点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

思考過程200617

僕はあらゆる改善をやめた。これは前の記事で書いた。

 

achelou.hatenablog.com

 

改善をやめてみると、いろんなことが、「やらなくて良いこと」となる。僕が「やらなくては」と思ったことは、ほぼすべて、別にやらなくて良いことであった。極論的ではあるが、一個人が認識できる世界にある「問題」は、視点を変えれば問題でもなんでも無い。

僕が貧乏であることは、他人には関係ない。僕が日本という資本主義を採用している国で生活する上では非常に問題だが、僕以外の人間が困ることは特に無い。せいぜい、僕と遊びたい人間がいたとして、その人達と金のことを気にせずに遊ぶことができないくらいのもんだ。もしくは家族が心配するくらいだ。僕が住んでいる地域や、社会や、国や、宇宙からすると、本当にどうでもいい問題である。

僕が掃除ができないことは、他人には関係ない。害虫の巣になるレベルで汚いわけでもないし、異臭がするほど洗濯物をためているわけでもない。ちょっと本が多く、洗濯した衣類が床に散らばっているだけだ。

僕が太っていることは、他人には関係ない。家族や友人からしても、だらしのない体型の人間が自分の知り合いにいるというだけだ。体臭や汗のケアをしていれば、不快感を与えずに済む(汗についてはケアできないレベルの汗かきだから……どうしよう)。太っている人間が友達であるのは嫌だという知人が現れたら、そいつと縁を切れば良い。

僕がうつであることは、他人には関係ない。僕がうつであるのは、誰のせいでもなく、僕の責任であるから、医者以外の他人が改善の為に頑張る必要は無い。場合によっては、僕の病状を理解しなくても良いし、僕といるのが辛いなら、離れていっても良い。

うつになったのは、他人からしたら、僕はただ運が悪かっただけだ。様々な要因が絡まって脳がバグってしまっただけだ。運が悪いことに、長年バグが発生しやすい条件を無意識のうちに揃え、見事バグ技が発動してしまっただけだ。誰のせいでもない。強いて言うなら、気が付かなかった自分の責任だが、そんなことを今更考えても遅いので、思考するだけ無意味に近い。

どれもこれも、自分以外の存在から見ると、大した問題ではない。上記は僕が「改善しなければ」と思い込んでいたものだ。自分の世界だけでこれらの問題について考えていると、「改善しなければ」となりやすい。

貧乏は餓死の連想という、個人的な死の恐怖の想起で、改善しなければ最悪死ぬ(と思い込んでいる)。掃除ができないことは個人的な活動範囲の快適性が下がり、幸福が遠のく(と思いこんでいる)。肥満であることは、循環器系の疾病という個人的な健康状態の問題で、最悪若くして死ぬ(と思い込んでいる)。うつ病改善への夢に至っては、自分自身のキツい体験をこれ以上したくないという煩悩でしかない。

どれも解決しなくても、自分しか困らない。もっというと、もしかすると、自分にとっても困らない問題の可能性もある。そんなことで悩んでいても、なんだか損だしね。

だから僕は、やはり、あらゆる改善を一旦ストップして、その時自分がやりたいと思ったことだけをやることにした。そう思ったところで、皮肉なことに、ひとつのコンプレックスが改善された。

誰かの意見にすがり、コントロールされていないと、どこか自信が無くなってしまうという自分の性格が、わずかに変わり始めている。人は成長をすることを意図的にやめても、無意識のうちに学習し、何かしらの問題を解決し、現状を改善してしまう生き物なのかもしれないな、と思えたのは、良い兆候。きっとね。