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合理的な学習方法なんて無いよね──『知的生産の技術』を読んで

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

  • 作者:梅棹 忠夫
  • 発売日: 1969/07/21
  • メディア: 新書
 

岩波新書『知的生産の技術』を久しぶりに読んでいたら、良いこと書いてあるなと思った部分があった。

 これはひとつの問題提起なのである。

 (中略)

 どのようなものであれ、知的生産の技術には、王道はないだろうとおもう。これさえしっていたら、というような安直なものはないだろうとおもう。合理主義に徹すればいい、などと、かんたんにかんがえてもらいたくないものである。技術という以上は、ある種の合理性はもちろんかんがえなければなるまいが、知的活動のような、人間存在の根底にかかわっているものの場合には、いったいなにが合理的であるのか、きめることがむつかしいだろう。 

著者の梅棹忠夫京都大学の理学博士だった。Wikipedia教授によれば、「情報産業論」や本書『知的生産の技術』で取り上げられているカード、所謂「京大式カード」による知的営みなど、都度センセーションを起こした人物とある。

梅棹忠夫 - Wikipedia

上の引用の、どこに惹かれたのかというと、「合理主義に徹すればいい、などと、かんたんにかんがえてもらいたくないものである」という部分だ。この本は知的生産の技術について書かれた本であるので、コンセプトに反した文章なのではないかと思うかもしれない。しかし、著者はあくまでも、本書を知的生産の技術に対する問題提起の書として書いている。「こんなふうにしてみたら?」という問いかけに留めている。

ここが、押し付けがましい自己啓発・ハウツー本とは一味違う。知の免許皆伝者でありながらも、こちらに寄り添うような謙虚さがある。なんだかこの本の言うことを聞いてみてもいいかもしれないという気持ちになる。その点で良書である。ところで、本書の技術を活かすことで、知的生産力がアップするかは、読者との相性による。そんな無責任な!いや、それでいいのだ。むしろそれが自然だ。

社会人は、個人の実力が問われる時代だと思い込ませたい企業、出版社の仕掛けるマーケティングに洗脳された上司からの純粋圧力、同僚や友人からの同調圧力などによって、知的生産に欠かせない学習の機会を強要される。

する気も無い勉強をすることがどれほどつまらないものであるか、ということを学校生活9~16年間(人によっては1年~2年)で身を持って体験したのにも関わらず、英会話、マーケティング、ビジネスモデル、人材育成、経済学、プログラミング、AI、デザイン……などを「本当に必要あるのか」とブリブリ文句を垂れ流しながら机に向かう。

しかし、面白くもない時間をいたずらに消費するばかりで、自分のことを苦行に勤しむ仏陀のようだとか、このままいったら悟りが開けるかもしれないという身の程知らずな妄想にふけるか、早々に諦めて、TwitterFacebookInstagramYou Tubeニコニコ動画、XVIDEOS、Pornhub、Pixiv、エロ同人誌など、現代の悪魔達が放つ強力な誘惑に向学心を上書きされるのがオチなんである。

向学心が誘惑に負け続けると、次に出現する煩悩がある。「手っ取り早く学べる方法は無いものか」と言う煩悩だ。すると、『知的生産の技術』のようなタイトルの本を手に取る。しかし、この態度はまさしく『知的生産の技術』が「やめてくれ」と言っている、合理主義的な発想である。そして煩悩に負け、効率的で努力要らず、コスパの高い勉強法を虱潰しに調べていった結果待っているのは、「そんなものは無いので、コツコツやるしかない」という真理である。腹をくくってこの垂らされた蜘蛛の糸を登るしか無い。

認知科学の発展に伴い、効率の良い学習方法が明らかになったと言われる一方で、その学習方法を続けても、なかなか、あるいは全く学習効果が無いという場合がある。それは無関心、無気力、三日坊主、やるやる詐欺、なんと呼んでもいいが、「学習過程で微塵もポジティブな感情を抱けなかった」という場合だろうと思う。プラスの情動は行動するときに欠かせない。

何か行動を起こし、それを続けられる可能性が高いのは、「その行動そのものを好きになる」か、「よほど必要性を感じるか」の2パターンしか無いのではないか。

「好きであるからこそ行わない」「必要と思うからこそ絶対やらない」という人がいたら、天の邪鬼か嘘つきである。よほど部屋の掃除が好きである、あるいは必要であると思っている人間でない限り、私的空間は汚れていく。それと同じように、学習が好きである、必要であると思う人間でなければ、能動的な学びの態度はいつまで経っても形成されない。ではどうやったら学習を好きになるのか。はたまた必要だと思えるのか。

ここが科学で解明できていない部分だ。

「人はどのようなときに好ましいと感じるのか」という問題は、哲学、心理学、認知科学、脳生理学、宗教、占い、音楽、小説、お笑い、ポエムなどの歴史と権威ある分野が研究に研究を重ねた結果、未だに解明されていない。

マウスでの実験やら脳波計やらfMRIやら、物理的な脳の反応を見ることができる装置が出現し、脳内物質の出方や、脳の特定の部位(報酬系など)の血流活性化など、確からしい事象が確認できるようになっても、「あるものが好きである」という主観的な情報の動きを解明したことにはならない。現在分かっている確からしい情報は、統計的情報か、それをモデル化したもので、あくまでも「傾向」であって「原理」ではない。

どのようにモチベーションを維持させるのかという研究分野が一定以上の成果を上げられないのも同様である。ある行為の必要性を感じさせるには、その行為の結果に対してプラスの情動が働く必要があるが、情動というブラックボックスを科学が解明していない現段階では、ユニバーサルなメンタルコントロールテクニックをデザインすることはインポッシブル。ライクキッチンにラーニングをトゥギャザーしようぜ。

というわけで何が言いたいかというと、情動のレベルで納得しないと、人間はロクに動けないし学習もしないので、「効率的な」「合理的な」という言葉が頭につくハウツーを知るよりも前に、「何をするか」「なぜするか」を考えることに、多くの時間を割いたほうが良い気がするということ。そもそも、引用部分にも書いてある。「知的活動のような、人間存在の根底にかかわっているものの場合には、いったいなにが合理的であるのか、きめることがむつかしい」のだ。というか不可能だと思う。

偉そうにここまで書いておいてなんだが、僕は学習することが苦手だ。読書は趣味に近く、読んだ内容は大概忘れている。自己啓発本難民だった時期は、何でも学習しなければならない!と本気で思っていた節があった。今は気楽なもんで、読みたい本を、読みたいように読んでいる。知的生産からは程遠い人間が偉そうに長々と書いてしまった。しかし、1つの文章から膨らまして自分の意見を述べるというのは、立派な知的生産ではないかな。……自分で書いていてこれほど苦しい文章はあるまい。

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

  • 作者:梅棹 忠夫
  • 発売日: 1969/07/21
  • メディア: 新書