数理や工学の世界では、再現性という要素は非常に重要です。測定結果のばらつきが少なければ少ないほど、その手法による結果は確からしいという仮定をするわけですね。

一般的に、論理的ではない生き物であると知られている人間が、論理的な世界観、あるいは、特定の現実には存在しない人間観に当てはめられながら語られるモデルに即して、「これは科学的根拠のある考え方ですよ」と説明をされて納得するってのは、なんだか腑に落ちないなあ。

まんまと出版社の罠にハマっている気がします。そろそろやめときましょ。

「型」や「術」や「法則」といって近づいてくるものは、不安を多く抱えるあなたの足元を狙っているものです。安易に信奉しないように。これは自戒の念も込めて。

なぜなら昔、僕は自己啓発マニアでしたからね。本当は人のこと言えないんだわ……。

仮説として楽しむから、科学なり思想は面白いんであります。