点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

凡人で良かった

特異な才能が無いことを卑下するというのは、僕に限らず多くの人間が経験したことがあるだろう。ポスト世界に一つだけの花世代は、自己の無二性と弱肉強食の社会システムの間で、見えない何かに羽交い締めにされる。

前者は大概ないがしろにされ、後者によってルサンチマンを増幅させられて、不平不満を募らせ、SNSの鍵アカウントに愚痴をもらす。このような人には、世界は才能人で溢れかえって見える。少し前の僕がそうであった。どうして自分には才能というものが枯渇しているのだろうか。そして、そう思うなら、才能を開花させるような努力をすれば良いものを、一向に動こうとしない自分に腹を立てるのだ。

しかし、よく考えると、そんな凡人であることは、実に幸福である。

凡人は、上を見ても、下を見てもキリが無いのだということを体感することができるポジションなのだ。これによって、他者比較がいかに無意味であるかということを体感できる。キリが無いことに悩むことが無意味であることくらい、小学生にでも分かる。キリが無いことを考える行為自体を楽しいと感じない限り、精神に良くない影響が出る。ストレスを感じながら、無量大数よりも大きな数字について考えている人が目の前にいるならば、「そんなに嫌ならやめてしまえ」と言える。電車に乗る前にビクビクしながら脱線事故の可能性について考えている人がいたら、「精神科に行きなさい」とアドバイスができる。凡人である以上、自分以外の人間と、自分を比べることは、無意味だ。必要以上の競争世界から、いちぬけた!が可能なんである。

何かの才能があると、キリが良いところで順位がつけられる可能性がグンと高くなる。なまじスポーツの才能、歌の才能、演技の才能、絵の才能、ビジネスの才能などがあったものなら、たちまち競争原理に絡め取られる。格付けの餌食にされ、好成績を収めることを社会から要求される。要求に答えることに成功し、何かの分野でトップになれば、今度はそれを死守することを要求される。果たしてこれが幸福なことであるか。

もちろん、才能に恵まれれば、凡人には味わえない体験ができるだろう。しかし、その人は凡人の人生をおくれないのだ。一度切りの人生、凡人に終わりたく無い、爪痕を残したいという人もおるだろうが、平々凡々に終わることの、いかに難しいことか。そもそも何をもって平々凡々であるのかという判断基準が存在しない。なので自分で基準を作る必要がある。

僕の場合、凡人とは、社会が仕掛けてくる「努力せよ」「成長せよ」の声には耳を傾けず、自分にとっての「普通」をありのままに生きることでのみ、なることが可能である。ちょっとでも才能を開花させそうになったら、承認欲求の誘惑に打ち勝ち、それを辞退する。で、やりたいことだけやる。もっと言うなら、自由時間にやりたいことだけやる。それ以外、無理してやらないことが、凡人の条件である。

凡人であれば、才能の萌芽さえ無いはずだ。凡人は、「何気なく」生ききることで、親しい人間に記憶されながらも、死後は三世代ほど立つと、人々の記憶から消える。それをいいとも悪いとも思わず、受け入れている。これが凡人である。自分の中の可能性を他人から指摘されても、自分の気が進まなければ、それを育むことをしない。これは、怠けの才能でもない。怠けようともしていないからだ。常に自然体であることによって、凡人は完成する。

現在、僕は僕の基準とする凡人に、最も近い生き方をしている自負がある。心はまったくの凡人である。才能が無いと思い悩むことが無くなった。胸を張って凡人である。無才能であるから、何の気なしに様々なことに首を突っ込める。新しく挑戦したいと思ったことができなくても、自分は凡人であるから、まあこんなもんだなとリラックスできる。

凡人で良かった。そう思えるくらいには、僕は元気なんであります。

凡人道 役満狙いしないほうが人生うまくいく

凡人道 役満狙いしないほうが人生うまくいく

  • 作者:ひろゆき
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本
 

ちなみにこれは僕の凡人基準からすると、エセ凡人を育てる自己啓発書である。人生うまくいったら、凡人ではない。「どっちつかずの人生に、いいも悪いも思わず、言わない。」

これが凡人である。