点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

「脱自己啓発」という名の自己啓発

自己啓発を脱するというテーマでひとつエントリーを書こうと思います。

多くの日本人が、自己啓発=胡散臭いというようなイメージを抱くようになっていると思います。

これは非常に良いことでしょう。

自己啓発に対する抵抗感や胡散臭さを見破るセンサーが、人々に身につき始めた、ということかもしれません。

自己啓発には限界があります。それは自己責任という制約です。

自己啓発は、自己責任という論理が中心になっています。「マインドの使い方一つで」とか「あなたの行動一つで」世界は思い通りになる、だから現在の鬱屈したあなたとその周囲の環境は、あなたの自己責任である、という論理が主です。

しかし、自己責任という論理を展開するには、スタート地点が同じであり、競争の手段が同じであり、環境が同じである必要があります。先天的な能力差や、生まれた家の環境によって、格差が生まれていることを認めようとしないのが、自己啓発の不思議な、恐ろしい部分です。

自己啓発は些末な現実の問題から、あなたの大きな夢に至るまで、それらに対応できますという看板を背負っています。ドリームを売るのです。経済的自由や時間的自由は実現できるというドリームです。

しかしその正体は、単に著者が考えた、ルールに基づく演繹的な思想です。

ルールに基づいて行動する自己啓発には限界があります。

  1. そのルールから外れる現象が現れたとき
  2. そのルールを包摂する、またはより優れていると思われるルールがあるとき

1.そのルールから外れる現象が現れたとき

この段階で自己啓発の考え方が破綻するものが殆どです。

自己啓発のルールは「自己責任」です。

しかし、世界の情勢、経済の動き、政治の腐敗、企業の抱える問題、人間関係、病気など、自己責任の範疇をどうしても超える問題が、現実社会にはあります。

「引き寄せ系」と呼ばれるような、「あなたのマインドが現実世界に現れる系」の論理を、日本ではない、例えば戦争をしている国の人々に対して喧伝したらどうなるでしょうか。

「戦争をしたくない?だったらこう考えるんだ。お前のマインドが戦争を引き寄せている。マインド次第で戦争は終わる」

なんて言ったら、現地の人たちから集団リンチに遭うでしょう。

自己責任論は様々な場面で見かけます。日本は福祉国家を謳いながら、個人レベルでは自己責任の論調が人気な国です。もしかしらたそうした国民性が、セルフヘルプ本の売上に影響しているのかもしれません。

ともかく、自己責任という考え方は、自分で責任を取れる立場の人間であった期間が長い環境にいた人物が抱いている「感覚」でしかありません。お釈迦様は、「世界ってのはよぉ、いろんなものがお互いに関係しあって存在してるって、私はそう思うんだわ~」と菩提樹の下で悟りました。僕もそう思います。

自分の心や行動が、周囲に与える影響は少なからずあるでしょう。しかし、自分の行動が自分の思い通りになる保証は無いのです。ルールで対応できない、予想外の出来事や存在が縁起として現れたとき、自己啓発の論理は破綻します。

2.そのルールを包摂する、またはより優れていると思われるルールがあるとき

自己啓発のルールよりも上位のルールがあるとき、自己啓発はそのルールにひれ伏すことになります。例えば法律であったり、資本主義という仕組みであったり、官僚制度であったり、宗教的な考えや、自然などがそれです。これらは一個人が持つ信念以上の存在です。

自己啓発ルールよりも強いと認識してしまったならば、自己啓発ルールは敗北します。

気持ち次第でビジネスはうまくいく!!といくらまくし立てても無駄なことが殆どでしょう。我々は、資本主義という、気持ちしだいではどうにもならないということがマルクスによって説明されたシステムの中で生活しています。これをマルクスは疎外と言いました。市場というルールは、人間が作り出したものであるにもかかわらず、今や人間の手を離れ、逆に人間が市場というバーチャルな存在に支配されています。

これに自己啓発思想ごときが太刀打ちできるんでしょうか。

無人島ならいざしらず、強固なルールに縛られている社会で生活するならば、そのルールにはある程度従う必要があり、自己啓発ルールからは外れている行為も取らねばならないことだってあります。

そして最後に、皆さんが普段から思っていること。

「そんなんでうまくいくなら、誰でもやってんじゃん」

これが自己啓発サイドの人間に通じないのは、

「ルールをやっていないからうまくいかないのであって、ルールをしっかりとやれば結果は出る」

という現実社会のカオスを無視しまくった立場にいるからです。

ココらへんは、永遠に平行線ですね。

じゃあどうすればいいのか!と思う人へ。

自己啓発を多く出版しているフォレスト出版から、こんな本が出ておりました。

自己啓発をやめて哲学をはじめよう

自己啓発をやめて哲学をはじめよう

 

この著者は友人が自己啓発にハマってしまい、人生がどんどん狂っていくのを見て、自己啓発なんてやめようぜ!それよりも哲学をすることのほうが、人生にとって有意義だ!ということでした。

そうです!自己啓発ではない尺度を選べばいいんです!これで安泰!

……しかし違和感に気がつくでしょう。

これも、自己啓発じゃね?と。

いくら著者が自己啓発本ではないと主張しても、「こっちの方が生き方の指針としてより優れている」という論理は、自己啓発の可能性が高いでしょう。これじゃあ本末転倒です。そもそも哲学も「こういうものが公理として存在する」とか「人間をこのように考える生物であるということを前提とする」とかいうものが多い。

前提というのは、面倒くさい部分は省きたいから行うわけです。つまりルールです。またもやルール!人間はルールからは逃れられないようです。

ある現象の特徴を抽出して、他を捨象する。小室直樹は、こういうものを「モデル」と言いました。同時に、モデルは現実世界のものではなく、抽象的概念であり、そこを混合すると人間は破滅するとも言いました。マルクスの生み出したモデルを忠実にやろうとして失敗するぞという予言を、自著『ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく 』で説明しています。

ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく (1980年) (カッパ・ビジネス)

ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく (1980年) (カッパ・ビジネス)

 

人間は思考をするとき、物理世界の全てを認識の中に入れることができません。情報量が多すぎて、頭がパンクしてしまうからです。認識や思考には必ず、捨てる……というより、自動的にふるいにかけられてしまうものが出てきます。その捨てたものが、ほんのわずかなものであったとしても、現実世界という複雑な世界では、大きな誤差が起きます。

じゃあどうすればいいのよ。何を信じればいいの?

どうすることもできません。何を信じるかは自由ですが、幸福になる保証もありません。どんな宗教圏内でも、うつ病は存在しているし、戦争は起きています。

人間を救済する唯一絶対のものはありません。

拠り所は、それぞれの人間で決めるべきです。

宗教でも自己啓発でも自然でもなんでもいい。

自己啓発をしたからといってうまくいくわけではありません。また、脱自己啓発をしたからといってうまくいくわけでもありません。うまくいくかいかないかは、誤差みたいなものです。

自己啓発は本を売りたいので、この方法を試すと、必ず成功します!と書く必要があります。しかしこれは誤りです。唯一絶対のルールなんて人間はまだ発明できていません。なので、「わっかんないけど、こっちのほうがいいんじゃね?」という書き方が良心的でしょう。でも、そうすると本が売れません。

結局は、何が好きなのかを見定めて、自分が信じたものを選んで、それに則って動くことしか我々にはできないのです。

は~あ。3兆円降ってこねえかな。宇宙にオーダーして5年くらい経ってるんですけど、まだ降ってこないんです。クソが。