溜まるマグカップ
実家での療養は続いております。
ありがたいことに自分の部屋なんてものを持たせて頂いております。
親には頭があがりません。いつか絶対恩返しがしたいなあ、と思いを積もらせるばかりですが、親不孝者でして、それよりも早く積もるものがあります。
それはマグカップです。
いま机の上には4つのマグカップがございます。
マグカップ収集癖があるのではございません。これらのマグカップは使用済み、つまりコーヒーのシミがこびりついたマグカップで、本来ならば早々に洗わねばならないものです。なぜこんなにも溜まっているのか。これはひとえに、僕の無精がこの事態を招いていることは、想像に堅くないと思われます。
が、ここで僕のせいだ僕のせいだと思っていても仕方がない。
何か、マグカップが溜まらない対策を練る必要があるなあと。
マグカップが溜まるという現象は、大きい視点で言い換えれば、「片付けができない」ということです。片付けに関しては、物質主義(衣食住・金銭・物品の獲得、所有を優先させる態度のこと)的な社会になって以来、多くの人間を悩ませてきた営みであります。
書店の家事コーナーに平積みされている本は、片付け法や整理術を扱ったものがひしめきあっておりますし、そもそも、片付けを必要としないために、物を極限にまで減らすというミニマリズムなる思想が出てきていますね。
そういや、「ときめかないものは捨てろ」という論主の本がありましたが、そんなことしたら、確かに僕の蔵書とPC、CD以外は全部捨てることになり、片付けは楽になるでしょうね。洋服にもときめかないので、夏のローテーションをこなせる分だけ残して、あとはゴミ行きですね。
こうした、物自体を少なくするというのは、片付け術の流行であるようです。
たしかに、片付けや整理整頓に使う意志のリソースを減らすというのは、一見すると合理的のように思えるかもしれません。でも、マグカップを洗うことなく机に溜めてしまう人間というのは、それ以前の心がけのような気がしてなりません。
というのも、極端なミニマリストでなければ、食器類は持っている人いるでしょうし、いくらものを減らしたからと言って、洗わずに放置しているということも、無きにしもあらず。
こちとら、「捨てようか捨てまいかという試行錯誤をすることすら面倒くさい」のであります。「分別」や「分類」というものには限界があります。これは野口悠紀雄著『「超」整理法―情報検索と発想の新システム 』(中公新書)でも言及されていることですが、分類はやりすぎると、必ず「その他」というカテゴリーを設けなければならない事態になる可能性があるんですね。で、結局「その他」が混沌としてくる。限界があるんです。
ということは、「捨てる」「捨てない」の二分法で整理すると、「保留」を設けたくなる。上述の捨てる派やミニマリズムの教えでは、「保留」はご法度でありますが、人間というのは気分屋なもので、「やっぱり捨てなきゃよかった」なんて思うときが来る。マグカップもそうです。
あ、てか大事なこと忘れてた。
これ、家族が買ってきたマグカップだったわ。
いくら家族のものとはいえ、共有で使っているものを、まるで自分の物のように使うのは迷惑がかかるわけですな。ということで、結局精神論ですが、マグカップひとつとっても、「忖度」が日本人の私にとって性に合っているかもしれません。
さっさと洗ってきます。
んで、コーヒー飲みます(無限ループ)